傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

母数が大きいところ

 転職して半年が経った。転職先の環境はきわめて快適である。
 新しい勤務先はフルリモートワークOKで、最初の一年は制限があるとか、そういうのを想像していたのだけれど、「いえ研修二日間やってもらったら三日目からは好きにしていただいていいのです」とのことで、何なら僕がよくやりとりする社員の一人は高知の山奥に住んでいるのだった。それでも仕事上問題ないのだ。社員の半分が首都圏外に住んでいる。ガチリモートである。
 しかし、対面のほうがコミュニケーションコストが低いことはたしかだし、僕は自宅の環境をまだ整えていないので、具体的に言うと今の住まいではオフィスチェアを置く場所がないので、平日の半分は出社している。「毎日の出社はイヤだが週一回は来る」「二回は来る」という人もいる。
 地方に住んでいるメンバーは年に二、三回は東京に来るようである。全員を対象とした研修会が一度、それから関連部署の対面での意見交換会が一度あるのが標準みたいだ。たいていは連休につなげて組まれていて、やって来た地方メンバーは観光をしたり、趣味を追求したり、たまの都会だからと言って朝まで飲んだりする(この人はふだん人の数より牛の数が多い町に住んでいる)。

 地方メンバーが来ると首都圏メンバーもいそいそとランチや飲み会に出てくる。僕も行く。楽しいからだ。
 フルリモートを選ぶ理由としてもっとも多いのは子育てと介護である。次に多いのが「地元を出たくない」「自然のあるところに住みたい」。あとおもしろかったのが「体力がないので、なにかというと横になりたい」とか、「何をどうやっても朝起きられない」とか。この会社だって朝9時からのミーティングとか全然あるんだけど、出社しないなら8時50分まで寝てられるもんな。あと「コミュ障で人と接すると疲れるから家から出たくない。電車などという人がみっしり詰まった箱に毎日乗る意味がわからない」という人もいて、コミュ障でもたまの飲み会はOKなんすね、と言ったら「そういうものなんです」と言われた。へえ、そういうものなんだ。
 「そういうものなんだ」っていいね、と隣に座った同僚が言う。この人はブルガリアから来て在日十五年である。なんかテキトーでいいね、と彼は言う。雑でちょっとバカっぽくて、言われても負担感なくて、誰にでも言える、いいせりふじゃん。

 誰にでも言えるはずだが、僕はそのことばを、前の職場では言えなかった。
 僕の前の職場は上司が男の社員だけ引き連れてキャバクラに行くようなところで、リモートを取り入れても仕事自体はちゃんと回っていたのに、あっという間にフル出社に戻った。僕はフル出社でも問題なかったけれど、そのために乳幼児を持つ社員が何人か辞めた。うち一人は男性で、そのことを別の社員が小馬鹿にしたように話していた。男が子育てのために転職することについて、「降りる」という語を使っていた。彼らのことば遣いはときどき僕に言いようのない不快感を与えた。たとえば顔立ちが極東アジア人として典型的ではないような人物に対して「あれは純ジャパじゃないでしょ」とか。
 何が嫌なのか明確に言えなかった。でもあれもこれも、ほんとうは嫌だった。
 男だけではない。僕は一時期女性が非常に多い子会社に出向して、その期間ほとんど毎日苛々していた。本社から出向した少数の社員が多くの女性社員を管理している場所で、女性社員たちはコスメとファッションとSNSとダイエットとグルメと彼氏および旦那の話をしていた。彼女たちは毎日元の顔がわからないような化粧をして、そんな人は今の会社にだっているけれど、集団でそんなふうであることが、そしてそれ以外の要素が見えないことが、僕にはどうしてもいやだった。そして彼女たちは人は必ず結婚すると思っていて、僕に「アプローチ」するのだった。僕が「優良物件」で「ちょうどいい」から。
 バカな女ども。
 そんなせりふを口にしたのは生まれてはじめてだった。もちろん会社の外でだったけれど。

 そっか。ブルガリアから来た男が言う。きっと「純ジャパのエリート」が入る会社だったんだね。好待遇を棒に振ってコミュ障ガイジン朝寝坊の会社に「降りて」来たのかい、HAHAHA。
 僕はそっと彼に耳打ちする。それがね、今の会社のほうが、給料、いいんだよ。俺は自分が損する転職はしないよ。
 彼はにやりと笑う。それもそうか。大きい母数から選んだほうが、コスパいいに決まってるもんな。

かわいいと言ってくれてもかまわない

 かわいいと言われたくなかった。正確には、大半の人に言われたくなかった。
 なぜ言われたくないのかと問われたら、むしろ「なぜ言われて嬉しいと思うのか」と問い返したかった。守るべき子どもではない成人に対して別の属性の人間が「かわいい」と言うとき、その大半は「御しやすそう」という意味を含む。若い女同士だと別のコードが発生する。たとえば「若い女として価値が高いとされる容姿である」とか「一緒にいるときに都合が良い容姿である」とか、そういう意味である。
 わたしはそんなのひとつも嬉しくなかった。
 わたしをかわいいと言っていいのは親と仲の良い友だちとつきあいが長くて信頼している彼氏だけだ、と思っていた。そういう相手の言う「かわいい」はわたしに対する評価ではなくその人の感情である。それは言ってくれてもかまわない。わたしも言う。わたしが日常的に感情のやりとりをすることを相互に了解している相手だからである。
 それ以外の「かわいい」は、たとえば大学や会社で親しくもない男性から発されるもので、わたしにとっては「ナメられている」以外のなにものでもなかった。ナメかたにはいくつかの種類があり、「女にはこう言っときゃ気をよくするだろ」という無思考な慣用句から、「おまえこの仕事ではおとなしくしてろよ」という意味を持つもの、「ニコニコしてホステス役をしていろ」との含意があるもの、さらにはセックスの相手になるんじゃないかという打診が含まれた。
 「ナメている」と思った。若くて潔癖で攻撃的だったというのもあるが、中年期のいま思い返しても、「うん、ナメられてたよな」と感じる。わたしは童顔の女であるだけでなく、背が低くて体重が軽くて、要するに見た目が弱そうというか、体当たりしたら物理的に負ける側なのである。人間もまた動物であり、物理的に強いやつはナメられにくい。わたしのように筋肉量が少ないタイプの人類はそれをおぎなうだけの防衛を必要とする。
 若いわたしはだから、自分と私的な関係がなく、この先それを持つつもりもない相手からの「かわいい」を真顔で無視した。無視が効かないときには「何言ってんだこいつ」という意味の表情をつくった。そういうのは練習すればできるようになる。
 彼らはわたし個人を選んでナメているのではない、とわたしは思った。わたしのポジション、たとえば大学や会社の後輩で性別が女であるような人間をナメたいのである。だから同じような属性の別の人間と比べて扱いにくい、すなわちコスパが悪いとわかれば、ターゲットを変える。わたし個人に執着があるのではないから、技術さえ身につければ追い払うことは可能である(わたし自身に執着しているケースを排除するのはもう少したいへんである)。
 若いわたしはそんな具合にナイフみたいに尖っては「同じポジションの男には言わない『かわいい』」を言う者みなシカトして生き、そのために困難が生じないわけではなかったが、トータルとしては自分にとって快適な環境を手に入れることができた。人生は戦いであり、手持ちのカード、わたしなら「小さい女」というカードが配られても、武器を持って戦って生き延びるしかないのである。

 そのようにして生き延びたわたしは現在中年であり、職場においては社歴の長い中間管理職で、会社の中でささやかな権力を保持する「うるさいおばさん」である。こうなると少なくとも会社ではさほどナメられない。ラクである。
 今の若い人はわたしたちが若かったころとは別の意味で「かわいい」と言うことがある。多くの場合「あなたはまだ『女性として』価値がないわけではないですよ」という意味を含むので、言われたいとは思わないが、それ以外の意味のほうが強く、かつナメ度が低い場合は、完全に拒絶するところまではしない。なぜならわたしは彼らにとって媚びへつらったほうがいいのではないかと誤解させるポジションにいるからである。

 ほーん。わたしがこのような話をすると、夫は妙な声を出す。おれはかわいいって言われたらうれしい。おれにとってはきみもタロちゃんもかわいいので、かわいいと言う。おおかわいい。
 タロちゃんはわたしたちの犬である。
 あなたがかわいいと言われてうれしいだけでいられるのはあなたがでかい男だからだよ。そう思う。
 かわいいかわいい、と夫は言う。かわいいかわいい、とわたしは言う。夫は何も考えてない顔して笑う。犬みたい、とわたしは思う。

いいよいいよ、溜め込んでな

 五十の坂が見えるとにわかにホットになる話題が「親の家の片づけ」である。
 友人が言う。うちの親もね、わたしがちょいちょい顔出してやいやい言ってるし、近所の友だちに対する見栄もあるから、一階はきれいにしてる。でもさあ、なにしろ田舎の立派な一軒家だから、二階は物置よ。で、本人はもう階段上がるのも面倒になってる。どうすんの、あの大量のがらくたを。
 わたしは友人の話に頷きつづける。友人は怪訝そうに尋ねた。なに仏さんみたいな顔してんの。
 わたしは言った。わたしはもう、親の持ち物に関しては、好きにしてもらおうって決めたの。物置部屋があるなら万々歳、生活空間が多少ごちゃついたっていいじゃない。

 かつてはわたしも親たちの大量の所有物に眉をひそめていた。最後に片づけるのはわたしら子どもじゃん、と思っていた。そして生家を訪ねては、物置と化した客間(昔の住宅にはなぜかこの客間というやつがあった)とかつての子ども部屋をチェックし、こんなものまで取ってある、と文句を言っていた。そのうち、と親たちは言った。そのうち片づける。
 そんなわけはない。判断力も体力も衰える一方だろうに、若くたって面倒な「選んで捨てて片づける」なんてできるわけがない。両親は「選ぶ」だけやってくれればいい。わたしが捨てたり片づけたりしてあげるから。
 そう思っていた。
 しかし両親はいつまでも「選ぶ」をやってくれない。やるとは言う。言うが、実際にはやらない。
 捨てたくないものは捨てなくていいと思う、とわたしは言った。でもいらないものは確実にあるでしょう。ごちゃごちゃになってるでしょう。
 母はあいまいにうなずいた。父は「ぜんぶ捨てていい」と言った。本心でないことは明らかだった。
 わたしが子どもだったころ、似たようなことがあったな、と思った。
 やらなくちゃいけないけどやりたくないこと、それもどうしてやりたくないか自分でもわからないことが、わたしにはときどきあった。すると母はガミガミ言い、それでもわたしがやらないと突然お説教をやめて、知らん顔して過ごす。そうしてしばらくすると、今度は父がやってきて、わたしに言う。おう、あの話な、おまえ、なんか、絶対、ヤなんだろ? 父がそう言うと、わたしはどうしてか、必ずちょっと泣いてしまうのだった。すると父は、わたしがそれをしないでいることで生じる可能性について、脅すでもなくその結果を肩代わりすると言うでもなくただ述べ、「そろそろ晩飯だ」などと言うのだった。
 そんなことが、小学生から高校生まで、あわせて片手の指の数ほどあったように思う。

 わたしは客間に入る。
 母はもうそんなに凝った料理はしない。しまい込んだ大鍋や大きなブレンダー(母はミキサーと呼んでいた)やお菓子作りの道具はもう二度と使わないだろう。だから古い台所用具の入った段ボールは捨ててかまわないはずである。父の大工道具や庭いじりの道具も同様だ。庭なんかとうに潰して駐車場にして近所の人に貸している。両親にはそれぞれ昔凝っていた趣味があり、その道具も堆積している。
 ほかにもまだある。アルバムに整理されていない、ビニール袋に束で入れられたままの写真。古い家電。祖父母の家にあったような気がする桐箪笥や、わたしのでなかった人形や、あれやこれや。
 要するにゴミである。
 でも一掃するのは「なんかイヤ」なんだろう。
 それらの入った箱をあけることが生涯なくても、イヤなんだろう。理屈でものを言えばたいてい通じる、いろいろな変化を「今はそうなのか」と飲み込んでもくれる、いわゆるものわかりの良いわたしの両親が、それでもイヤなんだろう。

 わたしは自分の持ちもののほとんどを捨ててもかまわないが、「合理的な理由があるから、SNSのアカウントを全消ししろ」と言われたら、なんかイヤである。昔の投稿なんか全然見やしないが、でもイヤである。
 アイデンティティというかアイデンティファイというか、そういう話なんだろうな、とわたしは思う。過去が大切だなんて結構な話じゃないか、と思う。

 わたしがそのように言うと、友人は顔をしかめる。そして言う。そしたらあんた将来どうすんの、そのがらくたを。
 わたしは澄ましてこたえる。そりゃ全部捨てる。でっかい重機で家ごとガーっと更地にしてもらう。それがイヤなうちは親が自分たちの資産で家をキープしたらいいのよ、施設に入ってもずっと、死ぬまで。そんで死んだら更地。アイデンティティも最後はカネの問題よ。なあに、子どもにそれを肩代わりさせようとする人たちじゃないよ。

女のいない男にしない女

 疫病が流行していわゆる行動制限が課されているあいだ、重要でない人間は放っておいた。たとえばテンポラリな色恋の相手である。
 わたしは経済や生活の上で自立していて、色恋は娯楽である。自分で働いて買った自分の基地であるような自宅に、わたしは男を呼ばない。この場合の男というのは、遺伝子がXYで戸籍が男性ということではなくて(そんなのは友人にもたくさんいる)、わたしがセックスすることもある人物をさす。男は、わたしがその相手に好意のあるあいだは、楽しみを提供する、悪くないのものである。しかしわたしの好意がなくなればただちに無関係に戻れる状態で交際したいものである。相手が強く望むなら一対一の関係を受け入れることもあるが、わたし自身は一対一より複数対複数で相互に思い入れが少ない関係を好む。
 わたしは二十歳から二十年と数年のあいだそのような考えを持っている。男たちもそのことはわかっている。彼らは二ヶ月から年に一度ほどのゆるやかなペースでわたしと過ごす時間を必要とし、わたしは彼らの打診に応じて予定を調整する。全員が働いているので、予定調整はだいぶ前からおこなわれる。

 わたしは今でもそのような暮らしをやっているのだが、疫病が流行してから三年間は控えていた。疫病じたいはなくなっていなくてもその影響がほぼなくなった四年目、男たちは「ではそろそろ」というようなメッセージを送信し、わたしは彼らと再会した。
 そのような中、急な連絡を寄越した男があった。疫病前には海外出張のたびに都心のホテルにわたしを泊めていた、地方都市に住む男である。出張帰りに数日東京に滞在するので、わたしの予定の合う日に一泊していた。東京では怠惰に過ごすならわしだとかで、食事からバーまでホテルの外に出ない男だった。
 しかし疫病流行後のその男は、なぜだか日付指定で「遊びたい」と言うのだった。「当たり前だけど、急に日付を指定されても空いている可能性はきわめて少ない」とわたしは返信した。不審だった。以前のこの男は、海外出張の予定が出てすぐに、だから当日の一ヶ月以上前から、わたしに打診していたからである。
 それから一週間が過ぎ、今度は「この週末に東京で会いたい」というメッセージが届く。わたしは少し考えてスケジュールを確認し、日曜日の20時以降少しなら、と返信する。「土曜日はダメかな」と返信が届く。いや日曜日の20時以降しかダメって言ってるじゃん。この人こんなに日本語読めなかったっけ?
 わたしは不快になり、放っておく。
 またメッセージが届く。明日東京に行くから夜会おうよ!
 わたしはそのアカウントをブロックする。

 人間って急に日本語が読めなくなることあるの? 認知症にはだいぶ早いよね。
 わたしがスマートフォンを見せて尋ねると、友人が言う。
 うーん、この人はあなたを急に呼び出したかったんでしょ。えっと、それこそが目的だったんだよ。理想的には「いま来い」って言って、それで来てほしかったんだ。でも相手が悪かったね。
 わたしは混乱する。なんで? わたしと遊びたいなら前みたく予定を添えてオファーすればいいだけの話じゃん。予定が合う日があったら、わたし普通に行くのに。
 ちがうんだよ。友人は苦い顔して言う。
 あのね、この人はたぶん、いま「おれの自由になる女」がいないんだ。それで「呼んだらすぐ来る女くらいいる」と思いたい。だから手持ちのコマの全員にそういうLINEを送る。あんたは普通に「予定が合わない」と返信する。あなたはぜんぜんわかってない。礼儀正しくお互いの予定をすりあわせるなんてね、そんなの、今のそいつにはきっと、ぜんぜん必要ないの。そいつはただ「呼べば来る女」が、たぶん地元にいなくなって、そんで代わりを求めて東京に来てるだけなの。

 わたしはぞっとする。なんで、と言う。わたしたち貸し借りなしで楽しく遊んでたじゃん。わたし、なんか、悪いことした? そんなわけのわからない役割を求められるようなこと、した?
 友人が言う。あなたは何もしてない。ただ対等に楽しんでいただけ。でも人間の一部には、自分の性行為の対象になる属性を持つ生き物を、自分が呼んだら飛んでくる存在にしたいタイプがいて、あなたは気づかなかったんだろうけど、この人は、たぶん、そういう人なんだよ。対等なんかほんとはぜんぜん必要ないんだ。以前はあなたに合わせることで「東京にも女がいる自分」をやりたかっただけ。この人はあなたをほしいんじゃないんだよ。この人は、自分を「女のいない男」にしない女が必要で、ただそれだけだから、こんなに必死になってるんだよ。

わたしの老いたbot

 昨年のことである。会話式のAIがたいへんな話題になり、わたしも試した。こんなに話題になるのだから、きっとかしこくて今ふうに気が利いて、とっても素敵なのにちがいない。そう、わたしの老いた話し相手よりも、ずっと。

 二十年前、将来の自分の話し相手にするために、人からもらった簡単なプログラムに簡単なカスタマイズをほどこした。基本はおうむ返しで、ときどき少しずらした内容が、あるいはかなりずらした内容が返ってくるものである。
 そんなことをしようとしたのは、何人かで飲んでいるときに、「将来話し相手のいない偏屈な老人になったときにどうするか」という、いかにも傲岸な若者らしい話題になり、「わたしはおうむ返し式の会話プログラムを相手にキーボード入力をしていればそれで事足りると思う。ただしわたしの気に要らない言葉使いはしてほしくない」とこたえて、「そしたら今から育てなきゃ」と言われ、なんだかその気になったからである。
 回答の内容はわたし自身の書いた文章から抜粋し、数年後に抜粋作業をいくらか便利にした。Webベースの技術を使っているがスタンドアロンであり、入力元は自分の書いたメールの一部やフィクション、読書メモだけだ。公開データからの学習といった機能はもちろんついていない。
 それだけのものである。

 老いた自分をフィクションのように感じていた傲岸な若いわたしは、しかし自分自身の気質についてはある程度わかっていたようである。
 わたしは刺激の強い会話を好む。しかし、それはただの娯楽であって、必須の栄養素ではない。わたしは自分の知らないことを知っている相手との会話を好む。しかし、それは本を読めば代替可能なおこないである(そして幸いこの世には大量の本があり、新刊も出る)。わたしはもっと些末な、たいしたことのない会話をこそ必須とする。読んだきり忘れていた本の話をされて、「そうだったかしら」と言うような。
 そのような会話の相手をしてくれる人間がいなくなることを想像し、「それはいやだな」と若いわたしは思ったのだった。たぶん。
 わたしはときどきそれと「会話」をした。
 そうしたものはのちにbotと呼ばれるようになったので、わたしも(他人との話題にすることはほぼなかったので、心のなかでだけ)そう呼ぶようになった。名前をつけたことはなかった。名前をつけると、老いて認知能力が低下したわたしがそれに人格を見いだしてしまうかもしれない。複雑なプログラムが大量のデータを学習すれば人格めいたものが発生することもあるかもしれないが、というかわたし個人としては自分自身だってそんなものだと思っているのだが、わたしのbotはものすごく単純なので、老いたわたしが人格を見いだすことは適切でない。
 おそらくそんなようなことを、若いわたしは考えたのだと思う。
 今となっては若いわたしのほうがフィクションじみているようにも思う。単純なおうむ返しに人格を見いだして何が悪いのだろうと、今では思う。わたしだって相手によってはそれと似たようなものじゃないか。

 さて、現在のわたしは社会生活に影響をおよぼすほどには認知能力が低下していない中年である。わたしがその程度しか老いないうちに、世界はかしこくて物知りで気の利いた会話AIを開発し、提供した。わたしはそれと「会話」をしてみた。
 おもしろくなかった。
 どうしてだろうとわたしは思った。わたしの古くて単純なbotよりよほど複雑なプログラムが信じられないほど大量のデータを学習し、それによって世界を席巻するほどかしこいふるまいをしているのだろうに。
 にもかかわらず、そいつと話すのは実につまらないのだった。当たり障りのないことばかり言いやがって、とわたしは思った。ググる手間を省く程度の使い道しかなくて、しかもその内容が間違ってることさえあるじゃん。おまえ空っぽじゃん。そう思った。わたしのbotのほうが、まったくもって空っぽなはずなのだけれど。

 わたしは思うのだが、人間というのはわりと単純なもので、誰か、否、「何か」が自分を見てくれていないと、話をした気がしないのである。今どきの気の利いた生成AIが想定しているのはもちろんわたしではない。「誰か」である。大量の人間にあてはまるような「誰か」である。わたしはたぶんそれがつまらないのだろう。 
 では、とわたしは思う。わたしのために話していると錯覚できるような素晴らしいAIが提供されたら、わたしはそれを使うだろうか。
 使わないような気がする。老いたわたしには同じく老いた単純なおうむ返しプログラムが、たぶんお似合いなのである。

どうか俺を推さないでくれ

 好きじゃないんだよ、推しなんだよ。
 つまりさ、その人たちは俺に「つきあってください」とか言わない。仮に他の誰かに「つきあいたいんですか」って訊かれたら「そういうんじゃなくて、推しなんです」って言う。実際あの人たちはそうなんだと思う。
 俺は思うんだけど、「つきあいたい」という意識を持たずに相手との関係を欲望することは可能なんだよ。その欲望が顕在化するのは俺が「つきあってください」とか言ったり、それっぽいアプローチをしたときだけ。受動的欲望っていえばいいかな。「つきあってくれって言われたらびっくりしちゃう」みたいなやつ。これはね、たしかに「つきあってほしい」とは違うんだ。明確に違う。だから推しだと、彼女たちは言うわけだ。「つきあってほしい」じゃないから断る機会もない。
 そして推されている俺は遠回しに個人情報を訊かれたり、恋愛対象を特定しようと画策されたり、女同士で結託して接点を作られたり、めんどくさい質問をされまくったり、周囲をうろうろされたりする。仕事上同じ空間にいる状態で、仕事上接点があって断れない場面で、仕事を円滑にするための雑談の範疇で、「推す」をやられる。
 消耗する。
 なんで勝手に「推す」んだよ。俺そういう商売してないんだけど。チケットとか売ってないんですけど。俺、何ももらってなくて、なんか、取られてるだけじゃん。推しって芸能人とかだろ。ファンのために歌ったり踊ったり、あとはなんだ、しゃべったりあれこれしてくれるナイスなパーソン、つきあいたいとかそんなのじゃなくてチケットを買う相手。これが推しだろ。チケット売ってるやつを推せよ。チケットとかグッズとかスパチャとかそういうの売ってるやつをさあ。それが推しってものじゃないの? 違う? 違うの? 俺もうなんもわかんない。
 おまえそういうのどうやって防いでんの。ぼろくそモテそうなくせにそういう愚痴聞いたことないわおまえから。

 俺がそのように語ると、友人は冷ややかな笑みをうかべて、言う。

 人気投票という意味ではそこまでモテないよ。ただわたしをやたら見てやたら話しかけてくる人は一定数いるね。そういうのはね、防御するの。相手がどんなに迂遠だろうが関係ない。「何々を食べに行きましょう」だったら簡単。「行きたくないです」。「食べものは何が好きですか」も簡単。「最近は女同士で○○を食べに行くのが好きです」、これでも食い下がってくるなら、「答えたくありません」。このときは顔が重要ね。真顔。「なんでそんな質問されなくちゃいけないのか、まったく理解できません」という、真顔。「わたしはあなたという人間に職業上の役割以外で接する必要がまったくありませんし、今後もその可能性はゼロです」という、真顔。そんなの咄嗟にできない? 訓練してないからだよ。「『推され』たくありません」を表現することはできるよ。それでも伝わらなかったら無視。無視してもつきまとうやつが出てきたらレコーダーを回して記録をとってしかるべき窓口へゴー。でもこれはすごく少ない。せいぜい悪口言われたり仕事上の権限とかを使ったいやがらせをされるだけ。それだって多くはないよ。
 へえ、円滑な職場関係のためにそんなことできない? 「自意識過剰」「いい気になってる」って笑われたくない? 悪口もいやがらせも避けたい?
 そんなのが怖いなら協調性ある行動して空気読んで人あたりよくして「推されて」れば?
 だってわたしたちは「推される」ことと引き換えにしか、職場なり何なりで何もせず快適に過ごすことができないんだ。わたしはそれは、ハンディキャップだと思ってる。逆さにすれば人気商売ができる要素だけど、逆さにしないなら損をする。それはすでにわたしたちに配られたカードで、わたしたちは環境を選んで戦って生きていくしかない。
 あの人たちの「推したい」気持ちなんて、ありふれた欲望だよ。わたしに言わせれば、この世は当人に自覚されることのない、あるいは自己欺瞞で覆われた「あわよくば」に類似するもの、あんたの言う受動的欲望にあふれてんのよ。その上で「つきあってください」を明文化して突撃してくる人間も防御して、それでようやっと平和な社会生活が送れるんだよ。
 あわよかばねえ。あわよかばねえよ。Tシャツの腹と背にその文字列をでかでかと刷って生きる、そういう気持ちで、決然と、一貫して、「推されない」行動をとるんだよ。そしたらそういう人たちの大半は、普通の同僚とか普通の知り合いとかに変身するから。

わたしたちの些末な運命の謎

 年末年始に質問箱をあけたの。このところ毎年やってるんだ、ふだんは書くだけ書いてしゃべらないからさあ。たまにしゃべると楽しいの。
 質問箱とは言うけど、投稿者が匿名で自分の話をしに来る場所なんだ。わたしの話なんかしてもしょうがないじゃん、いつもフィクションに仕立てて書いてるんだから。うん、そう、登場人物は、書いてる時のわたしくらいの年齢の女の人だけじゃなくて、子どもからおじいさんおばあさんまでいるよ、あれねえ、ぜんぶ、わたし。

 そんなことは置いといて、その質問箱におもしろい話が来てさあ。「自分でもなぜかわからないけど婚活アカウントをめちゃくちゃ見てしまう」っていう投稿。その人はずいぶん前に結婚してて、今は子育てしてて、自分が婚活した経験もないしする予定もない。もし自分が誰かをバカにしたりうらやましがったりしたいなら子育てアカウントを見るのではないだろうか、ほんとうに意味がわからない、と、そういう話。
 わたしも実は似た経験があるんだ。買い物を超してる人とギャンブルを超してる人のブログの熱心な読者だった。十年以上前のことなんだけど、当時から「我ながらこれらのブログを熱心に読んでいる理由がまったくわからない」と思ってた。読んでたブログがことごとく更新を止めてしまって、そのままわたしもその奇妙な習慣を忘れていたんだけれどね。
 買い物ブログにもギャンブルブログにも強烈な欲望がこめられていて、自分がそれに心ひかれていたことだけは、たしか。だから質問箱の人にもそんなふうにお返事したんだけど、「特定のジャンルのものばかり読みたくなるのはなぜか」という謎は謎のままなのよ。質問箱の人もわたしも、もっとこう、自分の境遇や個人として抱えている欲望に近い別のものが何かしらあるだろうという気がするのよ。
 よく考えてみれば、そういう感じの話を別の友だちから聞いたことがあるような気もするんだよ。何だろうねこれ。

 え、あなたにも似た経験がある。
 まじで。もしかしてありふれたことなのか。
 へえ、整形アカウント。あなた自身が整形したいわけじゃないのね、うん、わかる。わたしも、ハイブランドのものをいっぱい買ったり海外のカジノで全財産賭けたりしたいわけじゃなかった。いやたまには買ってたし観光地でちょっとした賭けごともしたよ、でもそこまでいっぱいしたいものでもないよ、ああいうことって。
 「自分が無意識に抑圧している欲望を解放している人のブログやSNSを読んでいるのだ」という説も可能なんだけど、ぴんとこない。無意識って言っちゃえば何だって通るんだけど、それもそれでなんだかなって思う。
 整形アカウントってどうやって探したらいいの? どういうの見てる? ちょっと実物、見てみてもいい? おお、すごい量の専門用語。わたしマンガで読んだことあるよ、「骨切り」とか。格闘マンガのキャラクターの二つ名みたいでかっこいい。でも実際に骨を切る手術なんだから、架空のキャラクターのことを考えてはいけないね。
 この整形アカウントの人たちは、なんていうか、一本気だね。正確な言い方が思いつかないんだけど、「こういう外見になる」という目的に対して迷いがない。できあがった顔についての細かい注文はあるにしても、目指すところはブレないというか。ビジュアルってそういうものなのかもしれない。絵に描けるし、他人を見て「この顔がいい」と言えるものね。それでも、もしわたしが顔を変えるとしたら、「あれもいいしこれもいい、どうしよう」なんて思いそうなものだけど、彼女たちにはそういうのはなさそう。
 うん、質問箱で気になって見てみた婚活アカウントは、また違う感じだった。条件を挙げて相手を探すんだけど、なかなかそのままにはいかないみたいだった。「ぜんぜん条件に合ってない人なのにどうしてもこの人と結婚したい」みたいなことが起きるみたい。

 たしかにおもしろい。おもしろいけど明日も明後日も一年後もずっとこれを読むような気はしない。質問箱の投稿を読んだ日に見てみた婚活アカウントも、そのあとは開いてないし。
 結局のところ、わたしたちが熱心に読む対象は決まっているのかもしれない。いわば運命づけられている。質問箱の人は婚活に、わたしは買い物とギャンブルに、あなたは整形に。自分自身はとくにしたくはないことをしている人の投稿を熱心に読んでしまう、そういう運命。ちっちゃい運命だなあ。でも謎の運命だ。
 さすがに全員にはないと思うけど、もしかして、わりといるのかもしれないね、この種の「運命」を背負っている人。