傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

さみしいってちゃんと言え

 べっとりと貼りつくような声に受話器を遠ざける。思わず顔をしかめて、胸が悪くなるような嫌悪感を自覚した。どうしてこんなに強い嫌悪感があるのか、電話対応をしながら自分の中を探った。不愉快で強い感情はしっかりとモニタリングしたほうがいいと私は考えている。打ち消すのではなくて、見ないふりをするのではなくて。

 部下が急病で入院したということで、同居している母親から電話がかかってきた。社員の病欠時、家族から会社に電話してもらうのはいっこうにかまわない。まったく問題ない。でも詳細な病状を教えてもらう必要はない。倒れる前のようすから現在の症状の詳細まで身体の具体的な描写を織り交ぜて話す必要はない。それは部下本人のプライバシーであって、親御さんが勝手に私に話していいことじゃない。そう思う。

 私は通常の電話ではしない強引なタイミングで話に割り込み、詳細を話す必要はないこと、社内で必要な連絡はしておくことを伝えた。要するに、これ以上電話を続ける必要はないことを示した。伝えるまでに三分を要した。受話器から出る声は私のせりふにどんどん声を重ねてくるのだ。娘が急病で入院した、欠勤する、詳細は追って連絡する、これだけ言えば済む電話を、涙声で切らせない。社会人として求められる婉曲な話法で切らせてくれと言っても通じない。声には劇的な抑揚があり、ときどき震えをが加わり、弱々しいのに妙に生き生きしている。そう、すごく生き生きしているーー楽しそう、と言ってもいい。娘の状態の詳説に織り込むように、自分がいかに家族に尽くしているかを語りつづけている。

 電話を切るタイミングをはかりながら、この声はどうしてこんなに不愉快なんだろうと思う。娘を心配する母親が多少頓珍漢なことを言ったって不快になんかならない。パニックに陥っている人がまとまりのない話をしたってこんな気持ちにはならない。この人のはそうではない。そういう害のないものではない。

 むりやり電話を切ってから気づいた。あれは自分の苦痛を訴える声だった。自分が遭遇した不運について訴え、なぐさめとねぎらいを執拗に要求する声。そのように思いついて私はぞっとする。だって、娘の会社の上司なんて、どう考えても他人じゃないか。その他人にどうしてそんな反応を求めるのか。私が冒頭で「それはお母さまもご心労のことでしょう」と言ったのが悪かったのか。そんなのは当たり前のせりふではないか。そこから十五分以上(むりやり切らなければもっと長い時間)自分の感情をぶつけるためだけに話し続けるとはどういう了見なのか。

 あれは依存の声だ、と私は思う。相手のことなど考えず、ただもたれかかろうとする声だ。気持ち悪い。そう思う。もちろん、誰にも依存しない人間なんかいない。自分は何にも依存していないなんて言うやつは単に自覚がないか、薬物とかに依存してるんだ。依存がいけないというんじゃない。そうじゃなくて、隙あらばもたれかかろうとする雑さが、私は気持ち悪いんだ。そう思って、少し落ち着いた。悪感情の出所はわかっていたほうがいい。

 私は、依存というのは分散して丁寧に、相互にするものだと思っている。私たちは一人で立ってなんかいられない。私たちはどれだけ大人になったって、さみしい、いつだって、ほんとうはさみしい。さみしいから他者や社会とかかわろうとするので、仕事だってお金のためだけじゃなく、しなかったらさみしくて退屈でひどいことになると思うからやっているのだ(私は)。私たちは基本的にさみしい生き物で、だからこそ他者とかかわり、親密な人と感情をやりとりするための努力をするのではないか。

 そうだ、かまってほしかったら人間関係をケアしろ。なかったら関係を作る努力をしろ。そこいらの通行人にもたれかかるんじゃない。人間関係に不足があればプロに頼め。娘に乗っかって自分の感情をぶつけるなんて雑を通り越して邪悪だ、娘への搾取だ。自分の関係ある相手に言え。感情をやりとりすべき相手に、さみしいってちゃんと言え。

 そこまで思うと心が静かになった。時計を見ると電話を切ってから四分が経過していた。首をゆっくり回した。そうしたら胸の悪さは失せて、電話の声がどんなだったかもほとんど忘れているのだった。私は、気持ち悪い人間に遭遇すると、すみやかに遠ざかって、その具体的な細部を、すっかり忘れてしまうのだ。