傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

レストランの開会式

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにレストランの営業は20時まで、アルコール類の提供は19時までが推奨されている。わたしの好きなレストランも軒並みそうしている。
 そのうちの一件に予約の電話をかけた。17時一斉スタートですべての客に同じコースを提供する形式にしているということだった。こうするしかないので、と店主は言った。いつものようにアラカルトもやりたいのですが、とてもできません。それでもよろしければ、どうぞいらしてください。17時に伺いますとわたしはこたえた。

 さて、17時に開店、同時にスタートということは、その五分前ほどに到着すればよいか。通常レストランに行くときにはそんなに厳密にやらないのだが、なにしろ一斉スタートである。全席埋まった状態で美しく17時を迎える、みたいな感じにしたい。わたしは同行の友人にそのように話し、わざわざ少し前に待ち合わせ、駅前のドラッグストアで時間をつぶして、きっちり五分前に店のドアをあけた。他の席はすでに埋まっていた。
 各席気合いじゅうぶんである。わたしたちはゲート前の競走馬のごとく開始のときを待った。運動会の徒競走で使う空砲みたいなやつがあるといいのにな、とわたしは思った。
 しかし現実はわたしの妄想を越えていた。シェフがやけに本格的な音響装置の前に立ってマイクをにぎったのだ。まさかの「開会宣言」である。わたしはおおいに愉快な気分になり、最初の一杯をシャンパンにすることにした。だって、なんだかおめでたいじゃないか。

 そんな真剣な姿勢で外食したくないという人もいっぱいいるだろう。店の都合に合わせるのがいやだという人もいるだろう。でもわたしたちは合わせる。不要不急とされるぜいたくな食事を親しい人とすることなしに、わたしの人生は成り立たない。わたしは祝祭的な皿の数々を要し、それを出す場であるレストランに急ぐ。
 疫病禍で変更された規範にはそれなりに適応している。幸いに職があり、住むところもある。精神の健康も保っているつもりだ。それでもわたしは近ごろ、こんなに愉快な気持ちで笑うことがなかった、と思う。
 なぜかといえばたぶん「何ヶ月ものあいだ、自分が予測できないことが起きなかった」からである。

 たとえば同じマッサージでも自分でするのと他人にしてもらうのでは後者のほうが気持ちいいのだと、ものの本で読んだことがある。著者が言うには、ほどよく予想外であることが快楽には必要で、それは自分ではできない(自分の動きは自分で決定するから)、だから他人のマッサージを必要とする、とのことだった。たしかに、同じ場所を同じ力で押すにしてもセルフマッサージより人にやってもらったほうが気持ちいい。
 マッサージだけでなく、生活そのものに予想外が必要なのだと思う。あまりぶっとんだ予想外ばかりでは疲れてしまうが、ほどよい無害な予想外があるから生活の気持ちよさが上がるのだと思う。
 疫病の流行は大いなる予想外だったけれど、その後の生活ではひたすら選択肢が減り行動範囲が狭まり、そのために予想外の喜びがうしなわれた。日常の中で出会うよきできごとのほとんどすべてが予測の範囲内になった。わたしはそのことに、たぶんうんざりしていたのだと思う。

 料理を食べに来たら開会宣言があるというような、ちょっとした予測範囲外のおもしろさ。わたしの生活からうしなわれていたのは、そういうものだったのだ。疫病が流行する前、わたしは知らず知らずそういうものの獲得のために休暇を使用していたのだ。
 感染拡大防止のため、自分にとって重要でない人とはできるかぎり顔を合わせず、知らない土地をふらふらすることもない。そうすると生活は定型化し、予測範囲外のことは起きなくなる。自分の世界を小さく小さくして、安全志向で、できるかぎりのことを自分でするようになる。そうした状勢を反映してか、自分の機嫌は自分で取れ、といった言説がはやったりもした。わたしはそれが上手いほうだと思うが、人にしろと言われてするものでもないように思う。権力がある側がない側に機嫌を取らせるのが問題なのであって、あとは他人に頼ることがあってもよいのではないか。
 セルフマッサージも上手になったが、セルフでは解決しない欲求もある、つまりはそういうことである。

 受け取ったものは返したくなる。だからわたしもこれから誰かにささやかな「予測範囲外」を提供したいと思う。美しくて奇妙ですこし滑稽で素敵な、レストランの開会式みたいなものを。