傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

偶然をもてなす

 勤務先から一年間の研修への応募を提案された。
 そういう制度があることは知っていた。通常業務を一年休んで修行してくるのである。年長のえらい人から、自分も一年間勉強してとてもいい経験になったと聞かされたこともある。しかし、わたしが転職してきて以降、研修に出た人はいなかった。
 そうなんですよ最近はこの制度が形骸化しかけていまして。人事がそのように言う。続きは要するに、「上司から推薦をもらったから応募してほしい」という話なのだった。
 人事は言う。この種の制度をやめるところも増えていて、たしかに、すぐに利益が出る性質のものではないです。しかし長期的に人を育てるのは大切なことだし、組織として誇らしいことですよ。
 とりあえず今の上司に報告すると、上司はランチの提案でも聞いたみたいに軽くうなずいた。だいじょぶだいじょぶ、行くとしてもだいぶ先だから。ほらあの部署のさ、いるじゃん超優秀なきみの二個上の先輩の、うん彼、彼も推薦されるんだってさ。研修枠は年に一人、きみは採用されるとしても彼のあと、つまり一年以上たってから準備をはじめればいい。その間に取り下げることも可能。とりあえず書類出してくれたら僕助かっちゃうんだ。すごく助かっちゃう。
 これは、とわたしは思った。ほぼ強制である。おおかたトップから「長期研修制度を活性化させろ」みたいな鶴の一声があって、応募者の数を増やしたいのだろう。わたしはそのように推測し、まあ上司の顔を立ててあげましょうと思って書類を書いて出した。

 それから一ヶ月、上司がにこにこして言うのである。第一報、来た? 研修中おうちのこととか支障ないように僕ちゃんとするからね、何でも相談して。
 件の研修について、次回は特例で一度に二名行かせるから、おまえもさっさと行けと、そういう話なのだった。
 騙された。人事と上司がグルになってわたしに書類を出させたのだ。おおかた「突然行けと言ってもあいつは断るだろうから適当に乗っけて出しちまおう」と相談していたにちがいないのである。

 わたしは今の生活にわりと満足している。転職を何度かして今の職場に落ち着き、中年らしく運動を始めたり食生活に気を遣いはじめたりしてのんきに暮らしている。わたしはそれに満足していた。しかしいくぶん退屈してもいた。
 考えてみれば今の勤務先への転職だってしようと思ってしたのではない。前の職場を事実上くびになったとき、知り合い経由で「中途採用を受けてみないか」と誘われたのである。労働市場における当時のわたしの価値では通りそうにないと思ったが、まあいいやと思って受けた。そしてずっと働いている。
 もっと考えてみればパートナーだってゲットしようと思ってゲットしたのではない(ゲットとは)。わたしは一人暮らしが好きで、人と暮らす予定はなかった。しかし当時の恋人がなんだかずっとわたしのうちにいて、わたしもそれがぜんぜんいやじゃなくて、そうこうしているうちにわたしが住んでみたかった町に定期借家のすてきな物件が出て、なにしろ二年しか住めない物件だから、間借り家賃を払って住まないかと提案したのである(一人で住むには家賃がちょっと高かった)。そしてずっと一緒に暮らしている。もっとうんと前のことを思い出すと、進学先の受験も偶然によって決まったのだった。

 わたしはわたしの意思で人生の方針を決定している。そのつもりである。周囲を頼ってもいるが、それは助言とか助力とかであって、基本的には自分で決めて自分で動いて自分で得ている。そのつもりである。
 しかしよくよく考えると、わたしの人生の転機はことごとく、偶然がもたらしているのだった。偶然は唐突にわたしの部屋の呼び鈴を鳴らし、わたしは驚き、しかしとりあえず上がってもらい、お茶をいれ、ふむふむと話を聞く。そしてわたしはその場で「乗る」と決める。いつもそうだった。
 研修にかかわる費用をわたしが負担する必要はないし、給与も出るが、タダではもちろんない。戻ってきてからの成果はおおいに期待される。いつもどおりの仕事をしているよりはるかに頭も心も使うことだろう。成果が出なければ居心地が悪くなって辞めたくなるかもしれない。しんどいかと言われたら、そりゃしんどい。そんなの行かなくってもそれなりに満足しているのだし。

 条件を確認させてください、とわたしは言った。お給料は下がらないのでしょうね。上司は笑った。やった、断らないんだ。
 わたしは澄ましてこたえた。突然で驚きましたが、基本的にはありがたいお話です。それにわたし、人生には偶然にまかせる場面も必要だと思っているんです。