傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

まろやかな地獄

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。職場においてもできるかぎりのリモートワークが推奨されたが、ものには限度がある。「不要不急」の範囲は感染状況だけでなく政治的な要因で拡大縮小され、さらにそれを「忖度」した人々が他者を監視し、ときに私刑ともいえる行為に至る。まろやかな地獄、とわたしは思う。

 わたしの勤務先で解釈されている現在の「不要不急」度は隔日出社なら良い、というものである。根拠はとくにない。雰囲気である。まわりを見て決めている。魚の群れみたいなものだ。でも先頭の魚は見えない。

 弊社における隔日出社というのは、全社員の出社を平均で半分にするというものである。全員が隔日で出社するという意味ではない。なにしろ外向けに「隔日出社しています」と示すことのほうが大切なので、社員ひとりひとりの労働形態までは気が回らないのだろう。いち管理職のわたしの目からはそのように見える。

 そうなると当然のことながら業務量が多い社員とそうでない社員が出てくる。そうして、弊社の場合には出社する人間はリモートでも補助的に仕事するなどしているために、業務量が多い人間ほど疫病へのリスクも高いという現象が発生している。端的にいって、たいへんに不公平なのである。

 業務の不均衡、感染リスクの増大、コミュニケーション機会の低減、そしてその長期化による倦怠感。当然ながら社員の不満は溶けない雪のように降り積もる。不満がたまった人間はけんかをする。とくにオンラインでのけんかは始末が悪い。対面ならばーっと怒って「ふん」と終わるようなケースでも、文字情報で発言が残ってしまうから、延々と引用しあいながらけんかを継続することが可能なのである。

 わたしの部署でもとうとう派手なけんかが発生した。おとななのに、とわたしは思った。おとななのにけんかをするのだなあ。双方が重要な業務をになっているのだが、双方が「解決しないならこの立場を降りる」とまで言っている。これを解決するのが管理職であるわたしの仕事である。

 わたしはため息をつく。というのも、けんかをしているふたりは部署でもぶっちぎりでよく働いているメンバーだからである。疫病以前から有能な社員だったが、疫病以降はそれがいっそう加速した。非常時には常時の構造が良くも悪くも拡大するものだなあとわたしは思った。

 有能で、責任感が強く、非常時だからと無理もして、ある程度のリスクも飲み込んで、理性的な判断もしている。けんかしている二人は、そういう社員である。未熟だから喧嘩っぱやいのではない。そうでないから負荷が集中して、あるところでぶつかり、そしてキレるのだ。彼らは職能にすぐれた機械ではない。職能にすぐれた人間である。だからいつも職業上有益なばかりの存在でいることはできない。

 わたしがせつないのは、「あいつらけんかしてるねー」「おとなげないねー」みたいなノリでのんきにしている社員たちがたいして働いていないことである。彼らの業務負荷は増えておらず(任せられる仕事が少ないから)、疫病感染のリスクも相対的に少なめであり(どうしても移動しなければならない仕事を任せられる社員ではないから)、他者との調整や難しいコミュニケーション場面も発生していない。仕事ができなければ非常時の負荷も増えない。少なくともわたしたちの仕事ではそうである。

 それではのんきにしている社員たちは悪か。もちろん悪ではない。彼らは彼らにできることをしているし、常時はそれでよいのだ。期待したほどの成果が出ていなくても、責任は採用した会社の側にあり、被雇用者には労働者としての権利がある。非常時だからといって非常な働きをするように求めることはできない。少なくともわたしにはできない。できるのは「お願い」だけである。そして「お願い」を聞いてくれた特定の人に負荷がかかる。

 わたしはため息をつく。わたしはけんかしている社員のそれぞれと面談をする。自費で買ったフェイスシールドをつけて面談する。よく働いてくれているのにごく薄い手当しか出せないことを詫びる。もちろんわたしは、そんなことでものごとが解決するはずがないことを知っている。

 こんなことがいつまで続くのか知らない。仕事があるだけましだと言う人もあるだろう。感染した上で誹謗中傷された患者よりましだという人もあるだろう。そのとおりである。こんなのはまったくましな、些細なことだ。そしてあれもこれも些細だと片づけられるのは、やっぱりまろやかな地獄なのだ。