傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

期間限定私設美術館

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしたちは家のなかに引きこもり、ちいさくちいさくなって暮らした。

 最初は都心のデートスポットだった。
 わたしがもっとも好ましく思うデートコースは、都心の高い高いビルディングのてっぺんに近いところにつくられた現代美術館の展示を流して、それからそのビルディングのなかの、美術館よりひとつ高いところにあるカフェで、香りのよいコーヒー、もしくは同じくらいに香り高いビールをのみ、少し話をして、そうして、適切なレストランまで歩く。

 そのような振る舞いを、わたしは好きだった。だからそのときもいつものように恋人と待ち合わせて行った。美術館はその一昨日の夜間に告知して前日から休館していた。わたしたちはその巨大なガラスの前で立ちすくみ、貼り紙を読み、意味もなくスマートフォンで美術館の公式サイトにアクセスして貼り紙と同じ文字を読んだ。それから、しかたがないので映画館に行って、予約していたレストランまで歩いた。

 ほんの少し前の話なのに、今となっては昔話のようである。

 わたしたちはもはや映画館に行くことができない。もちろん、引き続き美術館に行くこともできない。開業しているレストランは数少なく、何かのついでに歩いて行くような場所ではなくなった。人が集まる場所は全国ないし近隣諸国において、なべて「休館」中であり、多くのレストランは「不要不急」であるために営業を自粛している。

 おもてむきには。

 わたしたちは身支度をする。わたしたちはシャツにアイロンをかける。わたしたちは、それをしたかった。わたしたちでない、ふたりの知らない人々のいるところに、わたしたちは行きたかった。

 わたしたちは美術をみたい。美とそのための術をみたい。わたしたちはそのために悪者になった。わたしたちは「不要不急の集まりをしない」という通知に違反している。わたしたちはふだんは行儀良く暮らしている。でも、わたしたちはどうしても、不要不急をしたかった。

 そんなだからわたしたちは伝手をさがした。信頼できる友人にかぎっても、美術作品を所有している人は、いくらかいた。わたしも持っていた。少し前に台湾の画家から買ったものだ。ちょっとしたディナー三回分から十回分くらいの、ごく安いものである。買ったときには東京中のギャラリーが当たり前のように営業していて、海外から画家を呼んだりしていたのだ。ほんとうに今となっては信じられない。

 わたしは美術友だちにメッセージを送った。たがいの絵を観賞する場をつくりませんか。プライベートで。ホームパーティは禁じられていないと思うので。

 わたしたちはそのようにしてこのマンションの一室に集まった。各々のリビングルームやベッドルームから剥がしてきた小品を、あるいはずいぶん大きな作品を、注意深く梱包して抱えてやってきた。

 わたしたちはたがいに持ち寄った絵を並べる。わたしにとってはくだらないものもある。趣味に合わないものもある。意味がわからない作品もある。それでもよかった。美術館のようなものが、ほんの短いあいだ存在して、そこに入れるというだけで、わたしは満足だった。

 この「美術館」活動をわたしがおこなったのは一度きりである。でもそのあとひそやかに同じようなことを、さらに充実した作品量で実現する人が出てきた。自宅を開放し、借り受けた絵を飾る。わたしはできるだけ都合をつけて自分の所有する絵を持って初日に行き、最終日にも行って、所蔵品を引き取って帰るようになった。

 わたしは「美術館」に入る。そこにいる人は、初対面の人をふくめて、わたしの仲間である。わたしたちはどのような状況でも美と術を観たいと思うような一族なのだ。わたしたちは靴を脱ぎ、その場所に入る。不要不急の、ただうつくしい絵を観たいだけの、さみしい人間の集まり。

 わたしたちはそれを観る。日本を中心とした世界各地の絵を観る。作品の所有者のほとんどは収入がさほど多くない。ささやかな額面で買った小品が並ぶ。わたしたちはそれを観る。わたしたちはアイスランドの新進画家のスケッチを観る。わたしたちは韓国の若者の肖像画を観る。わたしたちは自分たちの家から提供した森の絵を観る。雪の降る青緑の、とおくまで続く森の絵である。

 わたしたちはもうどこへも行けないのだと思う。外国にも、大量の作品を観覧させる美術展にも、不要不急が許される世界にも、もう行くことはできないのだと思う。でもわたしたちは最後までひっそりと集まり、期間限定の小さな美術館をひらくだろう。

不要不急の唇

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしたちは必要なものを買いに行くふりをして外出した。わたしと彼の給与の財源はともに税金である。だからわたしたちは行儀よくしていなくてはならない。そうでないと職場に苦情がいく。

 近所にはわたしと彼の職業の詳細を知る人が幾人もいる。だからわたしは「市民感情」において満点をたたき出す役人でいなければならず、彼は「生徒の模範となる」教師のようにふるまわなければならない。いつも。わたしたちの素性を知る人の目があるところでは、二十四時間、いつでも。

 わたしたちはガーゼマスクをつける。わたしたちは手をつながず、あまりくっつきすぎないように気をつけながら歩く。わたしたちは公共の場で失礼にならない程度の、しかし華美ではない服を着ている。どこの家庭にも必要な買い出しのためだけに外出していると、誰が見てもそう思ってくれるだろう。

 でもわたしたちはほんとうはただ歩きたくて歩いているのだ。すべての外出が禁じられる前に。わたしたちは常々、不要不急の外出を好み、休暇のたびに旅行をして延々と歩き回った。でも今はそういうことはできない。だからせめて近所を歩く。

 スーパーマーケットに着く。必要なものはほんとうはもう家にあるので、品切れとわかっているマスクや消毒スプレーのコーナーに行く。ないねえと彼は言う。ないねえとわたしはこたえる。知っていて来たのである。

 道を歩く。夕刻の住宅地の人はまばらで、行き交う人はみな「しかたなく歩いているのですよ」という顔をしている。わたしたちは酒屋に入る。入るときに周囲を見渡して誰も見ていないことを確認する。見られてもぎりぎり問題ない商店ではあるけれど、見られないほうがより安全だ。

 酒屋の中はちょっとしたバーになっている。わたしたちは試飲という名目で一杯ずつ酒を飲む。肩を寄せ合うような酒場に繰り出して疫病にかかったらわたしも彼も非難の対象になる。自己責任で感染源になった咎で職業上の不利益を被る可能性がある。

 わたしたちはほんとうは、週末の夜に外で酒を飲むこともできないなんて不当だと思っている。あからさまなバーに入ると誰に見られているかわかったものではないから、この酒屋が近隣に住む同類の憩いの場になっている。酒場で飲むという当たり前のことを、ただ酒屋に買い物をしにきた体でおこなう場所に。酒屋の主は決して疫病の話をしない。マスクもつけない。

 飲み始めてすぐに顔なじみの婦人が別の女性を連れてタクシーで乗りつけた。ともに華やかな和服だった。今日は銀座で着物でお寿司の日だったの、と言った。いいですねとわたしたちは言った。彼女たちからは「誰が何と言おうとぜったいに人生を楽しむ」という鉄の意志が感じられた。少しうらやましかった。わたしたちにはそこまでの度胸がない。わたしたちは職業上の不利益を少しでも減らしたい小心者である。

 わたしたちは自宅に戻る。わたしたちはマスクを取る。わたしたちはソファに寝そべり、たがいのからだの一部を枕にする。気が向いたらキスをする。この十年間ずっと、わたしたちは始終、物理的に接触していた。でも今では自宅の中でしか接触できない。

 わたしは彼に、卒業式はどうだったのと尋ねる。卒業式はやったよと彼は言う。ただし保護者と下級生は呼ばない。卒業生と僕ら教職員だけ。式典中のマスクの装着を許可したら全員がしてきた。中には家庭で手作りしたという生徒もいた。許可しただけなのに強制したみたいな気分だった。いつもそうなんだ。僕らの仕事はいつも。

 記念写真のために並ぶんだ。わかるよね。毎年やっている仕事のひとつだ。でも今年はカメラマンの背後に誰もいないんだ。下級生と正装した保護者がいるはずの空間は完全な空白。空白を背負ったカメラマンが「はい、撮ります」と言う。全員がいっせいにマスクをはずす。誰も息をしない。カメラマンは連続でシャッターを切る。そして言う。はい、終わりです。その声を聞いて全員がいっせいにマスクをつけて、大きく息をする。もちろん、無言で。

 わたしはその光景を想像する。何百と並んだむきだしの唇。感染源にならないように引き結ばれた大量の唇。「人に迷惑をかけてはいけません」と教えられてきた子どもたちの、ずらりと並んだ静かな唇。

 彼はわたしにくちづける。あるいはわたしが彼にくちづける。わたしたちはいつまでそのような行為が許されるのか知らない。

さよなら、わたしのシモーヌ

 シモーヌとは十四年のあいだ一緒に暮らした。シモーヌは冷蔵庫である。名の由来は冷凍庫に霜が降りることであった。わたしの家に来る友人たちが「いまどきそんな冷蔵庫があるのか」と話題にし、誰からともなくシモーヌと呼びはじめ、わたしもその名を使うようになった。

 シモーヌはわたしと出会った段階ですでに新しい冷蔵庫ではなかった。大学を卒業して寮を出るとき、一人暮らしをやめる友人からもらったのである。大学生の一人暮らし用としては大きめのサイズだった。わたしは自炊をするのでありがたく貰い受けた。

 はじめて一人暮らしをした部屋の中のものはみんな貰い物だった。家具も家電も買った覚えがない。そうした大物にかぎらずわたしはよくものを貰う人間だった。貧しかったからかもしれない。自分では「愛されているからだ」と言っていた。わたしを嫌いな人からは「乞食の顔をしているからだ」と言われた。正直なところ、どちらでもかまわなかった。愛されているからでも。乞食の顔だからでも。

 大学を出た時分に景気が悪く、お金があんまりないベンチャーに就職した。仕事は楽しかったが、お金はあんまりないまま数年が過ぎた。シモーヌが霜をたくわえはじめたのはそのころだった。貰ったテレビが壊れ、わたしはそれを捨てた。一緒に貰ったテレビ台も捨てた。貰った電子レンジが壊れ、わたしはそれを捨てた。貰った掃除機が壊れ、わたしはそれを捨てた。シモーヌだけが壊れなかった。わたしはもとよりテレビをあまり観ないので、テレビがなくても困らなかった。電子レンジを使っていた場面では鍋で蒸すことを覚えた。掃除はクイックルワイパーで済ませた。

 ものが壊れて捨てたら新しいのを買うのですよ。わたしの友人たちは辛抱強くそのようなことをわたしに言い聞かせた。とうとう洗濯機が壊れ、わたしがコインランドリーに通いはじめたときのことだった。彼女らはわたしを家電量販店に連れていき、洗濯機を買わせた。新しい洗濯機を使って、洗濯機は便利だ、とわたしは彼女らに伝えた。そうでしょうと彼女らは言った。いいですか、ものが壊れたら買うのですよ。電子レンジを買いなさい。テレビを買いなさい。掃除機も買いなさい。

 わたしの会社は成長し、わたしはいつのまにかいわゆる人並みより少しだけ多い収入を手にするようになった。わたしは寄付をした。わたしは貯蓄をした。大きな災害があるたびにボランティアを組織し車を借り人々を乗せて運転して現地に通った。それでもわたしのお金はなくならないのだった。「人並み」の居心地は、あんまりよくなかった。どうしてかは知らない。乞食の顔をしているからだろうか。

 友人たちはわたしに源泉徴収票を持ってくるように言いつけ、適正な家賃の額面について教授し、引っ越しを手伝った。わたしは家電を買い、家具を買い、新しくて高価な服を買った。夏には冷房を、冬には暖房をじゅうぶんに使った。快適だった。でもわたしはその快適さを、上手に受け取ることができなかった。

 どうしてわたしは、死ななくていいのか。どうしてわたしは、餓死せず、殺されず、搾取されず、快適な部屋に住んで、愉快に暮らしているのか。家の中で餓死した子どもがいて、家の中で殺された人がいて、家族に殴られつづけている女たちがいて、ただ歩いていたら津波が来て死んだ人が大勢いて、そうして、どうしてわたしは、死ななくていいのか。

 わたしはそのことがどうしてもわからなかった。今でもわからない。

 シモーヌだけがわたしのそのような気分を知っているように思われた。だからわたしは新しい部屋の新しい調度の中であきらかに浮いているシモーヌと、一緒に暮らしていたかった。

 でもシモーヌは壊れた。シモーヌは冷蔵庫である。わたしの家に来たときに製造から四年経っていたとすると、十八年稼働したことになる。ある日、家に帰って冷蔵庫の扉をあけたら、すべての機能が停止していた。冷凍庫をあけると霜はまだ残っていた。わたしはそれをながめ、それから、冷蔵庫の中身を一掃するから食事に来てほしいというメッセージを親しい人に送った。

 わたしはもうひとりで新しい家電を買うことができる。わたしは冷蔵庫を買う。新しい冷蔵庫を買う。古い冷蔵庫を引き取ってもらう手続きをする。ずいぶん古いですね、と家電量販店の人が言う。はい、とわたしは言う。わたしがうんと若かったころに貰ったんです、でももう、壊れたものですから、ええ、ずいぶん長いこと、お世話になりました。

虚構を発注する

 待ち合わせの駅前で降りると友人がいる。近づくと「半分くらいいる」という印象である。存在感がない。気配が茫漠としている。あいまいな微笑を浮かべ、あいまいにあいさつする。よく言えば棘がない、悪く言えば覇気がない。いつもは覇気がありすぎて長時間一緒にいるとちょっと疲れるので、これくらいでもOKじゃないかなと私は思うんだけれど、本人はふだんできることもできなくて困る、と言う。

 友人はぽつぽつと話す。休日をまる一日、ベッドで何もせずに過ごした。仕事は最低限しかできていない。仕事がらみの勉強はほぼ停止している。賑やかな場所に行く約束はみんな断った。インターネット経由ですらコミュニケーションが負担になるのでSNSのアプリはみんな削除した。どうせまた入れるんだろうけど。

 そうかいと私はこたえる。休日ずっとベッドでぐだぐだしているなんて私には日常のことで、一日どころか休みが二日あれば二日そうしているのだし、仕事が最低限になることもよくあって、まあ後でどうにかできるだろうと思って平気でいるのだし、SNSに至ってはそもそもやっていない。

 そのように話すと友人は、マキノと一緒にしないでほしいと言う。そうかいと私は思う。それから、近ごろ悲しかった話をするよう、友人に言う。何もなかったというのなら、漠然とした不安を呼び覚ますものごとについて話をするようにと言う。それもよくわからなければ、いまそのからだに詰まっている疲労の感触について、できるかぎり詳しく描写してほしいと言う。

 情緒が安定しているのは結構なことだけれども、安定の秘訣が「面倒な感情を感じないこと」である人間がときどきいる。この友人もそのひとりである。「悲しい」みたいな気持ちはろくに見ないで、なんかこう、内面の箱みたいなところに突っ込んで、しらっとしている。当たり前だけど、見ないで箱に詰めたものはそのままにしておくと腐る。そうすると人間はだいたい弱る。この友人はそうやって弱ったときに私を呼ぶ。

 私は弱った友人の話を聞く。長い時間をかけて、友人が自分の感情を突っ込んだ箱をなでまわす。その箱は友人のものだからもちろん私には開けられない。でも私は「そんなの悲しいに決まっている」と決めつけ、「よし私が悲しい話を書いてやる」と言う。

 私はおおむね愉快に暮らしているんだけれども、たいそう涙腺が弱い。すぐに泣く。フィクションで泣くのは当たり前で、なんなら自分の想像だけで泣く。毎週泣く。友人から悲しいエピソードを聞いて、それをもとにお話を書くときも、もちろん泣きながら書くのである。

 友人は泣かない。泣くかわりに私に話をする。私はその話に嘘をまじえたりして読み物に仕立てる。友人はそうやって作られたフィクションを読み、「悲しい」と思って、それですっきりするのだという。読んで泣くのと訊いたら、いや、べつに、という。せっかく書いたんだからちょっとは泣けよと思うが、泣かなくても本人の気が済むならまあ良い。

 他人のことなら悲しめる。友人はそう言う。あなたの書く話に出てくるのは、たとえ自分が話した内容と同じでも、ただのお話で、そこに出てくる人は、自分じゃないから、他人事だから、悲しいなと思う、同じエピソードでも自分が渦中にあると、悲しいと思わない、思えない。

 そうかいと私はこたえる。どういう形式でも、出すもの出せたらそれでいいんじゃないかな。その場で怒ったり泣いたりするのも場合によっては考えもので、本人が損をすることもある。そういう世の中に適応した結果、たとえばひとりでいるときにも泣かなかったり、自分の感情を読み取れなくなることもある。あなたはきっとそうだ。

 それを悪いと私は思わないよ。人に話をして相手に泣いたり怒ったりしてもらう人もたくさんいるよ。あなたの場合はフィクションに仕立て上げられてはじめてそこに込められた感情を認識できるわけで、ちょっとこじれてるなあとは思うけど、だいじょうぶ、問題ない。好きにこじれろ。死なない程度にこじれろ。歪みこそが人間の妙味というものだよ。あなたは、調子が悪くなると、私にストーリーを発注して、押し込めた感情を消化している。だからだいじょうぶ。これからも頼りにしてくれていいんだよ。

 下衆だなあ、と友人は言う。マキノはそうやってもっともらしいせりふで、善人みたいな顔して、他人が押し込めた感情を引っ張り出して取って食って「うまい」「珍味」とか言ってる。ほんとうに下衆だ。もちろん、これからもその下衆な楽しみにつきあうとも。おもしろいから。

バーベナ・オブセッション

  わたしたちは会場を出て更衣室に向かう。わたしは周囲を見渡す。彼女とわたしの間に入ってきそうな人がいないことを確認する。わたしはおしゃべりをキープする。わたしは自分のてのひらをスカートの生地で拭く。わたしは彼女の肩に手をのばす。ちょうどいい速度で、ちょうどいい顔をつくりながら。まじで。そう言って、彼女の肩を軽く押す。きちんとダイエットしているわたしの肩のようではない、ちょっとゆるんだ感触。彼女は笑っている。わたしは寄せ植えに目を遣る。花は美女桜の多色混合だった。わたしは植物にもくわしい。

 彼女の視線がわたしの顔から腰まで移動する。彼女はたぶんわたしの名前をはっきりと覚えていない。ーー現実的な観測として。でもなんとなくは覚えていると思う。口を利くのは二度目だから。わたしの学校の名前を聞いて、すごいねって彼女、言ってたもん。まあだいたいそう言われるんだけど、ていうか国内にわたしの大学より「すごい」ところはないから、ぜんぜん、慣用句なんだけど。

 彼女はそんなに頭の良いタイプじゃないとわたしにはわかっていた。そんなにばかじゃないけど、ていうか、ぜんぜん、ばかじゃないけど、わたしから見たら教養が不足していて、計算が遅くて、美意識が凡庸。女子更衣室で見たんだけど、私服がちょっとださい。

 三日間のイベントのあいだアルバイトに貸与される制服は今ふうのユニセックス。フレンチサイズ、選択肢はふたつだけ。男は40と42、女は36と38。いやみなくらい肌の露出のない、モノクロームのパンツスーツ。女たちのなかにはウエストを安全ピンで詰めてみせる者もいる。ある種の若い女たちにとってはスキニーが最高の価値なのだ。わたしは、そうは思わないけど。

 英語が話せて気が利いて見栄えのするバイトを集めなくちゃいけないんだよね、どうかな、やってもらえないかな、お金は、たいしたことないんだけど、気晴らしにはなると思う、有名人が見られるし。

 そういう誘いを受けて、わたしは気分がよかった。もちろんわたしは英語が話せるし気が利いているし見栄えもする学生で、たまには変わったアルバイトをやってあげてもいい。有名人を見たり、ふだん接しないタイプの人と話すのも楽しいーー彼女とか。

 わたしの大学にもちょっとださい女の子はいっぱいいるけど、彼女みたいではない。あの子たちは「早く洗練されるといいですね」という感じ。それに比べて彼女は、ちょっとださいんだけど、そこがかわいさの秘訣でもある。下手に洗練させたら損なわれる。かといってばかな男が妄想するピュアとか素朴とか、そういうのでもない。個性。そう、小学校の先生がよく口にしてわたしが内心鼻で笑っていた、あの語彙しかあてはまらない。個性がある。

 彼女はわたしに話しかけられたらうれしいはずだとわたしは踏んでいた。大学生はだいたい愛想がいいし、とくに女子は人前で露骨に嫌な顔をしない人が多い。わたしたちはけんかなんかしない。冷淡な顔なんか見せない。いやなら未読無視。人生から消す。それだけでいい。だからこそ事前の予測は重要だ。自分から話しかけるときは自分に話しかけられてうれしく思う相手だけを選ばなければ。

 彼女はわたしに話しかけられて喜んでいるはずだと思う。わたしの態度に親しみを感じていると思う。だって、わたしは、「すごい」大学に通っているし、見栄えだっていいし、彼女よりずっと洗練されているし、物知りだし、どこへ行ったってうまくやれるし、彼女をどこかに連れて行ってあげることだって、できるし。

 アルバイトを終える。帰り道で彼女をつかまえることはできなかった。帰りの電車に乗る。LINEの交換をしたときにその場でたがいに送った無難なあいさつを読み返す。読むというほどの文字数もない。見ているといったほうが正しい。

 ねえ、わたし、あんなに話しかけたよね。LINEくらい、そっちから送ってきてくれてよくない? ねえ、あしたでこのバイト、終わるんだよ。わたしが話しかけたの、ほんとは迷惑だった? ぜんぜん楽しくなかった? わたしになんか関心なかった? わたしの名前覚えてる? ほかの人とごっちゃにしてるんじゃない?

 冷や汗が出る。スマートフォンを握った手をコートのポケットに入れる。冬は好きだ。大きなポケットが使えるから。レディースファッションの大きな欠点はポケットがろくにないことだと思う。コートだけが例外だ。

 振動。

 LINEだ。彼女から? 彼女からだよね? きっとそうだよね?

キラキラで見えない

 ばかではないんだよと、彼の上司は言った。そうでしょうとも、と私はこたえた。ばかじゃないという語の示す意味はいろいろあるけど、この場合はすごく単純で、四則演算ができないのではない、という意味である。

 経費の適切でない使用に関する面談がおこなわれた旨の報告が終わったところだった。おそらく自分から辞めると思います、と人事担当は言った。入社した人間は会社にいてほしい。それが採用人事の成功というものである。だから今回は失敗で、管理職同士で顔つきあわせて反省したりしたのだけれど、何をどう反省すればいいのか私たちにも実はよくわかっていないのだった。

 人事担当が彼に辞めてほしいと判断した理由はしごく単純だった。経費の使用にかぎりなく黒に近いグレーな行為が判明した上、彼に貸したお金を返してほしいという旨の電話が複数回かかってきたのだ。カネの問題、それも巨額ではない、高額ですらない、些末なカネの問題である。

 かぎりなく黒に近い些末なグレーを黒だと断じるための手続きを踏んで処分を議論してその後問題が再発しないように気をつけて、というのは、会社としてもけっこうしんどい。「貸したカネがかえってこない」という電話がかかってきたことが後押しになった。辞めてくれたほうが助かるというのが人事の率直な意見だろう。

 彼は新卒で就職して二年目の若者である。いつもぱりっとした格好で、見栄えが良い。誰とでも如才なく話す。ただし、如才以上のものは感じられない。彼は私の直属の部下ではないし、表層的な会話しかしたことがない。だから人格のことはほとんどわからない。学歴はきわめて派手な部類である。どう考えても収入と支出の算数ができないとは思われない。

 何かお金が必要な差し迫った事情があったのかといえば、どうもそうではないらしい。社内の年齢の近い男性たちによれば、彼は周囲よりさまざまな場面で「ワンランク上」の消費をしていたのだそうだ。実家が金持ちなのかと思ってました。じゃなかったらあいつだけ給料がすごく多いのかなあとか。彼らはそのように言っていた。少なくとも給与に関してはそのような事実はない。新卒二年くらいまでの収入は似たり寄ったりである。

 おれはあいつ、変だと思ってましたけどね、と彼の同期が言った。あいつのSNSみると、カネ使ってんなーって思うけど、それ以前に、なんか妙だなと思います。個人的には、めちゃくちゃ流されやすい人間なんじゃないかと思って見てました。好きで贅沢してる感じじゃ、ないんですよね。贅沢好きな人間はおれのまわりにもいます。そういう連中はただ享楽的で、気持ちいいのが好きなんだ。でもあいつはそうじゃないです。あいつは楽しくて浪費してるんじゃない。

 なんていうのかな、うまく言えないんだけど、「誰かがいけてると言った要素」を切り貼りしてるっていうか。それが結果的に贅沢に見えている、裕福に見えている。そういう感じ。わかりますか? 切り貼りの対象にもあんまり統一感がない。

 理想像を持つ人間は多いです。おれにもある。でもその理想を選ぶのは自分です。あこがれの相手を選ぶにも自分の側に何らかの芯が必要なわけですよ。あいつのSNSを見てると、その芯みたいなものが見えなかった。なんか、切り貼りで、ふわっとしてた。薄いとか浅いとかじゃないんです、若い人間の理想像が浅かったりペラかったりするなんてよくあることです、あいつのは、なんていうか、切り貼りの基準がなくて、しかも切ったものをちゃんと貼ってないっていうか、貼り合わせる糊がないっていうか、そういう感じでした。

 私はお礼を言ってその場を離れた。彼にはキラキラした自己像があり、そのために経済的に破綻した。そういうことだろうか。そしてその自己像は、キラキラしているけれど、光源や反射素材が決まっていなくて、ただキラキラしていた、そういうことだろうか。そうしてそのキラキラが彼の目をふさいで「収入の範囲で支出する」という引き算ができなくなって、会社に電話をかけてくるような相手に借金をしたり、経費を不正に使用したのだろうか。

 私は利子のつく借金をしたことがない。損だからである。分割払いさえしたことがない。損だからである。自己に関する理想像を持ったことがない。SNSもやっていない。そういう人間がいくら想像しても、「どうして収入の範囲で生活せずに不正にまで手を染めてしまうのか」なんて、わからないのかもしれなかった。

わたしは心配しない

 ぼくが生まれたとき、見た?

 五歳児がたずねるので、わたしは少しことばを選んで、生まれる前の日と、生まれて何日か後に見たよ、とこたえた。まえのひ、と五歳児は繰りかえした。まえのひはまだおなかのなか?

 そうだよ、とわたしは言った。そしてその日のことを思い出した。

 友人が近所の病院に入院した。病気じゃないんだけど、と友人は言った。いろいろあって超ハイリスク出産だから入院して完全管理してもらって帝王切開で出すの。あ、うん、産むの。いいじゃん「出す」でも。要は出産ね出産。

 わたしはその病院から徒歩十五分のところに住んでいたので、彼女の入院中何度かお使いを頼まれた。「ハチミツ、茎わかめカリカリ梅」みたいな注文が来て、それを仕入れて行くのである。友人は超ハイリスク状態のわりに平然としており、まるで単におなかが大きいだけの人みたいな顔をして、病室ではなく応接室のようなところで私に会うのだった。

 気がついたら出産前日だった。わたしはもう気が気でなく、点滴をガラガラ引きながら「よう」とあらわれた友人を、頭のてっぺんから足のつま先までじろじろ見た。だって、目の前にいるこの人は、明日、命がけの仕事をするのだ。ほんとうに死んじゃうかもしれないのだ。不安でないはずがない。でもわたしが不安を表出してはいけない。当事者に傍観者の不安をケアさせてはいけない。

 友人はわたしが手渡したおやつをもりもりと食べ、ぐいぐいとペットボトルの麦茶を飲み、終わったらビール飲もうよビール、と言った。完全ミルクの予定だからさ。明日腹かっさばいて、終わったあともいちおう入院生活なんだけど、お医者さんに訊いたら「傷の具合によりますが、順調なら、いいですよ」って。十字路の斜め向かいにお好み焼き屋さんがあるんだよね。熱々のやつ食べたい。

 わたしはうなずいた。非現実的だろうが何だろうが、未来の話ならなんでもよかった。「母子ともに健康」という慣用句を、喉から手が出るほど欲しかった。早く二十四時間が過ぎて、その文言がスマートフォンに入ってきてほしかった。そのときまでワープしてしまいたかった。

 顔色悪いなあ、と友人は言った。まあそりゃ心配でしょ。でもやめな。この場合、心配してもどうしようもないから。なんもいいことないから。できるだけのことは、やった。できなかったこともある。まちがったかもしれないこともある。でも今はもう腹かっさばく前日だ。これ以上心配しても何もいいことはない。だから心配しない。わたしは心配しない。だからあんたも心配すんな。

 わたしはうなずいた。そして、やめる、と宣言した。わたしはそのときはじめて「心配しない」という選択肢をもらったのだと思う。「心配しないことは可能だ」と教えてもらったのだと思う。どうすればできるようになるかを、まだ人にはうまく言えないのだけれど、帝王切開前日の超ハイリスク妊婦だった友人が「やめな」と言ったから、無用な心配を、途中でやめられるようになった。

 友人は無事に出産した。「早く見においでよ」と言うので、別の友人と連れだって行った。赤ちゃんはまだGCUに入っていて、ガラス越しに友人が見せてくれた。ものすごく小さくて、まだガラス張りの部屋を出ることはできなくて、でも、元気だということだった。わたしたちは歓喜した。赤ちゃんとの対面が済むと彼女は普段着で出てきて、言った。じゃあ、ビール飲もう。鉄板でお好み焼きをじゅうじゅう焼こう。

 わたしたちは内心非常に驚いた。まさか本気とは思わなかったのだ。「斜め向かいの店」といったって、けっこう歩く。なにより階段をのぼる。とても大きな十字路を、歩道橋で渡るのだ。わたしは思った。よし、途中で彼女がへばったら、わたしたちが担いで病院に戻ろう。二人いるんだ、どうにかなるさ。

 彼女はふだんよりも慎重に、しかし力強く歩き、みごとにその道を往復した。宣言どおり熱々の鉄板を前に(一杯だけという、妊娠前の彼女にくらべたら控えめな量ではあるものの)グラスをかたむけ、「シャバはいいねえ」と言った。

 そのようにしてやってきた子がもう五歳だ。私のことはたぶん親戚か何かだと思っている。当たり前みたいな顔して私の膝に乗っている。きみが生まれたとき、と私は言う。わたしはとてもうれしくて、前日にも「出ておいで」って言いに行ったし、すぐあとに会いにいったんだよ。とっても楽しかった。