傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

るみ子のバカンス

 るみ子は優雅な、あるいは優雅に振る舞うことに注力する女である。バカンスは三ヶ月あるのが普通よ、と彼女は言う。それは今時だいぶ難しいんです、とわたしは言う。この夏は一ヶ月少々、そして秋に一ヶ月少々ではいかがでしょう。るみ子はわずかな表情と仕草だけで軽蔑をあらわにし、しかしそこにわたしを許すニュアンスをにじませる。るみ子はわたしを許す。いつでも。
 るみ子は演技派の俳優で、ひところは地上波のドラマで端役をやっていた。でも本人は低予算の地味な舞台や映画を自分の本業だと思っている。俳優志望者向けのワークショップのスタッフも「大切な仕事」だと言う。
 るみ子は仕事をいっぱい引き受けて長時間働く。わたしはるみ子に頭を下げる。申し訳ない、わたしのせいで、余裕のない暮らしで。
 わたしはるみ子の仕事の全責任を負う立場である。
 るみ子は中年だ。盛りを過ぎ、くたびれている。世の中全体の景気だってよくない。バカンスを取ったところでモナコアマルフィも夢でしかない。祖父母の残したつましい別荘を手入れしながら過ごすのがせいぜいだ。
 でもるみ子はいつだって堂々としている。長丁場の現場もにこやかにこなす。人前で疲れた顔をしない。みっともないところを見せない。るみ子は辛抱強い。きっと倒れるまで弱音をはかない。だからこそわたしがるみ子をしっかり休ませてやらなくてはいけないのだ。三ヶ月は無理にしても。

 というお話を、わたしは気に入っている。
 るみ子はわたしがわたしの肝臓につけたあだ名である。わたしは中年期を過ごすにあたり、生活習慣をいくらか変えた。具体的には仕事のしかたをあらためて睡眠時間の確保を第一優先事項とし、月に二日はまったく予定のない休日をつくって疲労回復につとめ、いやいやながら筋力トレーニングをはじめた。
 その流れでアルコールを飲む頻度もあらためた。もともと毎日飲むたちではないが、毎週は飲んでいた。しっかりばっちり長時間飲んでいた。四十過ぎて疲れやすくなり、どうしたら疲れなくなるか検討すると、適度な運動と睡眠に加え、肝臓を休ませるのがどうやら良いようだった。
 わたしはためしに一ヶ月アルコール抜きで過ごしてみた。するとだいぶ疲れにくくなった。おお、とわたしは思った。これはいい。ときどきやろう。

 人に酒をすすめられたとき、単に「今月はアルコール抜きにしているので」と答えてももちろんかまわない。近ごろはノンアルコール飲料もだいぶ充実していて、酒抜きで居酒屋やレストランを楽しむことも可能である。わたしはずいぶん単純な生き物で、ノンアルコールビールを飲んでいると酔いが回ったみたいな気分になる。
 けれどわたしはそれではあまり楽しくないのだった。そのまんまじゃないか、と思った。せっかくの変化だ、楽しんだほうがいい。ふむ。何かを大切にしたいときにはキャラクター化するのがよい。わたしの肝臓はどんなキャラだろうか。
 そのようにしてわたしの肝臓はるみ子になった。ちなみにキャラ化の思いつきから三分で名前と性格と来歴ができあがった。わたしは一円にもならぬ愚かしい空想がたいへん得手なのである。
 そんなわけでわたしの友人たちはるみ子のことを知っている。酒好きの友だちから「来月どう?」と打診があると、わたしは「来月はるみ子がバカンスで」とこたえる。友だちは笑い、るみ子最近どう、と尋ねる。

 るみ子の最近の悩みは白髪である。るみ子は成熟を良しとする文化圏の住民であって、老いを怖れるなんてださいと思っている。でも自分の白髪がぴかぴかに白くて目立つことをけっこう気にしている。もう少し多いか、もう少し少なければねえ。るみ子はそのように言う。もう少し多ければ全体を染めてメッシュを入れるし、もう少し少なければないのと変わらないのよ。どちらかにしてほしいわ。
 るみ子の造作は整っているが、本人は自分の美貌に乗っかって生きてきたつもりはなく、だから容貌の衰えについて嘆いたりしない。外野からあれこれ言われると、とがった(しかし若いころよりいくらかゆるんだ)顎をつんと上げて、言う。わたしは彼らのために美しかったのではないし、今ももちろん、彼らのために美しいのではない。
 そのわりに、あれこれ言われた日の夜は美容外科のシミ取りのページを熱心に見ている。今はこういうの安くなりましたよねとわたしは言う。そうねとるみ子はこたえる。そして言う。いつまでもは元気でいられないけれど、でも、できるだけ若々しくいなくてはね。あなたのために。
 るみ子はそのように言う。外ではしない気の弱そうな顔して、少し笑う。