傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

相談に乗れない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。その状況が長引くにしたがってDVが増えた。出かけないからDVが起きるというより、問題ある場所が閉じられてさらに問題が濃縮されたという図式である。そういう数字を認識するだけでしんどい。人づてに、あるいはペンネームあてのメールでその種の話を聞くたびに「お役に立てればいいのですが」と思う。
 思うのだが、私は実際にはまったくお役に立てない。ペンネームあてのメールではもちろん、親しい人からの「友だちがDVに遭っているようなのだが、どうしたらいいだろうか」といった相談に対しても、実は役に立てていない。私ができることはふたつしかないからだ。
 ひとつ。相手の発言内容からそうだと推定したときには、「それはDVだと思います」と言う。ひとつ。被害にあっているとおぼしき人の居住地域にある相談窓口のリストや参考になりそうな文献リストを送る。以上。
 彼女たちは「なにか実になることを言ってくれるのではないか」と思ってメールなりLINEなりを送ったのだろうに、返ってくるのはそれっきり。役に立たぬ人間である。

 役に立たないのは、私が冷たいからではない。いや、私の人格はわりと冷たいのだが、その冷たさとDVの相談をはじめとする深刻な人生の相談で役に立たないことのあいだに関連がない。私が深刻な人生の相談の役に立たないのはただ、私にその能力がないからである。
 私には他者の深刻な人生の相談を解決する力がない。話を聞くだけにしたって、有効な聴き方ができるのではない。親密な関係なら「言ってすっきりした」的な効果を提供できることもあるが、友だちの友だちとか知らない人とかだったらぜんぜんだめである。専門的な知識も技能もないからだ。相談窓口リスト以上のアドバイスなんかいっこもできない。

 そんなだから「それはDVだと思います」と言うことも以前は避けていた。避けていて文献リストを提示してメールを終わらせただけでも、数週間後に抗議されたりした。
「マキノさんから勧めていただいた本(を読ん)で、(自分が配偶者にされていることは)モラハラではないかと(自分が疑っていることが配偶者に知られるはめに)なって、(配偶者が自分に対して)手が出ました。マキノさんには(自分が配偶者に暴力を振るわれたことに対する)責任があると思われませんか」
 というメールが来たのだ。私が責任を取るべき内容ではありませんと回答した。
 なお、()内のような自分に関する主語のない文章を書く人は、相談系メッセージ以外にもけっこう多く、相談系メッセージでもそういう書き方をしない人もいっぱいいる。このあたりは相関関係が見受けられない。

 なにはともあれ相談に回答するというのはたいへんなことである。それでも私は「それはDVだ」と思ったときにそう言うことまではやめないと決めている。それさえできない状態になったら知らない人がコンタクトできる窓口(SNSとかメールとか、人づてとか)を順次閉じる方針である。
 なぜかといったら、そのほうが気持ちいいから、私のナルシシズムが満たされるからである。
 以前、家族問題の専門家の講演に出たとき、フロアから質問をした。非専門家がDVを名指しすることは可能か、そうでなかったときに責任が取れないようにも思う、というようなことを、私は尋ねた。すると彼女はこう言った。
「あなたがDVだと思ったら、そう言うべきです。あなたが非専門家なりに勉強した上で『DVだと思います』と言って、もしDVでなかったとき、悪いことがありますか」。
 私はそれを聞いてこのようにお礼を言った。たしかに、私が間違ってDVじゃないものをそうだと言ったところで、ほんとにDVだったときの当人へのリターンに比べたらゼロみたいなものですね。じゃあ言います。

 そのときに回答をくれた専門家は、なにしろ格好良かった。講演会の質問にそんなふうに答えてもトクをすることはない。「あの有名な○○がこんなふうに言っていた」と悪意の上で曲解されることさえありうる。それでも彼女は見知らぬ私に力強い断定をくれた。なんて格好良いのだろうと思った。あいまいに回答することもできるし、そうする人のほうが多いだろう。でも私は彼女の格好良さのほうを取りたいと思った。そちら側を目指したいと思った。理由は、そのほうが自分をよいものに思えて、気持ちがいいから。
 そんなわけで私は、DVだと思ったときに『それはDVだと思います』までは、言うと決めているのである。