傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

犬のアルバイト

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにペットを飼う人が増えたのだそうだ。私もご多分に漏れず犬の飼育計画を前倒しした。それでうちにはいま一歳の犬がいるのだけれど、この犬はふつうの犬であって、何ができるというわけでもない。しかし最近は犬の身ながらアルバイトをしている。
 私の犬は特別な経験をしていない。強いて言うならめちゃくちゃ散歩している。いちおうは小型犬なのに、大型犬のごとく激しく散歩している。そうして近所の犬とよく遊び、休日はピクニックやドッグランに行っている。幼犬ばかり集めたお泊まりなどにも参加した。
 そんなだから私の犬は他の犬が好きだ。飼い主としては「犬同士で遊んでくれるならラクでいいわ」という程度のものだったのだが、そういう性質がアルバイトになるのだから世の中わからないものである。なんとなればこの世には犬同士で遊ぶ機会が少ないまま大きくなったために犬との遊びかたがわからない犬がけっこういるからである。

 私は犬のしつけをひととおりやって「まあだいたい良いな」「しかし、もうちょっといけるはずだよな」と思って、自分だけでは練習のしかたがわからないから、徒歩圏内のドッグトレーナーを探した。
 そうしたらトレーナーさんが自分のところで預かっている犬と私の犬を遊ばせて、「よかったらまた他の犬と遊んでください」というのである。遊び相手が確保できるのはこちらも助かるので、歯磨きやらドッグスリングやらの練習に通い、前後によその犬と遊ばせている。トレーナーさんがそのたびに何かくれる。リードとか犬のガムとか犬の服とか歯磨き剤とか、そんなのをくれるのである。どれもあればありがたいものだ(私は進んで犬に服を着せたいとは思わないが、手術後の服や雨の日のカッパなどを着せる必要があるので慣らすようにしている)。

 そのようにして私の犬はアルバイトをしている。たいていの相手は犬社交をやる機会が少なく、犬に対しては吠えるか突進するかしか知らない子犬ちゃんである。私の犬は突進されても距離を取り挑発して追いかけっこに持ち込み、相手の体格に合わせてプロレスごっこをやる。
 相手の子犬ちゃんは何度か遊ぶと遊び方を覚えてくれる。そして人間に向き直り、私に愛想良くしっぽを振る。みんな私の犬よりかしこい。私の犬は「なんだ、もう遊ばないの」とばかりに鼻をピスと鳴らして私の斜め後ろに座って耳の後ろをかく。私にしっぽを振らない。私の犬は私がいると機嫌はいいが、他の人に対するより愛想がよくない。たまにはしっぽをぶんぶん振ってほしい。

 そのような犬のアルバイトにおいて、ちょっと難しい犬の相手をした。対面させるとキャンキャン吠えるのはよくあることだが、あいさつの機会を待っている私の犬に向かって吠え、犬の嫌がることばかりを試みる。追われれば即座に人間の後ろに逃げる。初対面の人間である私のスニーカーの間にぐいぐい入りこんで私の顔と私の犬の顔を交互に見ながら吠えつづける。
 この子は他の犬が気になるんですよとトレーナーさんが言う。気になるのにこんなふうにしかできない。面倒ですみません。しかしこの子も苦労していましてね。飼い主さんがDVの被害に遭って。ええ、それはもうひどいもので、行政の接見禁止を取ったのだそうです。
 DV加害者は犬には暴力を振るわなかったそうですが、目の前で飼い主が殴られたら犬だってつらいのです。だからこの犬は人間には無条件で媚びる。そうして自分と同じ犬に対面したときの自分の感情がわからなくなってしまったのだと思います。興味と無関心と好意と意地悪な気分がごちゃごちゃになっている。
 私は納得した。この面倒なふるまいをする犬は、子どもで言うところの「面前DV」に相当する経験をしたのだ。コミュニケーションに難が生じても無理はない。コミュニケーションをしようとするだけ立派である。
 疫病禍が長引くにしたがってDVが増えたのだそうだ。しんどい話である。私はそうした問題の専門家ではなく、親しくない相手にできることがほとんどないから、人間の被害者にはたいしたことができないが、犬同士の遊びならばんばん提供したい。私の犬がいいよと意思表示する範囲での提供ではあるけれど、私の犬はちょっと鈍くて細かい屈折とかよくわかんなさそうだから、だいたいOKするんじゃないかと思う。