傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

おばさんたちのいたところ

 アルバムを見ると、未熟児のための治療室から出て間もないころから、母親でないおばさんたちが、代わる代わる僕(だという気はしない脆弱そうな子)を抱いて、ばかみたいに大きな笑顔で写真におさまっている。おばさんたちは野太いものからかぼそいものまでさまざまの腕に僕と年子の兄の幼い日の姿を抱え、僕らきょうだいが小学校を出るあたりまで、なにかというと写真に写りこんでいる。誕生日、旅行、バーベキューやキャンプ、クリスマスだのハロウィンだのと理由をつけて集まっていたホームパーティ。

 父は内気で無口な人で、僕と兄の幼いころには、いつも夜のおぼろな記憶の、あるいは母の留守居の姿であって、眉根を寄せた笑顔をしている。父はおろおろと僕らをあやし、僕らは元気にだだをこねた。父はうまく僕らを叱らなかった。僕らを叱るのは母と「おばさんたち」だった。

 「おばさん」の筆頭にして代表は芙蓉ちゃんだった。芙蓉という名でフユと読む。僕らの家の近所に住んでいた母の五つ年下の妹で、母と父に次ぐ僕らの育児の主戦力だった。叔母は手先の器用な医療者で、僕らきょうだいが髪を切るといってははさみを持ち、熱を出したといっては勤務明けに顔を出した。叔母は僕が中学に上がるころに遅い結婚をしてその相手の国に職を見つけ、年に一度も帰ってこない。

 叔母がしょっちゅううちにいて僕らの面倒を見たので、そのほかのおばさんたちのこともとくにおかしいと思ったことがなかった。母の友人は職場の知己だの中高大学の同級生だの先輩後輩だので、ずいぶんとたくさんいた。僕や兄が名を覚えている者だけで1ダースを超える。そんなだから、僕と兄はなにかというと余所のおばさんが家に来ることや一緒に旅行に行くことを、当たり前だと思っていた。どうやらそれは、当たり前ではないらしかった。

 母の友人の「おばさん」たちはしばしば母に招かれて僕と兄のいるところに来た。幼い僕らをあやし、おむつを換え、着替えをさせ、風呂や温泉に入れ、寝かしつけ、手をふりほどくのを追って走り、車が通れば自分が先に轢かれる位置についた。僕らをその真っ白い、あるいは日に焼けた腕で抱きかかえて、世界のいろんな道をのしのしと歩いた。自分の子を連れて来て、あるいは子を持たず、幼い僕らのよだれを肩口にしみこませ、膝をついて鼻水を取り、泣く兆候を察知して巧みにごまかした。公共の場で騒げば僕らの目をじっと見てドスの利いた声で騒ぐべきでない理由をささやき、効果がなければ問答無用で僕らを引きずってその場を出た。
 僕と兄は幼いころ「誰でもいいやつら」という、えらく不名誉なあだ名をつけられていた。犯人はもちろん、おばさんたちである。自分の子を連れてきたおばさんのひとりが僕らをダシにしたことを、僕は覚えている。あのきょうだいを見なさい、とそのおばさんは言った。あのきょうだいは、誰でもいい、だっこしてくれるなら誰もいい、手をつなぐ相手は誰でもいい、あなたもそうあるべきです。ママ、ママ、っていつまでも言ってるのはあなただけ。よく聞きなさい。あなたに何をしてくれるのも、ママじゃなくていいの。まったくかまわないの。ママママ言って泣くのは、幻想です。
 おばさんたちは写真の中で、幼い僕らに足跡をつけられた服をそのままに、一緒に昼寝している。僕らの汚れた指を口に突っ込まれたまま僕らの口元をぬぐっている。そのうちのひとりが、今日、僕の家のリビングで母と向かい合って座っていた。あのねえ、と言った。わたし余命三年なのですって。
 僕はもう子どもではないから、おばさんたちが家に来ても放っておく。おばさんたちは相変わらずしょっちゅう僕の母を訪ねて来て、リビングで母と飲み食いしている。僕も兄も理由がなければそんなダルい場所に行かない。たまたまダイニングに水を飲みに来たらリビングからおばさんの声が聞こえた。だいたい三年、とおばさんが言った。それで、と僕は訊いた。別に反抗期とかじゃない。口を利くこともある。おばさん、死ぬの。
 おばさんは、うん、と言った。わたしは死ぬ。癌でじきに死ぬ。芙蓉ちゃんに治してもらおう、と僕は言った。それからその発言のあまりの幼さに狼狽し、今のは、と言った。今のはなし、とおばさんは笑った。昔、よくそう言ってたよねえ。芙蓉ちゃんにだって治せない病気がある、きみはもう、そんなこともわかっている、いい子だ、今の話は忘れなさい、おばさんたちは生きて、働いて、死ぬ、それだけのことだ、きみがそのことを気にしてくれたから、わたしは、ちょっとうれしい。いい子だね、おやすみなさい。