ちょっと、あんた、最近つきあい悪いわよ。そうよそうよ。同僚がふたり寄ってきて、言う。それから笑う。彼らは私の親しい同僚で、三人で、あるいはそれ以上で、ときどき食事をともにする。
現代の、少なくとも中年以下の女性がほとんど話すことのない人工的な女ことばを、彼らはときどき使う。たとえば、ストレートに告げるとちょっと重く聞こえそうなことを言いたいときなんかに。彼らのうちひとりは男性でひとりは女性、性別と外見以外はよく似ている。人なつこくフットワークが軽い。合理主義で現実的。人を見限るときにはその判断に時間をかけず、早々に切り捨ててしまう。それぞれが社外に配偶者とひとりの子を持っている。料理が好きで掃除は嫌い、寒さに強く暑さに弱い。
仕事帰りに彼らと合流する。彼らのうちのひとりが尋ねる。ねえ、なんで、ときどきオネエ口調になるの、今日この人を誘ったときみたいに。ひとりがこたえる。ふだんの俺じゃない人を出したいんだと思うよ。誰でもそうだと思うけど、俺の中にはふだん出してる俺とはちがう部分があって、シチュエーションが許せばそいつを第二の人格みたいに使う。自分の中にふだんの自分とはちがうキャラクターを置いておくのって、なかなかいいよ。ひとりで考えるときにも複数の考え方を対比させることができるから。
なるほど、と私は言う。なるほど、ともう一人も言う。そうして、私たちは仕事の話をする。私たちは噂話をする。私たちは誰かを褒める。私たちは自分が抱えている問題について話す。そしてたがいの話に感想を述べる。仕事や職場環境についての問題解決はたいてい本人がするので、話を聞いたほうはうなずいて感想を述べるだけである。問題解決を求める同僚ももちろんいるし、そういうときには相談に乗るが、彼らがそれを求めたことはない。私も彼らにそれを求めたことはない。
なんで話すんだろ。ひとりが言う。相談じゃない話って、なんでするんだろうね。話せばすっきりするからじゃないの、と私はこたえる。問題解決と同じくらい感情の始末って大事だから、抱えてる感情を出すだけでだいぶ身が軽くなるものだと思うよ。それはわかる、と彼女は言う。でも、出すだけなら誰でもいいでしょ。嫌いな人間とごはん食べに行きたくないから、一緒にいて悪くない気分になれる相手であることは前提として、じゃあ、その中でなら、誰でもいいんじゃないかな。どうして、あなたたちなのか。
窓だからです。もうひとりがこたえる。何の、と訊くと、世界、と彼はこたえる。友人というのは世界を見るための窓なんだ。旅行して見られるのは世界のいろんな景色だよね、それで、世界には景色以外の要素もたくさんある、ものの見方とか、とらえかたとか、そういうやつ。それを見るための窓が、親しく話せる他人だと思うんだ。
「藪の中」ってあるじゃん、芥川の。映画だとなんだっけ、羅生門?あれって、登場人物三人の視点をぜんぶわかれば、あの短編の世界を理解したことになるわけだよね。それで、現実の世界は短編より複雑だし、人もめちゃくちゃたくさんいるから、ぜんぶの視点は読めない。読んでるうちに寿命が来て死ぬ。だからちょっとしか読めない。
ちょっとしか読めないのに、油断すると自分と似た人間とばかり仲良くなってしまう。それは自然なことなんだけど、世界をすごく狭いところからだけ見て、それ以外の角度を捨てるってことでもある。それでいいじゃないかという人もいるんだろうけど、俺はそういうの怖いし、つまんないと思う。三十年とか四十年とか生きた段階でいろんなことに飽きてるのに、世界を見る窓を同じ角度にばかりひらいていたら、死ぬまでもたない。退屈になる。退屈はよくない。とくに心が退屈なのはよくない。
なるほど、と私は言う。私はその、角度のちがう窓なの?そうだよう、と彼はこたえる。自分と似た人間はラクだし楽しいけど、その楽しさがすぐに目減りしちゃうんだ。ちょっと退屈を感じたら、ちがう角度から同じ話をできる人間を投入する。そうすると自分と似た人間もまた別の顔を見せ、おなじみの話題が別の展開をたどる。ねえ、似た人間ばかりとつるむなんて退屈なことだよ、会社の中でもそうだし、外でももちろんそうだ、会話するのが自分と同じような環境で育って同じようなタイミングで同じような職に就いて同じような生活をして同じような思想を持っている人間ばかりになるなんて、どう考えてもホラーだよ、きっと生きるのがいやになってしまうよ。