傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

年頭所感、または退屈に殺されなかった日々

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために人々が移動しなくなり、特定の産業では業界全体が大きな打撃を受け、各社に激震が走った。僕の会社もそのひとつだ。
 僕の会社といってもほんとうに僕のものなのではなくて、当たり前だけど、株主のものである。僕は経営上の責任者にすぎない。すぎないが、着任した途端に疫病が流行したので、去年は、なんていうか、死ぬかと思った。俺と会社の両方が。

 僕は生え抜きのトップではない。疫病前にすでに斜陽だった会社の刷新のために外資出身の人間を入れるという人事であって、そんなに華やかな話ではなかった。トップになる数年前に入社し、諸々のしくみを変え、そのプロセスでさんざっぱら人に憎まれ、そののちに就任、直後の疫病禍である。新社長(僕)は病むか辞めるか自殺するのではないかと、もっぱらの噂だった。
 もちろん僕は死んだりしない。死にそうだとは思った。そして僕は死にそうだと思うような状況が実は好きなのだ。子どものころからスリルに目がなく、退屈がほんとうに嫌いで、安定という語になんの魅力も感じたことがない。
 だから、誰にも言わないけれど、疫病下で会社も業界もめちゃくちゃになって毎日大嵐の中で舵取りしているような状況を、僕は楽しんでいる。死にそうなのが好きで、死にそうじゃないほうが個人的には死に近い、そういう人間なのである。

 だから僕はもちろん辞めないし病まない。なんならめちゃくちゃ健康だ。こういう楽しい(すなわち過酷な)状況ではいつも頭をクリアにしておきたいので、早起きして筋トレとかヨガとかやっている。間食はスムージーや素焼きのナッツである。
 退屈な時期にはそんなものに見向きもしない。酒量が増えて他人のアラばかりが見え、食に対する興味が薄れて、運転中隣の車線の車が蛇行した瞬間なんかに「あのトラックがこっちに突っ込んできてクラッシュしたとしても、まあいっかな」と感じて自分でびっくりする。その種の不健康さにつける薬は困難な課題しかない。そしてこの状況下での会社経営ほど困難な課題もそうそうない。

 僕の精神はそのように奇矯なところがあるけれど、それでも邪悪ではないので、他人の不幸はいやである。世界をよくしたいと思う。いや、まじで。実際のところ、それ以外に長い長い人生の退屈をしのぐための目標として適切なものがないのだ。
 そういうのを邪悪と呼ぶか心優しいと呼ぶかはその人の勝手である。もちろん僕はそんなこと人に話しやしないから、どうとも呼ばれない。自分でもどうとも思わない。

 とりあえず僕の会社とグループ企業で働く大量の人々によき雇用関係を提供したいと思う。あわよくば業界を改革してもっとたくさんの人の生活を向上させたい。それが今の僕を支える退屈しのぎのゲーム、僕を生かす重要な課題である。
 だから疫病自体は憎い。憎いのに、僕に毎日のスリルを提供しているのもまた、疫病なのである。
 感染症の流行がおさまって僕の会社が安定するといいと思う。でもそうしたら僕はどうなるのだろうとも思う。社長就任のニュースで年齢が強調される程度には若く、感染症に対するリスクが低いグループに分類される、やたら身体頑健な、だからきっとこの疫病で死ぬことのない、僕は。

 社員向けの年頭所感のライブ配信の原稿をチェックする。自分の作文ながらたいへんエモエモしい。そういうスピーチは得意なほうである。慰撫と鼓舞、共感と挑発。そんなのはもちろん茶番だ。でもみんな茶番が好きなのだ。誰にも予測できない困難の中、それでも勝つのだという演説。

 勝ったらどうなるのだろうと僕は思う。これ以上の困難はきっとない。今の会社を軌道に乗せたあと別の潰れそうな会社に雇ってもらったとしても、ここまでの嵐はきっと来ない。
 舌の裏が甘苦くなるような重圧。判断材料も時間も足りないまま迫れられる選択。「知るかバカ」と叫んで床にひっくりかえって暴れたくなるような予測不可能なできごと。僕はそのような困難たちを愛していて、そして今、思いもよらない相思相愛を得てしまった。永遠の愛を誓いたい。でも僕の相思相愛の相手は永遠ではないし、永遠であっては世界が救われないし、なんなら僕も救われない。

 疫病はいつか収束するだろう。僕の会社は劇的に回復するかあっけなく潰れるか、するだろう。そのときのことを、僕は意識して考えない。

きみに来るサンタクロース

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。その影響でペットを飼い始めた人の数が前年比で十五パーセント増えたとのことだ。わたしもそのひとりである。数年後に犬を飼うつもりだったのを前倒しした。
 子犬が家にいるというのは貴重なシチュエーションなので、幼犬のうちに友人たちにたくさん遊びに来てもらった。なかでも小さい子どもたちのいる友人にはことのほか喜んでもらえたので、わたしも嬉しかった。

 忘年会を兼ねたホームパーティで子どもたちに再会すると、彼らはクリスマスにもらったプレゼントをひとしきり自慢し、それから言った。りんちゃんは何もらったの。
 りんというのはわたしの犬の名である。わたしはおやつセットと新しい首輪の写真を見せ、これ買ってあげた、と言った。すると子どもたちは顔を見合わせて尋ねるのだった。サンタさんには何もらったの?
 しまった、とわたしは思った。自分に子どもがいないのですっかり忘れていた。日本の多くの未就学児ないし児童にはサンタクロースが来るのだった。わたしは冷静をよそおって彼らに教えた。りんは犬だから、サンタクロースは来ない。サンタクロースは人間の子どものところに来るんだ。すると彼らはめげずに言う。サンタさんに頼んであげたらいいのに。そしたら来るよ。
 そういうシステムになっているのか。なるほど、保護者がサンタクロースに依頼する形式であれば、子のほしいものを的確に買ってやることができ、合理的である。しかし、子どもはあくまで保護者ではなくサンタクロースに頼んでいるのだから、とんでもないものを欲しがった時に困るのではないか。それこそ犬とか、カブトムシとか。ぜったいいるだろう、冬にカブトムシほしがる子。サンタクロース特別法により生体の輸送は禁じられている、みたいなサブストーリーが必要である。

 子どもたちが遊んでいるのを横目に大人たちの飲み会をやる。今年は参加者がふだんの半分しかいない。感染症のリスクがあるからだ。わたしたちはそのことにすでに慣れてしまった。それぞれが私的な人間関係にカテゴリを作り、会ってよい相手とそうでない相手を明示的に分けることに。中には同居家族のほかには誰にも会わないという人もある。
 それにしてもどうしてサンタクロースはこんなにも長く定着しているのかね、とひとりが言う。日本人には宗教的な背景もないんだから、要するにやたら手間のかかる作り話じゃん。廃れてもおかしくないと思う。でもわたしたちが子どものころからずっとずっと続いているでしょう。保護者の側、大人たちの側がサンタクロースの話を好きなんじゃないかと、わたしなんかは思うんだよね。そういうファンタジーを必要としている。空から誰かがやってきてすごくいいものをくれるというお話を。

 わたしは友人の話を聞きながら、なるほど、と思う。わたしが子どもたちと話しているときにサンタクロースのことを忘れていた理由は、自分に子がないからというだけでなく、わたし自身にはサンタクロースが来たことがないからである。そういう生育環境ではなかった。
 でもわたしもサンタクロースの話は好きだ。わたしが小さかったころには、友だちの両親が「おまけのサンタクロースだよ」と言ってプレゼントをくれた。男の子からはじめてプレゼントをもらったのもクリスマスで、パッケージにサンタクロースのシルエットがついていた。
 そういうのは「本物」のサンタクロースじゃない、と言われたこともあるけれど、わたしは本物だと思う。だって、サンタクロースはお空からやってきてすごくいいものをくれるのでしょう? 赤の他人がやさしくしてくれるなんて、ほんとに空から落ちてきたいいもの以外の何者でもないよ。わたしは自分もそのようなものでありたいと思うよ。

 飼い犬におやつセットを買い、友人の子どもたちにちょっとしたプレゼントをあげた。でもまだクリスマス的にじゅうぶんではないな、とわたしは思う。もうクリスマス終わっちゃったけど、わたしは職業サンタクロースじゃないから、ちょっとくらい遅れてもいいのだ。誰に何をプレゼントしよう。
 わたしは毎月、発展途上国の女子教育に定額を寄付しているのだけれど、今年の年末はそれに加えてどこかに寄付をしよう。なにしろこの状況だから、まずは医療従事者、それからふだんから鑑賞者としてお世話になっている芸術系のどこかに寄付しよう。なぜならわたしはサンタクロースだから。

夫の無職とわたしの生活

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから長い時間が経ち、疫病とそれに対する政策のあおりをうけた企業の事業撤退や縮小、売却、倒産が相次いだ。わたしの夫の職もそのようにしてあやうくなった。だから無職になると夫は言い、そうかいとわたしはこたえた。
 夫は自分がこれまで身につけたスキルを検討し、疫病下の世の中では買いたたかれると判断して、しばらく社会人向けの職業訓練プログラムに(オンラインで)通って、それから転職するということだった。真面目である。わたしだったらしばらく不貞寝してると思う。あと一日中ゲームやってると思う。

 Zoom会議をしていると生活音が入る。もうみんな慣れっこだが、今日の相手からは、ご家族いらっしゃるんですか、と訊かれた。いますとわたしはこたえた。ご主人ですかと重ねて訊くので夫ですとこたえた。お仕事なにしてる人ですかと訊かれたので無職ですとこたえた。相手は沈黙した。そして話題を打ち合わせ内容に戻した。やった、とわたしは思った。二人きりの打ち合わせでやたらとプライベートなことを聞きたがる相手で、ちょっと困っていたのだ。

 晩ご飯を作りながらことの顛末を話すと、彼はそりゃあいいねえと言ってげらげら笑った。わたしたちはおしゃべりだ。わたしたちはともに料理をする。交代ですることもある。どちらもしないこともあるし、どちらかだけができないこともある。その場合はカネで解決する。
 わたしたちは掃除が嫌いで、たがいの持ち場にいやいや掃除機をかけている。一ヶ月に一回掃除日をもうけ、ふだんはろくにしない拭き掃除や磨き掃除をやって、「なんて立派なんだ」「掃除をするなんて偉大なことだ」と互いをたたえてその日は豪華な外食をする。

 わたしは夫を恋愛的な意味でも好きだが、それはたまたまである。わたしが彼を選んだのは生活のためだ。わたしの理想の生活のためだ。わたしは誰かと一緒に住むならカネも手間も二分の一ずつ持ち寄りにしたかった。名前のついた家事を分担するだけではない。女だけが洗面所を拭いたりタオルを取り替えたり麦茶を作ったりトイレットペーパーを補充したりするのでない家にしたかった。苦手なことがあれば口に出して話して割り当てを調整する、そういう関係がよかった。だから夫を選んだのだ。
 たとえ「女だから」系の要求がなくても、たとえばわたしの掃除は雑だから、日々の丁寧な掃除を要求する人とは暮らせない。そういうこまごまとした相性が合うことは大切だ。なにより理屈の通じない人とは暮らせない。理屈の通じない人はいっぱいいる。夫は理屈と感情でしか話をしない。そして「これは感情の話」とちゃんと言う。そこが最高だ。

 そこまで話すと夫は薄ぼんやりした顔で、理屈と感情以外になんかあんの、と言う。だって私生活だよ、理屈と感情以外に判断要素なくない?
 規範、とわたしは言う。常識、と付け加える。当たり前、とたたみかける。夫は掃除日以外に掃除の話をされた時と同じ声音で「あー」と言う。その存在は知っています、という程度の意味である。それから言う。
 なんかこう、人格がそういう変なルールでできてる人、いるよね。色恋とか結婚とかの話でとくに目につく。尊敬しちゃうような女にはたたない系の男とか、男の名刺と結婚しちゃう系の女とか。それはまあ好きにしたらいいんですよ、そういうフェチなんだから。ある意味すごく高度な変態だ。ペアーズのプロフで抜けるんじゃねえか? すごいな。エコだ。だけど俺に同じタイプの変態になれと言われても困る、俺のフェチは別のところにあるので。
 わたしは「口が悪い」と繰り返しながらげらげら笑い(わたしも口が悪いのでお互い様である)、それから、彼には彼の鬱屈と憎しみがある、と思う。恋愛と結婚を切り離して考えない、そのくせ旧来型の性役割分担には乗りたくない、彼の。

 わたしたちは行けなくなった海外旅行の話をする。わたしたちはベランダのプランターで育てている植物の話をする。わたしたちはたがいの友人の話をする。それからもちろん、わたしたちの生活の話をする。今週の買い出しの日程を決め、年末年始のたがいの予定を確認し、洗濯機の買い換え計画を延期する(夫の就職が決まってからということで)。
 夫はわたしと一緒に暮らし始めたとき、「完全なイーブンはまぼろしだけど、フェアであることはやめたくない」と言っていた。そしてそれは嘘ではなかった。そんな男は石油王より貴重だとわたしは思っている。いや、石油王を兼ねてくれてももちろん大歓迎だけど。おもしろそうだから。

僕の無職と妻の関係

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。僕の勤務先は人が出歩かないと儲からないところだったので潰れた。
 そこで今後を案じて新しい技能を身につける勉強をしつつ、しばし無職を楽しむことにした。ほんとうは無職になったら世界一周したかったんだけど、僕が世界一周できる状況だったら僕は無職になっていない。つらいところである。
 僕はふだんの生活にあまりお金をかけないたちだから、貯蓄でしばらく保たせることにした。疫病のために人づきあいも極端に減ったから、家賃もふくめて月に十万あれば生活できる。
 もちろんひとりきりだったら、いくら質素でも十万じゃやれない。でも僕には同居している結婚相手がいるからやれる。人間は寄り集まって生きると安く上がる。家賃も光熱費も食費も、二人で住んで二で割れば、一人暮らしよりずっと安い。安く上げてできた余剰で子どもや病人をやしなうといいよなと思うけど、しばらくは無職の自分をやしなうことにする。
 そこまで話すと友人は絶句し、奥さん怒ってるんじゃない、と言った。僕はちょっとびっくりして黙り、それから言った。なんで。僕が僕の職を変えるんだよ。僕が一時的に無職になるんだよ。妻、関係なくない?

 いや、あのね、と友人は言った。あのね一般的に夫が無職になると妻はショックを受けてネガティブな感情を持つのよ、なんなら離婚になるかも。
 僕は反論した。それはさ、割り勘じゃない家のことでしょう。所得の高い夫が妻に家事をまかせて生活費を出す家もあるもんね、そういう家なら、夫が退職したら妻も失職するようなものだから、夫が勝手に無職になったら、そりゃ困る。あと、一緒に貯金をしている場合も相手の稼ぎがダイレクトに影響するな、そういう場合も結婚相手の所得が減ったら気を悪くするかもわからない。
 でもうちは家計も家事も割り勘、育児も発生してない、貯蓄も別。だから僕が無職になっても妻が怒る理由はない。えっと、僕が無職期間のあと就職できなくて自分のぶんの生活費が出せなくなったら怒るかもわからない。結婚すると相手に扶養義務があるから、そりゃ怒るよね、元気で働ける状態なんだから自分の分は自分で出せって言うと思う。でも、僕は就職できる。最悪できなくてもうちの家計負担なんてバイトで稼げる程度なんだよ。だから妻が怒る場面は生じない。実際「無職まじうらやま」って言われた。相変わらずご機嫌な女なんだ。

 友人は絶句し、ちょっとまって、と言った。僕は待った。友人は言った。きみはある意味で立派だ。すがすがしいほど理屈に合っている。だが世の家庭の大半はそういう理屈が通るところではない。えっと、多くの人にとって、結婚するということは、収入の一定以上が、なんなら全部が、「家のお金」になることなの。そんでだいたいの場合、女の人が家のことをするの。たとえ収入が同じでも。
 僕はびっくりした。いつの時代の話だ。「家の金」ってなんだ。意味がわからない。もちろん離婚する時の共有財産の扱いは知ってる。別れる予定はないけどいちおう書面を作ってある。でもそれは個人と個人の財産の話だよ。江戸時代じゃあるまいし、「家」なんてないよ。人が寄り集まってるだけだよ。それに僕は、女性のほうが多く家事をしがちなのは労働形態や収入格差のせいだと思っていた。経済的に同等の夫婦でも女の人が家事や育児をやるのか。それじゃ稼いでる女の人が結婚したくないの当たり前じゃん。
 そのようにまくしたてると友人はあわれみをこめた目で僕を見て、ピュア、と言った。理屈どおりに生きている。個人的には、きみにはそのままでいてほしい。でもひとつ聞きたい。どうして結婚したの。その考え方だと結婚する意味、ないでしょう。

 僕は迷いなく、めんどくさかったから、と答えた。僕も彼女も旅行が好きで、一人旅もやるんだけど、たとえば片方が旅行先で事故にあったとき駆けつけやすいのは戸籍が入ってる相手で、そうじゃないとものすごくめんどくさい。引っ越しのときにも籍が入ってないと「どういうご関係ですか」とか聞かれてめんどくさい。うるせえと思う。キモいと思う。だから結婚した。親もそのほうが安心するって言うし。なんで安心するかはいまだにわかんないけど。まあ僕の親はあんまりものを考えないタイプだから、みんなと一緒がいいんだろうね。

 僕がそう答えると友人は苦笑し、きみもある意味で考えてない、と言った。でもそういう「考えなさ」、良いと思う、どうかそのままでいてほしい。

世界の罅とわたしの片耳

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしはもともとよぶんな外出をあまりしないので、他の人ほど苛々したりはしなかった。職場は騒然としてわたしも慣れないリモートワークやら隔日出社やらに振り回されたけれど、本来の仕事はできていたし、感染症の流行で必要とされるタイプの業界だったために会社が潰れる心配もなかった。人手が足りなくてアシスタントの派遣社員を手配しつつ社員の採用を進めたほどである。

 私生活でももっともこの疫病の影響を受けにくいたぐいの人間だと思う。基礎疾患がなく、高齢ではなく、独身独居で家族の感染リスクを気にする必要もない。日常的に会話する友人はいるが、いずれも一対一で会う習慣だ。三人以上で人と会う機会はもとより年に一度や二度くらい、なくなっても問題はない。
 一対一で食事することも憚られる時期にはZoom飲みでじゅうぶんだ。あれが向かないのは大勢の宴会である。一対一ならわりといける。五人以上だと厳しい。多人数での会食はやめておくように要請されているから、大勢で集まるのが好きな人はつらかろうと思う。

 わたしは知らない人と会いたいとか知らない場所に行きたいとか、そういう欲求が薄い。今の自分の生活に満足している。ひとりで部屋で好きなことをしているほうが良い。出不精なのである。精神的にも出不精で、同世代の皆がやっているSNSにも興味がない。他人の生活をことこまかに知ってどうするのかと思う。友人たちとも四六時中連絡をとりたいとは思わない。ひとりあたま二、三ヶ月に一度話をすればそれでいいので、疫病下でもそれはできる。
 友人たちが高齢の親御さんに会えないという話を聞くと気の毒だと思うが、わたしの親は早世してとうにいない。弟との仲は悪くはないが、きょうだいにしじゅう会いたい年齢でもなし、ときどき甥を連れてきてくれればそれでじゅうぶんである。甥はとてもかわいいが、それでもしょっちゅう会いたいというわけではない。

 そんなだから平気なつもりだった。

 前日の夜は友人とZoom飲みをしていた。わたしが中古のマンションを買おうと思っているので、そのリフォームの話だとか、共通の友人の子のクリスマスプレゼントの相談だとか、好きなサッカーチームの話だとかをして、後半はNetflixで彼女のおすすめの映画を流しながらだらだらおしゃべりした。わたしの飲酒量はたいしたことがない。好きなベルギービールの缶をふたつ、あとはお茶を飲んで寝た。

 当日は土曜日だったので朝から掃除をした(わたしは掃除をよくする)。掃除中にものを何度か落とし、不審に思った。掃除のルーティンは決まっているので(引っ越しや模様替えのたびにもっとも効率的な掃除の手順を開発する)、ものを落とすことは少ない。
 そのうち景色が妙に平板に見えてきた。視界がどことなく白っぽく見える。住んでいるマンションの斜め向かいに保育園があって、土曜日にもけっこうな数の幼児が来るのだけれど、その声の聞こえ方がなんとなくいつもとちがう。なんというか、遠い気がする。いつもは「いま泣いてるのはよく泣くあの子だな」くらいのことがわかるのだが(土曜日に家にいることが多いから、近所の保育園のよく泣く子の声まで覚えるのだ)、今日はわからない。耳たぶを触る。そして気づく。片耳が聞こえていない。

 幸い軽症だったとかで、しばらくの投薬で治った。医師はゆっくりと言った。早く来てくださってなによりです。突然の難聴、増えているんですよ。片耳だと意外と気づかずにね、あるいは甘く見て、病院に来ない方も多い。感染症に直接対応する医者にはおよびませんが、われわれ耳鼻科と、あと皮膚科が忙しくなっています。原因の特定はできません。しかし以前より増えているのはこの状況下での疲労と心労のせいと考えるよりない。誰もが何かをうしなっているのだから、ストレスを感じて当然です。おだいじに。

 わたしは何かをうしなったのだろうか。何を? 会社の騒がしい忘年会の、ほしいものがないビンゴゲームを? 弟の結婚相手の親族たちとの、あとから見ることのない集合写真を? 新幹線の道行きが億劫でできれば避けたかった出張の機会を?

 友人に尋ねる。わたしは何をうしなったのかしら。あなたのように旅行が好きなわけでも知らない人に会いたいわけでもないのに。友人がこたえる。わからない。わからないけど、たぶん、世界。世界? そう、あなたが長い時間をかけて作り上げた、堅牢で変化の少ない世界。それに罅が入ったの。

 

まともじゃないから好きだった

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしの交際相手はそのために職場から同居家族以外との会食を禁じられたということだった。同居すれば食事だろうがなんだろうがしてもかまわないので僕はあなたの家に住もうと思う、と彼は言った。どうぞとわたしはこたえた。彼はわたしに気遣いだの「男を立てる」だのを要求しない、とても珍しい男性だったからだ。
 同居したあとも、彼が家事や小さな面倒ごとをわたしに押しつけようとすることはなかった。わたしはだからここ半年ほど、彼と一緒に生活している。

 わたしの自宅は両親から生前相続した小さな二階建てである。一階はかつて町工場だった。簡単なリフォームをして以来、ときどき人を住まわせていた。その相手はみんな女だった。わたしが親しくなったことのある男は女の家に住むという状況が好きではなかったようで、自宅に置いたことがなかった。今回がはじめてだ。
 その話をするとZoom飲みをしていた友人たちはなぜか無表情になった。彼女たちは中学の同級生で、わたしの色恋の話をことのほか好きなのに、このたびは何も言おうとしないのだった。

 わたしは性愛の対象を性別で区切らないので、彼女らはそれをもって「女も男も好きなんでしょ」と言う。
 でもわたしはほんとうは、男は嫌いだ。威張るから。女は嫌いだ。わたしよりも男を好きだから。

 言うまでもなくそれは、わたしが一緒にいたいと思った男や女の話である。Nイコール一桁ずつだ。そうしてそのNの内訳である男たちは結局のところわたしに一方的なケアを要求した。女はそうするものだと彼らはどこかで信じているようだった。わたしはケア供給機ではない。同じくNの内訳である女たちは、彼女らが想定する「男」の役割をわたしに求めた。わたしは、男ではない。
 だからわたしは泣く泣く過去の恋人たちと別れたのである。けれども中学の同級生たちはそれをもって「男にも女にももてて、すぐ相手を捨てる」と受け取る。さらにわたしの職業をさして「芸術家だし」などと言う。
 わたしはピアニストを名乗ることもあるが、その内実はディナーショーの伴奏でピアノを弾くといった程度のことだし、基本的な生活費は大手楽器メーカーのピアノ教師として得ている。疫病下でピアノ教室の受講生数が激減したのでオンラインで語学教師もしている。地味な非正規労働者である。でもわたしを「奔放なバイの芸術家」にしたがる元同級生たちにとって、そんなことはどうでもいいことみたいだった。

 わたしが男の恋人と同居していると話したら、彼女たちはいっせいに無表情になり、それから話題を変えた。わたしはそれにしたがった。その後、LINEで彼女たちのひとりから「その男の人どういう人? ピアノ関係?」「おうちに住ませてあげて生活費出してあげてたりする?」と質問があった。
 彼は勤め人である。わたしの家を間借りしているからといってわたしの銀行口座に家賃を振り込んいる。生活費は割り勘である。その旨を返信すると、LINEはぷつりと途切れた。
 その後、彼女たちからの連絡はなくなった。すでに約束していた会合について連絡しようとすると、彼女たちとのLINEグループは消滅していた。どうやら嫌われたようだった。

 彼女たちはわたしが男とつきあっても女とつきあっても根掘り葉掘り詳細を聞きたがったものだった。今にして思えば、わたしが男とつきあっているときには「結婚しないの?」とときどき訊かれた。しないとわたしはこたえた。法律婚というものが思想的にどうもしっくりこないからである。わたしが結婚しないと言うと彼女たちはどこか満足そうだった。女とつきあっているときはそれよりなお嬉しそうだった。
 薄々気づいていないこともなかった。彼女たちはわたしが「まとも」じゃないから好きだったのだ。「つぶしのきかない」芸術大学に進学し、「ちゃんとした仕事」を目指さず、「所帯」を持たず、「普通の恋愛」をしないから。「すごーい」と言ってはしゃいでいればいい、自分たちの生活とは無縁の話題を提供するから。
 わたしが男の恋人と住んで、だから彼女たちはいやな気持ちになったのだ。わたしが法律婚をしなくても、わたしの自宅の見た目が「普通の家」みたいになったから。わたしがたとえば美しくて働かない男性を養っていたなら、彼女たちにとってはまだ「許せる範囲」だったのかもわからない。でもそうじゃなかった。わたしがそこいらの平凡な男と割り勘で生活しているから、彼女たちの中でわたしの価値がゼロになったのだ。

要求コミュニケーションのゆくえ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでリモートワークが定着してしばらく経ち、出社時のコミュニケーションもだいぶ電子化された。そのためにわたしはものすごくほっとしている。渡邉さんからの働きかけが激減したからである。
 渡邉さんはわたしの部下である。以前の上司から「うまくやるのはたいへんだと思う」と聞いてはいた。高圧的なのか仕事ができないのか、そんなところだろうと思っていたら、そうではないのだった。渡邉さんはある意味でとても正しいのである。そして正しさで管理職のリソースを取れるだけ取ろうとする人なのだった。

 渡邉さんは管理職のミスを指摘する。渡邉さんは高圧的な話し方はしない。ただし話が長い。自分がなぜそれを指摘するのか、本来はどうあるべきなのか、そこから外れることが部下や会社にどういったダメージを与えかねないか、延々と話す。遮ると管理職が部下の指摘を遮ることの問題点について話す。自分の話をぜったいに止めることなく、相手が黙るまで二重音声のように自分の声をかぶせつづける。
 渡邉さんが指摘するミスは重大なものではない。些末なものである。なんならミスでさえない。せいぜい不統一だとか、わかりにくいと解釈されないこともないとか、その程度である。「重大なことではない」と言おうものなら「重大でない問題点をすべて放置しろという命令か? その命令はどのような権限で発令しているのか? あなたにその権限があるのか?」といった追求が繰りかえされる。

 そんなだから以前の上司は渡邉さんの面談要請を断ったり制限したりしたのだそうだ。そうしたら「面談できる者とそうでない者の違いを明示的に示すべきではないか」という要求が、長々とおこなわれた。
 それはある意味で正しい。表層だけ見れば渡邉さんは正しい人なのである。自身の利益のための面談を要求しているのではない。会社全体の利益を考えて問題をただそうというのである。
 以前の上司はそれですっかり疲弊し、部下全員の面談時間を極端に制限して残りのコミュニケーションはメールにするように伝えた。渡邉さんの要求は(なぜか)ずいぶん減ったが、それでも多くはあった。それで渡邉さんのメールの内容は人事部も把握するところとなった。とはいえ人事としても、それとなく話す以外は何もできない、とのことだった。

 そんなだから、渡邉さんが部下になって以降、わたしもだいぶ疲弊した。不統一やわかりにくさを減らすことはできても、すべてをなくすことはできない。誤字脱字などにも非常に神経を使う。理屈に合わない退け方をすることもできない。
 わたしは疲弊しつつ、考えた。なぜ渡邉さんはこのように上司に執着するのか。仕事をした上で(仕事はしているのだ)延々と「問題」を指摘するのは疲れるはずである。さっさと帰って親しい人と過ごすなり、ひとりの時間を楽しむなり、したくならないのか。わたしならマンガ読んで寝たいと思う。
 渡邉さんの前の上司にそうした疑問を投げかけると、彼は、これはひとりごとですけどね、と言い添え、目を逸らしたまま言った。

 あんなに労力をかけるのだから、ああした行為は渡邉さんにとって利益があるのです。僕にはそうとしか思われないのです。そもそもコミュニケーションはすべて要求なのです。その要求がすべて正義のためだなんてありえないのです。
 僕は渡邉さんと同性、あなたは異性、年代もタイプもちがいます。しかし渡邉さんは双方に同じ行動をとる。だから僕らが目的なのではないと思う。なんなら誰でもいいんだと思う。
 もしかして、上司にものを言って会話をすること自体が、渡邉さんの利益なのではないか。「そのとおりです」「それは改善しなければ」といった台詞を得ること、生身の人間が、渡邉さんの目を見て話すこと、それ自体が、渡邉さんの利益なのではないか。渡邉さんはそれが欲しいことを、もしかしたら自覚していないのかもしれない。自覚していなければその行為は渡邉さんの中ではただ正しいばかりです。それで「正しい指摘」を繰りかえすことがくせになってしまったのではないでしょうか。

 そのときは、まさか、と思った。でも対面コミュニケーションが激減した現在、渡邉さんからの「指摘」はなりをひそめている。以前はメールでも送ってきていたのだから、電子媒体を使うことがいやなのではないはずだ。
 そんなだから、渡邉さんの前の上司の意見が正しかったような気がしてくる。すなわち、疫病下で彼の利益はうしなわれたのだ。目を見て話を聞いて声を出して自分の発言を肯定してくれる生身の人間が。