傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

だって他人だもん

 上司がビールを注文した。わたしは咄嗟に目を伏せ、その目を左右に泳がせた。隣の後輩とがっちり目が合った。彼もまた目を伏せてそれを泳がせていたのである。
 今日は会社の近くで飲んでいた。わたしは様子を見て一次会でおいとました。駅に向かって歩き出すと、先ほど目があった後輩が追いついてきた。
 彼は言った。あの人、飲むんすね。わたしも言った。飲むんだね。びっくりしたわ。

 上司は先月、会議中に倒れた。発見が遅れたら死んでもおかしくなかったそうだ。本人があとからそう言っていた。人がいるところで倒れたのがよかった、というのもなんだが、しかしよかったのだ、迅速に病院に運ばれて、死なずに済んで、すぐに会社に出てくるほど回復したのだから。
 この上司の不摂生は有名だった。今どき珍しいくらいよく飲む。翌日が平日でも終電を超えて飲む。短めの二次会までは普通の飲み会である。最初からよく飲む人だが、その後は飲み方がより激しくなるのだそうで、場所も女性が接待する店に移るらしい。暗黙の了解で女の社員は二次会までに帰るから、わたしは参加したことがない。
 ぜんぶ奢りなんすけど、と後輩は言うのだった。シンプルに寝不足になるんで、俺はできるだけごまかして帰ってました。たいした話するわけじゃないし。うん、騒ぐだけで内容のある話なんかしないす。寝不足の意味がないんで、おれは帰りたいわけです。
 わたしは苦笑して、言った。男同士で仲良くしたいんでしょ、きみたちにサービスしてるつもりなんじゃないの、あの人わりと気が小さいところあるし。
 しかしそれはもちろん、上司が倒れる前の認識である。

 あの、普通、死んでもおかしくない状態になった直後って、酒、飲まないすよね。後輩が言う。飲まない、とわたしはこたえる。飲まなきゃできない仕事じゃない。あの人が倒れたことはみんな知ってる。だから飲まないだろうってみんな思ってたんじゃないかな、少なくともしばらくは。
 わたしたちはしばらく沈黙する。後輩が口をひらく。おれ、酒、好きですけど、体調悪かったら飲みたくならないです。そうだねとわたしはこたえる。わたし、花粉症の時期は肌まで弱くなって、お酒飲むともっと荒れるから、春の飲み会はソフトドリンクで参加してるわ。そういえばそうすねと後輩はこたえる。
 わたしたちは再度沈黙する。後輩がつぶやく。あの、つまり、依存ってやつじゃないすか。たぶん、とわたしはこたえる。

 わたしたちは改札に向かう。わたしは小さい声で言う。でもあの人に何か言うような立場じゃないし、医者でもないのに診断めいた発言をするのは不適切だし。
 父方の祖父が、と後輩が言う。酒でだめになった人だったんだそうで、それで父親は相当苦労したみたいで、だから祖父が酒を飲むのを止めなかったって言ってました。おれが大人になってからですけど。
 体調が悪くても酒を飲みつづける人にはそれなりの理由がある。当人の主観では飲む以外の対処ができない、何らかの問題を抱えている。まわりから人がいなくなってさみしくなればもっと飲む。それに同情しないわけではなかった。でも自分の人生を擲ってまでどうにかしようと思えなかった。実の親であっても、親子の情愛が残らないようなことをした相手だった。
 後輩の父はそのように語ったのだそうである。この先なにかあって自分がおかしくなったら早々に縁を切れ、そのときに罪悪感なんか持つな、とも。
 いやべつに父親はぜんぜんまともなんすけど、と後輩はつぶやく。

 わたしたちは電車を待つ。ましてただの上司だし、と後輩はさらに小さな声を出す。さりげなく止めるとかも別にしたくないす、正直。
 わたしはしばらく考える。そしてこたえる。わたしもあの人に何か言う気にはなれない。友だちだったら「しばらく飲まずにいて様子を見たら」って一度は言うけど、でもそれ以上は何もできないかな。さっきの、きみのお父さんのお話でいう「何らかの問題」をシェアできるほど深い友だちだったり、えっと、わたしは家族大好きなんだけど、その家族の誰かだったりしたら、踏み込むけど、あとは黙ってるしかないと思う。
 他人だもん。

 わたしの電車が来る。反対側の電車を待つ後輩に軽く手を振る。たとえばわたしが大学生で、あの上司のようになった知人がいたとしたら、たいして仲良くなかったとしても、「お酒やめたほうがいいです」って言い張ったと思う。考えなしに言ったと思う。
 自分にそういう子どもじみた無鉄砲な善意がなくなったことが、やけにさびしかった。