傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

家の女

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だからわたしは行くところがなくて、ただ走っている。

 わたしが十代だったころ、若い女は将来結婚すると決まっていた。わたしは短大を出て大企業に就職してその職場で結婚して「寿退社」をした。そして子どもを産む予定だった。婚家は都内の、政治家や芸能人の屋敷はないけれどそれなりの「ランク」の住宅街の一軒家で、子ども部屋候補としてリフォームされた部屋がふたつあった。

 わたしはとうとう妊娠することがなかった。それが誰のせいかは知らない。知ることができる時代でもなかった。それを甘えと今の若い人は言うのかもしれない。そもそもそういう結婚をすべきではないとか、手に職をつければよかったのだとか、そのように言うのかもしれない。
 とにかくわたしには子がいない。

 子ができないがそれ以外に「目立った問題」がないために離縁することもできないらしかった。そうして夫はがったり老け込み、もともとこもりがちだった書斎で食事までするようになった。
 夫はわたしを殴ったことがない。だから悪い人ではないのだと思う。
 夫は結婚当初から、わたしが用件のない会話を持ちかけることを嫌う。夫はわたしの名を呼んだことがない。

 わたしがうんと若かったころ、わたしは美しかったのだそうである。それで夫がわたしを気に入ったのだそうだ。わたしは毎日実家の犬を連れて歩いて、足りないからひとりで走って、それだけで高校では陸上の都大会まで出た。のんきな時代だったからだと思う。
 わたしは暇さえあれば犬を連れて外を走っていた。犬が誰よりもわたしと感情をやりとりできる相手だったから。
 勉強はあまりできなかった。スポーツを続けたいなどと言っても誰も喜ばないことはわかっていたし、目立つこともよくない気がした。両親ははなからわたしを「片づける」つもりだった。その方針を悪であると断定することは、わたしにはいまだにできない。今どきの会社勤めのインテリの若い女の人を見て、自分に同じことができると思われない。

 子ができないことをあきらめたらしい夫から「趣味を持ってもよい」と許可されたので、安く済む範囲で登山をはじめた。わたしは細いと言われることが多いけれど、身体きわめて頑健である。実際に山に行ける回数は少ないけれど、身近なものを使ってトレーニングするだけでも楽しかった。
 なによりわたしは少々の「妻のこづかい」がもらえたことをうれしく思った。わたしがごはんをたくさん食べるので、舅と姑はそれが気に食わないようすだったのだ。わたしは舅と姑の目の届かないところでごはんをいっぱい食べてそうしてまた動き回っていられることを、何よりうれしく思うのだった。

 ある日、登山は楽しいかと夫が聞くので楽しいですとわたしはこたえた。一人でもかと夫は重ねてたずねた。登山はひとりでやるようにと厳しく言われていたからだ。わたしはこの機会を逃すまいと思い、珍しく一瞬で大量の思考を重ねて、言った。ほんのすこしさみしく感じます。もし犬を飼うことができたら、わたしの生活は完全になります。

 完全か、と夫はつぶやき、完全ですとわたしはこたえた。
 そしてわたしは犬を手に入れた。

 それから十数年が経った。わたしの生活はもちろん完全だった。わたしは自分の身体が求めるだけの運動をすることができる。わたしは運動に見合った食事をすることができる。朝の公園で犬仲間とおしゃべりすることができる。ときどき近郊の山に登ることだってできる。わたしにはそれでじゅうぶんだった。家にいない時間を確保できるなら、それで。
 犬が老いて視力をうしなったすぐあとに疫病禍がやってきた。

 犬は名を「ぐら」という。仲間と森の中を歩いておいしいごはんをいっぱいつくってみんなで食べる絵本の主役のひとりだ。子どもができたら読ませてやろうと思っていた。
 子犬のころは「ぐらちゃん」と呼んでいたけれど、その響きからあっというまに「ぐらたん」になった。ぐらたんのことは舅も姑も好きなようだった。彼らがこっそりおやつをやってもまったく太らないほどにぐらたんはよく運動していた。

 ぐらたんは老いた。もう走れない。疫病下では日帰りで都外の登山をすることも難しい。
 朝が来る。わたしはぐらたんを歩かせる。朝の公園にはぐらたんをかまってくれる犬がいっぱい来る。わたしの会話の九割はここでおこなわれる。わたしは帰宅する。家事をする。それからジョギングに出る。もはやジョギングのほかにわたしが家にいない理由はない。

犬のアルバイト

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにペットを飼う人が増えたのだそうだ。私もご多分に漏れず犬の飼育計画を前倒しした。それでうちにはいま一歳の犬がいるのだけれど、この犬はふつうの犬であって、何ができるというわけでもない。しかし最近は犬の身ながらアルバイトをしている。
 私の犬は特別な経験をしていない。強いて言うならめちゃくちゃ散歩している。いちおうは小型犬なのに、大型犬のごとく激しく散歩している。そうして近所の犬とよく遊び、休日はピクニックやドッグランに行っている。幼犬ばかり集めたお泊まりなどにも参加した。
 そんなだから私の犬は他の犬が好きだ。飼い主としては「犬同士で遊んでくれるならラクでいいわ」という程度のものだったのだが、そういう性質がアルバイトになるのだから世の中わからないものである。なんとなればこの世には犬同士で遊ぶ機会が少ないまま大きくなったために犬との遊びかたがわからない犬がけっこういるからである。

 私は犬のしつけをひととおりやって「まあだいたい良いな」「しかし、もうちょっといけるはずだよな」と思って、自分だけでは練習のしかたがわからないから、徒歩圏内のドッグトレーナーを探した。
 そうしたらトレーナーさんが自分のところで預かっている犬と私の犬を遊ばせて、「よかったらまた他の犬と遊んでください」というのである。遊び相手が確保できるのはこちらも助かるので、歯磨きやらドッグスリングやらの練習に通い、前後によその犬と遊ばせている。トレーナーさんがそのたびに何かくれる。リードとか犬のガムとか犬の服とか歯磨き剤とか、そんなのをくれるのである。どれもあればありがたいものだ(私は進んで犬に服を着せたいとは思わないが、手術後の服や雨の日のカッパなどを着せる必要があるので慣らすようにしている)。

 そのようにして私の犬はアルバイトをしている。たいていの相手は犬社交をやる機会が少なく、犬に対しては吠えるか突進するかしか知らない子犬ちゃんである。私の犬は突進されても距離を取り挑発して追いかけっこに持ち込み、相手の体格に合わせてプロレスごっこをやる。
 相手の子犬ちゃんは何度か遊ぶと遊び方を覚えてくれる。そして人間に向き直り、私に愛想良くしっぽを振る。みんな私の犬よりかしこい。私の犬は「なんだ、もう遊ばないの」とばかりに鼻をピスと鳴らして私の斜め後ろに座って耳の後ろをかく。私にしっぽを振らない。私の犬は私がいると機嫌はいいが、他の人に対するより愛想がよくない。たまにはしっぽをぶんぶん振ってほしい。

 そのような犬のアルバイトにおいて、ちょっと難しい犬の相手をした。対面させるとキャンキャン吠えるのはよくあることだが、あいさつの機会を待っている私の犬に向かって吠え、犬の嫌がることばかりを試みる。追われれば即座に人間の後ろに逃げる。初対面の人間である私のスニーカーの間にぐいぐい入りこんで私の顔と私の犬の顔を交互に見ながら吠えつづける。
 この子は他の犬が気になるんですよとトレーナーさんが言う。気になるのにこんなふうにしかできない。面倒ですみません。しかしこの子も苦労していましてね。飼い主さんがDVの被害に遭って。ええ、それはもうひどいもので、行政の接見禁止を取ったのだそうです。
 DV加害者は犬には暴力を振るわなかったそうですが、目の前で飼い主が殴られたら犬だってつらいのです。だからこの犬は人間には無条件で媚びる。そうして自分と同じ犬に対面したときの自分の感情がわからなくなってしまったのだと思います。興味と無関心と好意と意地悪な気分がごちゃごちゃになっている。
 私は納得した。この面倒なふるまいをする犬は、子どもで言うところの「面前DV」に相当する経験をしたのだ。コミュニケーションに難が生じても無理はない。コミュニケーションをしようとするだけ立派である。
 疫病禍が長引くにしたがってDVが増えたのだそうだ。しんどい話である。私はそうした問題の専門家ではなく、親しくない相手にできることがほとんどないから、人間の被害者にはたいしたことができないが、犬同士の遊びならばんばん提供したい。私の犬がいいよと意思表示する範囲での提供ではあるけれど、私の犬はちょっと鈍くて細かい屈折とかよくわかんなさそうだから、だいたいOKするんじゃないかと思う。

相談に乗れない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。その状況が長引くにしたがってDVが増えた。出かけないからDVが起きるというより、問題ある場所が閉じられてさらに問題が濃縮されたという図式である。そういう数字を認識するだけでしんどい。人づてに、あるいはペンネームあてのメールでその種の話を聞くたびに「お役に立てればいいのですが」と思う。
 思うのだが、私は実際にはまったくお役に立てない。ペンネームあてのメールではもちろん、親しい人からの「友だちがDVに遭っているようなのだが、どうしたらいいだろうか」といった相談に対しても、実は役に立てていない。私ができることはふたつしかないからだ。
 ひとつ。相手の発言内容からそうだと推定したときには、「それはDVだと思います」と言う。ひとつ。被害にあっているとおぼしき人の居住地域にある相談窓口のリストや参考になりそうな文献リストを送る。以上。
 彼女たちは「なにか実になることを言ってくれるのではないか」と思ってメールなりLINEなりを送ったのだろうに、返ってくるのはそれっきり。役に立たぬ人間である。

 役に立たないのは、私が冷たいからではない。いや、私の人格はわりと冷たいのだが、その冷たさとDVの相談をはじめとする深刻な人生の相談で役に立たないことのあいだに関連がない。私が深刻な人生の相談の役に立たないのはただ、私にその能力がないからである。
 私には他者の深刻な人生の相談を解決する力がない。話を聞くだけにしたって、有効な聴き方ができるのではない。親密な関係なら「言ってすっきりした」的な効果を提供できることもあるが、友だちの友だちとか知らない人とかだったらぜんぜんだめである。専門的な知識も技能もないからだ。相談窓口リスト以上のアドバイスなんかいっこもできない。

 そんなだから「それはDVだと思います」と言うことも以前は避けていた。避けていて文献リストを提示してメールを終わらせただけでも、数週間後に抗議されたりした。
「マキノさんから勧めていただいた本(を読ん)で、(自分が配偶者にされていることは)モラハラではないかと(自分が疑っていることが配偶者に知られるはめに)なって、(配偶者が自分に対して)手が出ました。マキノさんには(自分が配偶者に暴力を振るわれたことに対する)責任があると思われませんか」
 というメールが来たのだ。私が責任を取るべき内容ではありませんと回答した。
 なお、()内のような自分に関する主語のない文章を書く人は、相談系メッセージ以外にもけっこう多く、相談系メッセージでもそういう書き方をしない人もいっぱいいる。このあたりは相関関係が見受けられない。

 なにはともあれ相談に回答するというのはたいへんなことである。それでも私は「それはDVだ」と思ったときにそう言うことまではやめないと決めている。それさえできない状態になったら知らない人がコンタクトできる窓口(SNSとかメールとか、人づてとか)を順次閉じる方針である。
 なぜかといったら、そのほうが気持ちいいから、私のナルシシズムが満たされるからである。
 以前、家族問題の専門家の講演に出たとき、フロアから質問をした。非専門家がDVを名指しすることは可能か、そうでなかったときに責任が取れないようにも思う、というようなことを、私は尋ねた。すると彼女はこう言った。
「あなたがDVだと思ったら、そう言うべきです。あなたが非専門家なりに勉強した上で『DVだと思います』と言って、もしDVでなかったとき、悪いことがありますか」。
 私はそれを聞いてこのようにお礼を言った。たしかに、私が間違ってDVじゃないものをそうだと言ったところで、ほんとにDVだったときの当人へのリターンに比べたらゼロみたいなものですね。じゃあ言います。

 そのときに回答をくれた専門家は、なにしろ格好良かった。講演会の質問にそんなふうに答えてもトクをすることはない。「あの有名な○○がこんなふうに言っていた」と悪意の上で曲解されることさえありうる。それでも彼女は見知らぬ私に力強い断定をくれた。なんて格好良いのだろうと思った。あいまいに回答することもできるし、そうする人のほうが多いだろう。でも私は彼女の格好良さのほうを取りたいと思った。そちら側を目指したいと思った。理由は、そのほうが自分をよいものに思えて、気持ちがいいから。
 そんなわけで私は、DVだと思ったときに『それはDVだと思います』までは、言うと決めているのである。

おしゃれしないと死んじゃうの

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの勤務先でもテレワークが常態化して、人によってはフルリモートである。そのためにまいってしまった社員がけっこういる。彼らは口々に言う。些末なコミュニケーションがないことの非効率性について。仕事時間の区切りがつかなくなる危険性について。あるいは、家庭用のダイニングテーブルで長時間PCをたたくことの健康上の問題について。
 わたしはそれらについてできるかぎり解決し、あるいは解決できないと告げる。そういう係なのだ。わたしは非効率性の内容を精査する。わたしは交通費を廃止する。わたしは代わりに「在宅勤務に係る手当」を支給する。わたしは常よりこまかく面談をもうける。業務にまったく関係なくてもいいからリモートをやっていてしんどいことを教えてくださいと言う。参考にしたいので、と。
 彼らは口々に語る。運動不足による宿命的な体重増加について。親の帰宅までひとりで過ごせていたはずの小学生が勤務中にかまってほしがることについて。あるいは親が在宅しているとうるさがる高校生について。何ヶ月リモートワークを続けても一人暮らしの生活リズムができあがらないことについて。

 わたしはそういう話を聞くのがけっこう好きである。わたしは疫病禍の前から会社主導の飲み会なんかしなくていいと思っていたタイプだが、同じタイプだと思っていた若手社員が「出るか出ないかは別としてですね、年に一回の歓送迎会はあってしかるべきですよ、出て行った人が出て行ったっていう実感がないですもん、個人的にさよならとか言う関係でもないし」と言ったときには「たしかになあ」と思った。この三月末の退職者はなんというか、まだそこいらにいそうな気がするのである。
 そうやっていろんな話を聞いていると、ぜんぜん普遍性のない話もあるのだが、普遍性がないからこそおもしろいということもある。個人的にいちばん印象深かったのは「服装を考えずにいたら具合を悪くした」というものである。

 彼女はたいへんにおしゃれな社員である。定番を持っているタイプのおしゃれさんではなくて、季節感とバリエーションにすぐれるタイプだった。もしかすると完全に同じアイテムの組み合わせは一度たりともしてきていないかもわからない。わたしはそれほどファッションに熱心なほうではないが、それでもよく感心していた。コーディネイトだけでなく、スタイリングまでよくて、シンプルな服装のときにも「もっとこうしたほうがいいのに」というところがない。髪に至ってはどんな頻度で美容室に行っているものかわからなかった。
 彼女のファッションは身だしなみだとか趣味だとかの範疇におさまるものではなかった。言葉の正しい意味での「スタイル」、生き方の一部といってよかった。別棟の会議室に行くときにコートを着る者と着ない者があって、皆が数分の寒さを取るか面倒さを取るかという話をしている中、着ない派なんですねと話を振られて、「会議室にクロークがないから」と答えた人である。彼女の世界においてコートを椅子の背にかけるのは非常事態なのだ。クロークがなければ気温が低かろうと風が強かろうとコートを着ない。優雅かつ強靱、とわたしは思ったものだ。

 そんな彼女であってもリモートワークだとファッショナブル度合いが下がったようだった。なにしろ少なくとも靴を履きません、と彼女は言うのだった。それだけで何割かのテンションと社会性が落ちます。わたしも人目がないと「まあいいか」と思って下半身楽な格好にしたりしていました。ええ、わたしだってそう思うんです。ひとりだったらいいかって思うんです。そうしたらですね、半年かかって徐々に食欲が失せ、肌が荒れ、些末なことも面倒に感じられるようになり、夜の眠りは浅く、好きな映画を観ても楽しくならないのです。

 わたしはなんだか感心した。人間、何を人生の重要事項にしているかわからないものだ。本人だってそこまでファッションが生活に必須だとは思っていなくて、だから手を抜いたのだろうに。
 でも今はだいぶ元気になりました、と彼女は言う。インスタとかやったんですか、とわたしは訊く。いいえと彼女はこたえる。インスタは前からやっています。フォロアーけっこう多いです。でもあれは細部をごまかせてしまうし、なにしろ一瞬ですからね。わたしは身支度をしたら「自主通勤」してるんです。駅前まで歩いて行って、戻ってくるんです。
 それで元気になったのですかと問うと、彼女は画面越しでもわかる得意げなほほえみで、ええ、と言った。

あわよかばない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために人が人に話しかけるハードルは劇的に上がった。対面して声を出すことは相手にリスクを負わせるおこないであり、軽々にしてはならない。そういう合意がすみやかに形成された。
 そのために私の友人は「少なくとも一点でとても楽になった」と言うのである。その一点とは、女性である彼女に対する、知らない男性もしくは顔見知りの男性からの、色気含みの「連絡したい」「二人で話したい」「二人でどこかへ行きたい」というオファーである。

 平たく言えばナンパ、または知人からコナをかけられるというシチュエーションだけれど、彼女はこれにとにかく悩まされてきた人である。見た目の華やかさももちろんあるのだが、どうもそれだけではない。同性で彼女に恋愛感情を持っていない長年の友人である私から見ても、ほとんど理不尽なまでに「この人の特別な人間になりたい」と思わせるところがある。ちょっと油断すると「ほかの友だちよりわたしを優遇してほしい」と思ってしまう。
 ぜったい言わないけど。彼女が昔からそれに悩まされていたことを知っているという、ひそかな優越感をもって、私はそんなこと、言わないのだけれど。

 彼女はかつて、わたしたち十代だからだね、と言った。十代ってそういうものらしいからね。二十代だものね、とも言った。みんなパートナーが欲しくて活動的になるんだよね。三十代を過ぎれば、とも言った。それでも状況は変わらなかった。彼女はやがて、視線だけで相手をしりぞける技術を研くようになった。表情に嫌悪感を載せる方法を会得した。
 そして私たちはとうに四十を過ぎた。それなのに、疫病前に彼女とわたしが食事をしていると、やっぱり誰かがやってきて、あからさまに彼女の視線の上に来るように移動し、そして彼女に話しかけるのだった。

 あるとき私がそのことを話題にしたら、彼女はどこかつめたく感じられる豪快な笑いを笑って、それから言った。ああ、もう、しかたない、わたしが、そういうたちなんだ。
 彼女の容姿は相応に年をとって、彼女はその容姿に居心地良く座っていて、そして彼女は、やっぱりとても、人目を引くのだった。年をとってもそんなだから、もしかすると昔から、容姿のために話しかけられるのではないのかもしれなかった。そこには説明のつかない磁場のようなものがあるのかもしれなかった。
 主に男であるような人々、それからいくらかの男性でないような人々が彼女のまわりを物欲しげにうろうろするのは、だからしかたのないことなんだろう。魅力は権力だというのが私の認識である。そして権力はその持ち主にとって必ずしも出し入れ自由なものではないのだろう。

 いいかげんにしてほしい、とくに異性愛男子、と彼女は言った。わたしはね、男性の友だちがもっといるはずだったのよ。でも何かというと「あわよくば」ってなるんだよ、異性愛男子、けっこうな割合で。
 あわよかばない。あわよかばねえよ全然。「あわよかばない」って書いたTシャツ着たい。でもできない。せめて「あわよかばない」Tシャツがいらない数少ない男性の友人たちのことを大切にしようと思う。

 彼らは可能性に寄ってくるんだと思うよ。彼女はそうも言った。いっぱつやれそう、あるいは、自分に恋をしてくれそう、そういう可能性。異性愛女子なら、親友とか庇護者とか、なんらかのレアな存在になってくれそう、みたいな可能性。わたしにはそのような可能性の隙間があいているように見えるのだと思うよ。
 でもほとんどの場合、わたしはそうではない。わたしには隙間なんか空いていない。わたしは友人と食事をする。それは知らない人に話しかけられるためではない。あるいは友人だと思っていた人に「友人ではなくて別の何かになれ」という欲求を向けられるためではない。
 私は彼女の苦労を理解する。私は彼女が被っている迷惑を理解する。しかし一方で、私自身もほんとうは彼女の特別でありたいのにな、と思う。彼女は手を変え品を変え、「わたしと食事をしたいならわたしの特別になりたいという欲求を1グラムも出すな」と、彼女のすべての友人にいいつけている。それが彼女の友人の座の代金なのである。

 しかしそのあと世界は変わった。人が人に話しかけることの意味が変わった。彼女の架空の「あわよかばない」Tシャツをみんなが着ているような世の中になった。 彼女は言う。ソーシャルディスタンスってほんとうに素敵。ねえ、みんな、ちょうどよくそばにいて。そしてそれ以上近寄ってこないで。

あなたを守ってくれた人

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために新規の彼女を作るのがなかなかたいへんになった。そうしたら、「あんたに泣かされる女子が減ってよかったじゃん」と友人が言うのである。

 僕が女性を泣かせるというのは正しくない。単に交際が長続きしないだけである。別れるとき泣く人は少なくて、だいたいは怒る。そうでなければ落ちこむ。
 怒るのは「彼氏を作ったのにすぐだめになったのはその彼氏のせいだ」と思っている人である。落ちこむのは「彼氏を作ったのにすぐだめになったのは自分のせいではないか」と思っている人である。泣く人は一人しか見たことがないけれど、あれは怒りや落ちこみを涙で表現しているので、悲しくて泣いているのではなかった。僕と別れるのが悲しくて泣くような仲になった相手なんか今までひとりもいないよなと僕は思う。だって、一人あたま十回とかしか会ってないんだから。

 こういう話をすると、僕が多くの女性と性的関係を持ちたがる唾棄すべきクソ野郎だと思われることが多いんだけれど、僕はセックスはそこまで好きじゃない。だからつきあった相手と必ずしているというわけではない。とくにこの二年ほどは「セックスするとなんか取られたみたいな気持ちなって怒る女性がいるようだ」と認識したのでやっていない。でもやらないほうが怒られるようにも思う。

 そして交際を終了させるのは僕ではない。相手の女性である。でも彼女たちだけが原因なのではもちろんない。デート数回で僕のテンションがダダ下がり、どうしたらいいかよくわからなくなり、放っておく。そしてふられる。いつもこのパターンである。コピペみたいだ。

 パターンが維持されるのはあんたが変わらないからだ、と友人が言う。人間関係の癖はその人を写す鏡だよ。新しい出会いがないうちに変えておきな、まわりがいい迷惑だから。
 友人は幼なじみである。実家が近所で親同士の仲が良く、友人の両親の都合がつかないとよく僕の家にいた。
 人間関係の手癖は親のせいにするのが定石なの、と友人は言う。たとえばわたしはさ、弟が手のかかる子で両親とも忙しくて、いろんな人に助けてもらって育って、今でもゆるくいろんな人と助け合うのがよくて、誰かと一対一で密な関係を築くとか全然合ってないわけ。だから彼氏も別にいらないわけ。誰もが彼氏彼女作っていずれ同居して、みたいなのに合うわけじゃないんだよ。昔はともかく、今はそういう型みたいなのに自分をぶちこまなくても生きていけるんだから合わないことする必要ない。
 こういう自己理解みたいなものがあんたにはないわけ、それが問題なわけ。友人はこのように話を締め、僕はちょっとあきれた。そんな簡単にいくわけないだろ。

 友人はちょっと笑って僕を見て、お父さんに似てきた、と言った。外見だけはね。かっこよかったよね、あんたのお父さん。シュッとしてて頭よくって。実質あんたんとこの会社を大きくしたのはおじいちゃんじゃなくてお父さんでしょ。でもチャラついてなくて、あの年代のわりに家のこともできて、料理上手で、わたしなんかもよくお世話になったでしょ。「みんなまとめて守ってやる」みたいな人で、あんたんちの家族も会社の人もお父さんのこと大好きでさ、あんな人が将来のモデルとしてまず提示される同性の親だっていうのはなかなかたいへんなことだよ。だからあんたは「守ってくれ」という態度をちょっとでも出されるとテンションめっちゃ下がるんだよ。

 そして、と友人が言う。そこで言葉を止めるのは友人としては一応配慮しているつもりなのだろう。でもそんなのぜんぜん配慮にならない。
 僕は父のようになってはいけないのだ。死ぬから。働き盛りで突然病気になってあっというまにやつれて死ぬから。
 父は自分が死ぬとわかってもみんなを慰めて励ますほど強い人だったのに、僕にだけこっそり言ったのだ。お母さんと妹をよろしくな、守ってやってくれよ。
 僕は十三歳だった。

 実際のところ母も妹もたいがい強靱な連中で僕に守られる必要なんかなくて、あれはただ父が感傷的になって言っちゃっただけのせりふなんだろうと思う。思うが、僕はそれでも自分の「守る」アレルギーが治る気がしない。

 いや、だから、と友人が言う。「守ってあげます」「守ってください」じゃない関係もあるでしょうよ。そういうのを作ればいいんだよ。さみしがりで惚れっぽくて彼女はほしいんだからさあ。だいじょぶだいじょぶ、そういう人も探せばどっかに落ちてるよ。

こんなもの握りつぶしてしまいたい

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。感染状況に波はあれどなるべく出歩かないという方針は常態化し、弊社ではどうしても対面でなければならない業務以外は基本的にオンラインのままである。
 僕は運悪くというかなんというか、管理職になって二年目に疫病の波に見舞われた。まあしかたないんだけど、しかたないっていうかもうどうしようもないんだけど、業務のオンライン化のための僕の仕事量は結構なものだった。そうしてとくに評価されるでもない。上司から「よくやっている」とは言われるのだけれど、会社から出た手当は、何をかくそう最初の月にもらった一万円だけである。残業代だってつかない。
 でもやたらと忙しいことも待遇がついてこないことも実はわりと平気だった。僕はけっこう辛抱強いのだ。地味に地道に徹底的に、というのが平素からの僕の信念である。

 それなのに今回はほとほとまいってしまった。
 週末が来ると僕は完全な無気力に陥った。ほぼベッドから出なかった。

 簡単に言うと、職場でハラスメントが起きたのだ。とはいえ被害に遭ったのは僕ではない。そして被害者は自分が被害に遭ったことを知らない。ことはオンラインの業務コミュニケーションついでの雑談の場においてのみ繰り返され、エスカレートした。
 僕がなぜそれを知ったかといえば、それが起きたチームの構成員がリークしたからである。きっちりとファイル名に日付を入れたスクリーンショットの量が、彼の(リークしたのは男性、被害者は女性である)怒りを物語っていた。
 僕がこれまでに扱ったことのあるハラスメント案件は超露骨なセクハラ一件と関連会社を巻き込んだパワハラ一件、いずれもどこからどう見ても百パーセントひどいので管理側としてはある意味ラクだった。加害者は単体の「ひどいやつ」であって、そういうのは(被害者には申し訳なんだけど)第三者としては割り切って扱えるので、精神的ダメージはさほど大きくない。

 今回はその反対だった。被害者は自分の被害内容を知らず、加害者は単体ではなく、どこから「ひどい」と言えるようになったかの切り分けがわからない。結果はものすごくひどいんだけど、どこが境界線なのかわからない。

 僕はあのスクリーンショットを忘れることができない。
 決定的な文言が出る前のやりとりを読むと、特定のメンバーにイレギュラー業務が集中することについて、他のメンバーは軽い罪悪感を持っているような雰囲気があった。それが発端だったのだろうと思う。
「いや、まああの人がやってくれるっていうから、いいでしょ」
「ああいう人が一人いると組織としては使い勝手良いよね」
 トリガーはこの「使い勝手」という言葉だった。日を重ね、月を重ねるうちに、被害者本人がいないやりとりにおいて「便利ちゃん」という語が出現した。やがてそれは「お便利ちゃん」になった。

 最後のスクリーンショットにはこう書かれていた。「それもお便女ちゃんに処理してもらえばいいじゃん」。

 僕はきっと幼いところがあるのだろうと思う。他人より多くの仕事をしたら感謝されるにちがいないとどこかで思っていた。誰かに何かしてもらったらありがとうと僕は思うから、それが当たり前だとどこかで思っていた。そんな人間ばかりではないと、逆恨みだのヘイトクライムだのもこの世にあふれていると、頭ではわかっていたのに。その仕組みだって理屈では了解しているのに。世界史とかで習った。本だって読んだ。そういうテーマの映画も観たことがある。人間は理不尽に特定の属性の人間を貶め、貶めるための会話を仲間内の娯楽にする。
 そうしたことを、僕はほんとうにはわかっていなかったのだろう。だから送られてきたスクリーンショットを見てこんなにもダメージを受けている。

 僕は被害者にこの話を聞かせたくない。加害者たちには相応の処分が下るだろう。こういうものを野放しにしておく会社ではない。でも被害者はどうなる。組織として詳細をそのまま知らせることはないにせよ、人の口に戸を立てておくことはできない。
 ぜったいにそんなことはしないけれど、僕はこのスクリーンショットを握りつぶしてしまいたいと思う。彼らの会話のどこからがアウトなのかの境界線を引ききれない自分、すなわち彼らと同様の心根を隠し持っているかもしれない自分も一緒に、握りつぶして、なかったことにしてしまいたいと思う。