傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2018-01-01から1年間の記事一覧

いいから主語を拾ってこい

好きなんじゃないかと思うんですよ。 隣のテーブルの男の声を拾い、私はぱっと耳をそばだてる。私はあまり耳がよくないんだけれど、隣のテーブルの会話を拾う能力はやけに高い。下世話なのだ。覗き趣味があるのだ。独裁者になったらすべての人にできるだけ自…

素朴の義務

警察官の姿が見えた。ひやりとした。話しかけられたら東北弁で話そう。 そう思った。何か悪いことをしていたのではない。自宅の鍵を部屋に忘れて入れなくなっただけだ。オートロックでたまにやっちゃうやつ。鍵を忘れて出るくらいだから、そもそも鍵をかける…

ときちゃんの死なない工夫

ときちゃんはこのあいだ四十三歳になった。一年九ヶ月の無職期間を経て派遣社員として働いている。長々と休もうが満期を待たず辞めようが次の仕事があるのはときちゃんにそれなりの能力があるからで、ときちゃんはそのことをうっすらと自覚している。でもそ…

「重いって言われたくない」反対運動

だって、そんなこと言ったら、重いでしょう。 彼はそう言った。よく聞くタイプのせりふだ。「仕事内容が重い」などとは異なる用法である。人間関係において相手に過剰な精神的負荷をかけることを指すようだ。そうして、重いという語は、負担というよりもうち…

たかが容姿

内出血は重力にしたがって移動する。こめかみを打って二日もすると皮下を流れ落ち、皮膚の薄い目のまわりが赤黒く変色した。血管を破った血がそのあたりに溜まっているのだ。目の下の、いつも隈のできるところに多く溜まり、まぶたの変色とあいまって異国の…

安心を売る

当日の注意事項は以上です。何か質問のある方はいますか。いませんか。それでは明日、現地で10時にお待ちしています。どうぞよろしくお願いいたします。 わたしは口をつぐみ、終わり、という合図をする。わたしのそれは手を軽く前に掲げてから元に戻すという…

蛮勇と退屈

職場には男しかいないから、居心地はいいよ、えっと、要するに、ホモソーシャルなんだけどね。 僕がそう言うと目の前の女が黒いマニキュアを塗った爪をひらひらさせてでかい声で笑った。そして宣言した。なんだ、自覚してるんじゃん、よっ、このホモソ野郎。…

首切り職人の顛末

僕が行くのはつぶれかけた会社だ。人の首を切ったりすげ替えたりして企業を生き延びさせてカネをもらう。正確には僕の会社がそのような役割を標榜して僕を送り込み、僕は自分の役割を遂行する。送り込まれた会社は要するに先が長くないと宣告されたようなも…

最後の路上飲酒者

私たちは最後の路上飲酒者である。私たちは桜が咲いているときにはどうしても外で酒を、それも華やかで上等の酒を、複数人で、楽しく飲みたい。それに同意する友人を新しく得ることはきっともうできない。昔はたくさんの人が同意してくれたのに、ひとり抜け…

嘘つきの親

今年の桜は早く咲いた。子はまだ桜についてはよく知らない。はな、と僕は言う。おはなみ、と言う。子は気に入りの小さなリュックサックを背負っているために機嫌がいい。走らない、と言う。手をつなぐ。駅に着いたらベビーカーに入れる。空いてはいるが、電…

嘘つきの奥歯

左上の奥歯が痛むので歯科医にかかった。毎年定期検診を受けて歯石を除去してもらっている、なじみの歯科である。歯科医院は小さなオフィスと住居が混在するマンションに入っていて、その建物にはちかごろよく見る「民泊禁止」の紙が貼ってある。 歯科衛生士…

嘘つきの子ども

母の前で僕は嘘つきになる。母が年をとって弱ってだめになって問題を起こすから、ではない。昔から僕は、親の前で嘘をついていた。 僕の自己認識はとうの昔に「自分の両親の息子」であるより「自分の娘の父親」である。しかし子は成長する。じきに成人する娘…

ある腕時計の死

わたしの時計が止まった。電池式の腕時計である。わたしはこの時計が永遠に止まらないような気がしていた。正確には、わたしが死ぬまで動いていて当たり前だというような、そういう気分で、毎日腕に巻いていた。でももちろんなくならない電池なんかないので…

皮膚接触のリテラシー

ため息をついてからだを離す。自分の肩が下がっていることに気づく。その肩をあらためて上下させてみる。引き攣るように痛い。少しほぐれたときの痛みだ。僕の背面は首から背中まで常時ひどく凝っていて、ほぐれるとぱちぱちと痛む。気持ちのいい痛みだ。運…

五歳児の甘えの技術

息子が晩ご飯を食べたくないと言う。なぜかと問えばスープがないからだという。保育園のごはんにはついているので、それがなくてはいやなのだという。まったく理屈が通っていない。わたしは保育園のごはんも把握している。息子の通っている保育園は献立だっ…

さみしいってちゃんと言え

べっとりと貼りつくような声に受話器を遠ざける。思わず顔をしかめて、胸が悪くなるような嫌悪感を自覚した。どうしてこんなに強い嫌悪感があるのか、電話対応をしながら自分の中を探った。不愉快で強い感情はしっかりとモニタリングしたほうがいいと私は考…

健全な孤独死のための覚え書き

あのさあ、わたし孤独死しようと思って、あんたも一緒にどう? 何それ、孤独死ってしようと思ってすることなの、しかも一緒にって何よ、私みたくひとりじゃなくて、家族がいるのに、子ども二人いるのに。わかってないなあ、だから孤独死を志すんですよ、健全…

なんでも上手な女の子

気を遣われていると思って緊張するとしたら、その相手は気を遣うことが上手ではない。もしかしてあれもこれも気遣いだったのではないかと思ったときにはもうだいぶ会話が進んでいる、それが上手な気遣いというものである。今日はそうだった。一対一で話すの…

基地に戻る

人が規範を学ぶときにはその境界を目撃しようとする。規範はたいてい暗黙の了解をふくみ、あるいは抽象的にしか言語化されておらず、ときに建前という名の嘘をふくむ。したがって規範の学習には実践が不可欠である。そんなわけでこの二歳児はローテーブルに…

私の頭が悪いので

自分がどこにいるかわからなくなる。正確には、自分がどこにいるか認識することなく歩いていた時間の結果として、現在地を把握できなくなる。私は歩く。私はスマートフォンを取り出す。それはいつでも現在地を示してくれる。自宅から近所といえるほどの距離…

友だちの解放奴隷の話

三百万ほどもらってくれないか。 友人がそう言った。言ったきり、いつもの顔して大きなカップでコーヒーをのんでいるのだった。私は少しひるんで、しかしそれを悟られないよう真顔をつくり、ジョージ・クルーニーか、と返した。それはなんだいと友人が訊くの…

お正月に帰る

あー疲れた、まじ疲れた。盆と正月ほんと嫌い。きみたちは俺の心のオアシスだよ、まあ飲んでくれ。正月だろうと何だろうといつも通りぼけっと過ごしているきみたちは最高だ。 盆と正月は妻の実家に行くんですよ、一日ずつ。泊まりだと耐えられないから、この…