傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

家族を分ける

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。遠方の親族に会いに行くのも「自粛」の対象である。私的なコミュニケーションの大部分がオンラインに移行し、そして、オンラインでの飲み会といった集まりの物珍しさが減衰すると、その相手を選ぶようにもなった。当然のことながら、疫病の感染リスクを取ってでも面会する相手とそうでない相手は厳しく峻別された。

 同居の家族もそのままではなかった。いまや感染リスク低下のために家庭内別居をする者も珍しくない。自室がある者はそこに籠もり、場合によってはリビングルームに衝立をめぐらせ、水回りを使う時間を分けて、使用前と使用後に消毒するのである。

 わたしの家ではそうしていない。夫と息子と一緒に生活している。わたしたちはそのことをきっちり話し合って決めた。息子はもう十歳だ。両親と手をつなぎ一緒に食事をすれば感染リスクが上がると理解している。あなたには選択肢がある、とわたしは息子に告げた。感染リスクを下げるためにお父さんかお母さんのどちらかとだけ一緒にいて、お父さんとお母さんが接触を避けるという方法がある。

 息子はそれを選ばなかった。だからわたしの家では、夫からわたしに、わたしから夫に、あるいはわたしたち夫婦から息子に、息子からわたしたち夫婦に、感染する可能性がある。わたしたちはそれをのみこんで生活している。

 わたしの親は比較的近くに住んでいる。母はスマートフォンを持っているが、どうしてもアプリで通話できないようで、よく電話をかけてくる。母の話は長い。内容は九割がた兄のことである。疫病の前からだ。母はことのほか兄を愛する。兄はいまや、母の世界の九割を占めている。

 母はわたしのこともたいへんかわいがったが、それは炊事を教えて一緒に台所に立ったり、家のインテリアについて話しあったりするといったかわいがりかただった。母はわたしと並んで髪をととのえ、わたしに自分の化粧水を使わせ、一緒に子ども服を買いに行き、何を試着してもかわいいかわいいと褒めそやした。

 兄に対してはそうではなかった。母は兄と並んで何かをすることがなかった。母は兄の世話をすることを好んだ。兄は幼いころからおそらくは今まで、自宅での食事中に立ち上がったことがない。父もそうだが、父は非常に無口なので、いるかいないかわからない。皿があくだけである。兄はもう少し主張があり、たとえば、これちょっと醤油つけたら、と言う。母はいそいそと醤油を取りに行く。

 わたしは兄のことをよく知らない。兄がわたしにマッサージをしろというような意味の持って回ったせりふを言うので断った。わたしが九歳、兄が十四歳のときである。兄は非常に驚き、それから黙った。わたしが母にそのように告げると母はあらあらと言って兄のマッサージをしに行った。

 兄はわたしを避けるようになった。わたしはもともと兄に親しみを感じていなかった。家で何もしない上、わたしの記憶があるかぎり昔から食事時以外はほとんど自室にいたからだ。少し年の離れた妹を、たぶん兄も面倒に思っていたのだろう。

 大学進学のために関西に出て、就職して東京に戻った。そのときからもう、育った家に住む気にはなれなかった。行けば母は喜んでわたしの好物を作ったりするのだけれど、自宅は母と兄のための場所としてすっかり整えられていた。それに、大人になったわたしは、母と仲良くしたいと思えなかった。わたしが思うに、母はまったく悪気なく、疑問なく、「男の人は偉い」と思っているのである。わたしはそうではなかった。そう思ったことは一度もなかった。

 兄は結婚し、自宅に妻を住まわせた。わたしも結婚した。そのあと十年以上、年に二度くらいの薄い親戚づきあいをした。ただわたしは年々、兄と母の家に行くのが億劫になった。そこは完全に「兄と母の家」であり、兄の妻はいつまでたっても住人のように見えず、父に至っては家の中にはりついた無害な影のように感じられた。

 疫病が流行したのでよぶんな人と会わない世界になった。わたしは母と会う気になれなかった。兄にも会う気になれなかった。母の長い長い電話も、ほんとうはいやなのだった。わたしはそのことに気づいた。彼らはとうにわたしの家族ではなかったのだと思った。わたしは彼らを、静かに切り離すことに決めた。感染リスクのない遠隔コミュニケーションでさえ、彼らととる必要はないように思われた。わたしはわたしの友人たちや気の合う義妹や仕事仲間とのおしゃべりを優先させたいのだった。