傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

かつてこの世界にあったバーという場所について

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。レストランは「よぶん」と「よぶんでない」の中間くらいの扱いで、なんとなく「まあちょっとはいいんじゃないか」という雰囲気になっている。この雰囲気というのがくせもので、根拠はないが従わないと我が身があやうい。そのこと自体がしんどい。疲れる。
 疲れるが、それはそれとして、レストランに行けることは喜ばしい。僕は生活における飲食の重要性がきわめて高いタイプの人間なのだ。稼ぎが上がってもエンゲル係数が下がらない。「やったー給料が上がったー、何くって何のもう」とか思ってしまうのだ。

 そんなだから飲食店が閉じた時期はつらかった。今でもけっこうつらい。というのも、休業を続ける店もあったし、そのまま閉店する店もあったからだ。幸い行きつけはみな生き残ってくれたが、まだ行っていない店はいわば僕の将来の希望なのだ。希望の目減りは人生の損失である。
 また、少し前までは飲食店の閉店時間が早かった。とにかく夜遅くに出歩くのはよくないという、なんか中学生を管理する学校みたいな理屈がはびこっていて、どんなにテーブル間隔の離れた店でも二十時に閉じる、みたいなことがおこなわれていたのだ。ちょっと意味がわからなかったけれど、僕は有給休暇を使って仕事を早引けするなどして無理やりレストランライフを保った。そうしてよく一緒にレストランに行く友人にこんなメッセージを送った。あのさ、フレンチ食ったあとなのに八時に帰りの電車に乗るんだけど、すごくね? 友人の返信はひとことだった。世も末だ。

 世はまだ終わらない。このたびの疫病は人類を滅亡させるようなものではない。しかし早々に終わりそうな飲食店がある。バーだ。レストランの後に(僕は)当然のように行く店である。
 僕は思うんだけれど、大人が百人いたらそのうちひとりくらいがバーを必要とする。あとは必要としない。いやもうちょっと多いだろと思ったそこのあなた、この場合のバーは広義のものでなくて、オーセンティック・バーなのです。どうですか、急にユーザー数が減ったでしょう。
 特段に裕福でもないのに一杯の酒に二千円とか平気で払う。その場所に何か特別なものがあるのではない。やることといったら酒を飲むだけである。それでもって、酔っぱらう場所でもない。酔いはするが、誰も酔っぱらいにはならない。店の人や他の客と会話をすることが主目的ともいえない(自分が一緒に行った人との会話が主目的であることはあるが、それはすべての飲食に存在するパターンである)。形態は決まっており、ある種の要素が周到に排除されている。それがバーである。
 そんなもん何のためにあるんだと言われたら、僕は小さくなって、えっと、バーに行くためにあります、とこたえる。コーヒーを飲めればなんでもいいわけじゃなくて、カフェじゃなくちゃいけない、そういう気分のことってあるでしょう、あれと同じです。人口の一定数はそれを必要とするんです。そこでなければできない種類の呼吸のしかたがあるんです。

 僕はバーに入る。実に久しぶりに入る。そこには感染症対策としてのクリア・アクリルはない。ビニールカーテンもない。それを置いたら成立しないからだ。それが置かれていないことを承知した人間しか、この店には来ない。アルコールスプレーだけを、控えめに僕らは使う。
 バーに行く人間の半分以上は香りフェチだと思う。いいにおいして気持ちいいから行くんだと思う。それが主な目的とはいえないけれど(それならアロマショップとかでいいもんな)、でも重要な要素ではある。少なくとも僕にとってはそうだ。だからアルコールスプレーのにおいが近くのお客の鼻の邪魔をしないよう、そうっと使う。僕らの生活から不可分になった、美と風情のないほうのアルコール。
 カウンターに座る。目の前ではバーテンダーが澄ました顔でカクテルを作っている。バーテンダーというのは澄ました顔をしている生物なのである。僕もある程度澄ました顔で言う。お店をあけてくださって、ほんとうにありがたいです。
 今はね、とバーテンダーが言う。今はまだ可能です。しかし長期的に見ればわれわれは滅びる運命にあります。不要不急ですからね。僕は言う。そうですね。そうしたら僕は、かつて世界にはバーという場所があったという話を、しつこくしようと思います。誰が不要と言おうとも、僕には必要な場所だったんだと。それが滅びたなんてほんとうにひどいことだと。