傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼女の無邪気な異文化体験

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それで活性化したのがオンラインのつながりである。わたしは本名ベースのSNSのアカウントを持っているが、投稿はしていない。属性だけ変える。そうすればいちいち「転職しました」というメールなどを出さなくていいからである。
 そんなだから「友だち申請」的なものもふだんは少ないのだけれど、疫病流行から三ヶ月くらいでぽつぽつ増えはじめ、半年も経つと誰だか思い出せないような人からも申請が来るようになった。新しい人と知り合う機会が減った疫病下では、古いつながりを引っぱりだしてつながりなおしておこうとする人が多いのかもしれない。
 わたしは機械的に相手の素性を確かめる。とくに問題なければ「友だち」申請を許諾する。だってわたしはどうせなにも投稿していない。申請についているメッセージには返信しない。メッセージを送りたければ自分から送るし、そのときは別の連絡先を交換する。わたしの交流は常にサシなのだ。

 今日も雑に申請を見た。ひとつは小学生のころにクラスが一緒になったかもしれないアカウント。許諾。もうひとつはたしか大学に入ったばかりのころに何度か話したーー。
 そこまで脳が動いた段階で、わたしは「拒否」のボタンを押した。

 彼女は裕福な家のお嬢さんだった。いかにもそれらしい仕草で、派手すぎない質の良い服を着ていて、いつでも似たようなお友だちと一緒にいた。そうしてたまたま何かの授業のグループワークでわたしと一緒になった。それは彼女の苦手分野だったらしく、わたしが彼女の作業を巻き取った。
 彼女はわたしにたいそう感謝し、わたしを見かけると寄ってくるようになった。学食でレジを打っていると聞いたから見に来たの。どうしてそのお仕事を選ばれたの? 家庭教師や塾講師ではなくて? そう、両方されているのね。昼休みのレジは食事が出るから!? なるほど……。飲食関係に興味があるのね。今度の土曜日、遠藤さんたちとホームパーティだって聞いたの、わたしもお邪魔していい?
 何人来てもかまいやしないとわたしはこたえた。土曜日の夜、彼女は興味津々でわたしの家に来た。その瞳はきらきらと輝いていた。
 わたしは自分で自分を食わせている学生だった。裕福な家で育って裕福な友人とだけ一緒にいた彼女にはわたしの生活のすべてが珍しいらしかった。接したことがないから。フリーマーケットで買って自分のサイズに詰めた服が「おしゃれ」に見えるらしかった。見たことがないから。私が作る安上がりな料理にもたいそう関心があるようだった。食べたことがないから。彼女はわたしをながめまわし、すごい、と言った。すごい、頼もしくて、尊敬しちゃう。勉強になります。

 彼女を連れてきた遠藤が彼女を送り、それから電話をかけてきた。ごめん。あれはないわ。
 まあまあ、とわたしは言った。たいしたことはない。単なる無知でしょう。まかない目当てのバイトしてるのがわかんないレベルなんだよ、ある意味すごいわ。自分の知らない生活について本を読むなり統計をあたるなりしたことがなかったのかね。失礼だけど、まあ、無邪気な観光客みたいなものでしょ。
 遠藤は黙り、それから言った。それは無邪気ではない。知的怠慢だ。そしてあなたに対する搾取だ。あなたは観光スポットではない。彼女は学生同士の友人関係という枠組みの中であなたを観光した。そういうのを搾取という。わたしはそのように無知を恥じない態度を品性の欠如と呼ぶ。

 今にして思えば遠藤は十八歳の大学一年生としてはだいぶしっかりしたやつだった。なるほど、とわたしは思った。そしてわたしはそのできごとを忘れた。わたしは多忙で移り気で、関心がなく不快なものはぜんぶ忘れる能力をそなえていたのである。

 「友だち申請」が来て二十年ぶりに彼女のことを思い出したのだけれど、今でもなぜ彼女のふるまいがものすごく気持ち悪かったかはわからない。同じころ、別の裕福な女の子が深刻な顔で「自分があなたみたいな状況だったらみじめさで自殺している」と言ったことがあって、そのときは腹を立てて抗議したけれどそれ以降はあんまり怒っていなかった。というか件のSNSの「友達リスト」を見たらその人の名前があった。せりふは強烈だが、あとから名前を見てもなんとも思わない程度のできごとだった、ということだ。
 はたから見たら「みじめさで自殺する」のほうがひどいせりふだけれど、言われた側は「頼もしくて尊敬しちゃう」のほうがはるかにキモかった、ということだ。どうしてだろうか。久しぶりに遠藤に連絡をとってみよう。

千羽鶴と魔女

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。医療福祉職は「エッセンシャルワーカー」という、疫病下で新しく作られたカテゴリの筆頭とされ、だからわたしの仕事はずっとよぶんではない。
 よぶんでない仕事の負荷は高まり、それが改善する見通しはない。わたしたちの忙しさや危機感は居住地の感染の状況と社会の気分(実はこちらも非常に大きなファクターである)によって右に左に振り回される。極限状態、小康状態、取り残された過去の仕事の回収、取り残された自分の将来のための勉強、ふたたびの多忙、そしてまた取り残されるさまざまなものごと。待遇? 上がるはずがない。手当だってつかない。なんなら疫病への対応のための出費のために給与が切り下げられているケースもある。

 「エッセンシャルワーカー」とはなんなのかと思う。もしかするとそれは、ご立派な呪いをかけられた人間たちのことではないかと思う。「大多数の生活のために長期間におよぶ過酷な労働に耐え、感染症のリスクはもちろん非常に高く、給与は切り下げられ、でも『これがわたしたちの使命ですから』と笑っていろ」という呪いをかけられた人間たち。報酬は「感謝」。わたしの勤める病院にも千羽鶴が飾ってある。

 でももちろんそんなことは口に出さない。わたしだって「感謝」を嫌いなのではない。感謝さえされることがなくなれば、とうに辞めていただろうと思う。そうは思うが、同時に犠牲的労働を長期間続けることも好まない。
 自分の所属する組織が非常事態にどう対応するか、非常事態が長期化したときにどのようなヴィジョンをもってことにあたるか、わたしはこの半年、注意深くながめてきた。そうして出た結論は、「長くいるものではない」というものだった。わたしは長いつきあいの転職エージェントに何度も相談し、恨みを買わぬようあれこれと根回ししたうえで、新しい職を得た。

 公共性がより高い職場にいるのが非常時の医療者のつとめだと考えるなら、わたしは職場を変えるべきではない。比較的若くて身体頑健なのだから勤務内容が相対的に過酷でない職場は年長者に譲るべきだという意見もあるだろう。
 しかしわたしはそれをしない。わたしはひとりの労働者であり、ひとりの生活者である。疫病下にあって心身をすりつぶされるまで働いて倒れて千羽鶴を折ってもらう犠牲者ではない。それこそが正しい医療者で正しい「エッセンシャルワーカー」だというのなら、わたしは失格である。失格で結構だ。

 わたしは子どものハロウィンパーティに出る。友人たちの年齢の近い子が五人あつまり、独身の子ども好きも参加するホームパーティである。
 子の髪を編んでオレンジのリボンをつけ、子が選んだオレンジの地に黒いチュールのロングスカートを着せてやる。子は上機嫌で、保育園で入ったという「まじょのかい」について話す。ママも入りたい? と訊くので、大人でも入れるのかと訊きかえすと、もちろん、と言う。まきせんせいもはいってるもん、と言う。おとこのこもはいれるんだよ、と言う。りょうくんもはいってるの。
 じゃあ入れてもらおうかな、とわたしは言う。女の子だけとか言われたらママ絶対はいらないけど、誰でも入れるんなら入っちゃおうかな。
 だれでもじゃない、と子が言う。まじょはだれでもじゃないの。まじょはとくべつなんだよ。そうかそうかとわたしはこたえる。そりゃあそうだよねえ、魔女だものねえ。

 子どもたちが乾杯する。大人たちも乾杯する。わたしはかたちだけグラスを掲げる。そうか、と誰かが言う。家族以外と飲食しちゃ、いけないんだよね。たいへんだなあ。近所のお医者さんにも感謝しなくっちゃ。
 わたしはあいまいに笑う。以前の職場ではたとえ飲食しなくても私的な集まりに出てまんいち感染したら何を言われるかわかったものではなかった。だからわたしは誰とも会わなかった。そもそもそんな気力も体力も残っていなかったし、あったとしても人と休みを合わせるなんて不可能だった。
 わたしはその状況を続けるべきだったのかもしれなかった。それこそが正しい医療者の姿なのかもしれなかった。わたしが医師免許を取ったとき、そういうキラキラした自己犠牲にあこがれていなかったとはいえない。けれどわたしはもう自己犠牲をよいものとは思えない。自己犠牲を求める連中を糾弾したいと思う。犠牲を生むシステムを維持するな、犠牲のないシステムを考えろ、と思う。
 それを堕落と呼ぶ人もいるのかもしれなかった。わたしはだから、ほんとうに「魔女の会」に入ったのかもしれなかった。

ふるまいのコード

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから長い時間が経って、レストランはなんとなく再開しているところが多い。しかしわたしの伯父の寿司屋はこのまま休業をつづけて、どうかすると廃業するかもしれないという。

 わたしは東北の小さな街に生まれた。進学のために隣の県の都市に出て、そのまま働いている。東北随一の都市ともなると繁華街も大きく、飲食店も賑々しく営業再開しているように見えるが、実際のところは歯が抜けたように休業継続や廃業の貼り紙がある。外食が「よぶん」とされていた期間を持ち堪えられなかった、または疫病下の客数で店を開くことに意義を見出さなかった店たちである。
 わたしは寿司屋に行く。東北は魚がうまいところだと、東京あたりの人は言う。まあ日本の半分くらいはそうなんじゃないかと思う。ともあれわたしはよく魚を食べる。生の魚が寿司の格好になるまでどういうルートをたどるか、わたしはよく知っている。寿司屋を楽しむ方法もよく知っている。伯父の店に遊びに行っていたからである。

 お寿司屋さんはお寿司を食べるところだと、幼いわたしは思っていた。けれども伯父の寿司屋はどうもそれだけではないのだった。わたしの家の近くにはローカルな回転寿司があって、そこだって美味しかった。でも伯父の店のそういうのとは違っていた。子どもにもわかることだった。
 伯父は特別な制服のような白の服を着て白い木のカウンターの内側に立っている。カウンターにはシミひとつない。子どものわたしは醤油をこぼさないよう最新の注意を払う。こぼしたって叱られないとわかっている。でもこぼさない。格好悪いから。
 わたしはそこで「気取って食事をする」という娯楽を知った。清潔さをつきつめた、なんだか神社みたいな感じのする空間で、背筋を伸ばして座ること。姪っ子としての甘えは控えめに、大人みたいに微笑むこと。お店の人と二言みこと話をして、ぴかぴかのグラスに冷たい飲み物を入れてもらうこと。中身がただの麦茶でもその一杯は特別に感じられた。ジュースではなくお茶をもらうのがわたしは好きだった。ジュースだと子どもっぽいし、だいいちお寿司に合わない。それに、あたたかいお茶は最後にもらうものだーー伯父の店のようなところでは。

 あれから二十年が経って、わたしは伯父の店に似た寿司屋にいる。伯父の店を恋しく思う。もう再開はしないだろうと、父が言っていた。震災後も早々に再開してずっと続いていた店なのだけれど。
 わたしの生まれた町は少し観光客が来る漁師町だ。わたしが小さかったころ、たいそう大きな水族館ができて、それでだいぶ人が来るようになった。でもメジャーな観光地というわけではない。伯父の店のお客は地元の人と観光客が半々くらいだった。それなら地元の人が支えてくれるかというと、どうもそうではないようだった。
 伯父の店は町いちばんの高級店だから、冠婚葬祭の需要も多かった。でも人が集まるには感染症対策を万全にした上で人にとやかく言われないよう気を配る必要があり、それなら近隣の少し大きな町に出た方が楽なのだ。電話の向こうで母がそう言っていた。

 だからわたしの生まれた町には、わたしが寿司屋と思うような寿司屋はなくなる。わたしが好んで行くようなレストランはそのうちゼロになるかもしれない。もちろん、そうした店がなくなっても、外食はできる。水族館の向かいに巨大なショッピングセンターができて、そこにひととおりの飲食店が入っているのだ。寿司屋だってある。
 けれどもそれらはわたしの感覚では、とても綺麗なフードコートだ。全部の店が同じ法則で動く。ぴかぴかで明るくて内装も素敵で、気兼ねも緊張もいらない。いいと思う。わたしだってそういう店にも行く。
 けれども、飲食店がそれぞれのコードを持ち、人々がそれを楽しみ、子どもが入る時には緊張して大人の真似をする、そういう店がなくなるのは、やはりある種の豊かさが失われることだ。そうした豊かさを必要とする人は、実は一割もいないのだろうけれど。ぴかぴかのショッピングセンターがある豊かさの方を、多くは選ぶのだろうけれど。そもそもわたしのように大きな都市に出た人間が故郷をとやかく言う権利なんかないんだと、そう言う人だっているだろうけれど。

 わたしはカウンターの白木を見る。わたしは周囲のお客の会話に耳をかたむける。わたしは板前さんの説明を聞く。わたしの好きな「よぶん」をゆっくりと味わう。

かつてこの世界にあったバーという場所について

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。レストランは「よぶん」と「よぶんでない」の中間くらいの扱いで、なんとなく「まあちょっとはいいんじゃないか」という雰囲気になっている。この雰囲気というのがくせもので、根拠はないが従わないと我が身があやうい。そのこと自体がしんどい。疲れる。
 疲れるが、それはそれとして、レストランに行けることは喜ばしい。僕は生活における飲食の重要性がきわめて高いタイプの人間なのだ。稼ぎが上がってもエンゲル係数が下がらない。「やったー給料が上がったー、何くって何のもう」とか思ってしまうのだ。

 そんなだから飲食店が閉じた時期はつらかった。今でもけっこうつらい。というのも、休業を続ける店もあったし、そのまま閉店する店もあったからだ。幸い行きつけはみな生き残ってくれたが、まだ行っていない店はいわば僕の将来の希望なのだ。希望の目減りは人生の損失である。
 また、少し前までは飲食店の閉店時間が早かった。とにかく夜遅くに出歩くのはよくないという、なんか中学生を管理する学校みたいな理屈がはびこっていて、どんなにテーブル間隔の離れた店でも二十時に閉じる、みたいなことがおこなわれていたのだ。ちょっと意味がわからなかったけれど、僕は有給休暇を使って仕事を早引けするなどして無理やりレストランライフを保った。そうしてよく一緒にレストランに行く友人にこんなメッセージを送った。あのさ、フレンチ食ったあとなのに八時に帰りの電車に乗るんだけど、すごくね? 友人の返信はひとことだった。世も末だ。

 世はまだ終わらない。このたびの疫病は人類を滅亡させるようなものではない。しかし早々に終わりそうな飲食店がある。バーだ。レストランの後に(僕は)当然のように行く店である。
 僕は思うんだけれど、大人が百人いたらそのうちひとりくらいがバーを必要とする。あとは必要としない。いやもうちょっと多いだろと思ったそこのあなた、この場合のバーは広義のものでなくて、オーセンティック・バーなのです。どうですか、急にユーザー数が減ったでしょう。
 特段に裕福でもないのに一杯の酒に二千円とか平気で払う。その場所に何か特別なものがあるのではない。やることといったら酒を飲むだけである。それでもって、酔っぱらう場所でもない。酔いはするが、誰も酔っぱらいにはならない。店の人や他の客と会話をすることが主目的ともいえない(自分が一緒に行った人との会話が主目的であることはあるが、それはすべての飲食に存在するパターンである)。形態は決まっており、ある種の要素が周到に排除されている。それがバーである。
 そんなもん何のためにあるんだと言われたら、僕は小さくなって、えっと、バーに行くためにあります、とこたえる。コーヒーを飲めればなんでもいいわけじゃなくて、カフェじゃなくちゃいけない、そういう気分のことってあるでしょう、あれと同じです。人口の一定数はそれを必要とするんです。そこでなければできない種類の呼吸のしかたがあるんです。

 僕はバーに入る。実に久しぶりに入る。そこには感染症対策としてのクリア・アクリルはない。ビニールカーテンもない。それを置いたら成立しないからだ。それが置かれていないことを承知した人間しか、この店には来ない。アルコールスプレーだけを、控えめに僕らは使う。
 バーに行く人間の半分以上は香りフェチだと思う。いいにおいして気持ちいいから行くんだと思う。それが主な目的とはいえないけれど(それならアロマショップとかでいいもんな)、でも重要な要素ではある。少なくとも僕にとってはそうだ。だからアルコールスプレーのにおいが近くのお客の鼻の邪魔をしないよう、そうっと使う。僕らの生活から不可分になった、美と風情のないほうのアルコール。
 カウンターに座る。目の前ではバーテンダーが澄ました顔でカクテルを作っている。バーテンダーというのは澄ました顔をしている生物なのである。僕もある程度澄ました顔で言う。お店をあけてくださって、ほんとうにありがたいです。
 今はね、とバーテンダーが言う。今はまだ可能です。しかし長期的に見ればわれわれは滅びる運命にあります。不要不急ですからね。僕は言う。そうですね。そうしたら僕は、かつて世界にはバーという場所があったという話を、しつこくしようと思います。誰が不要と言おうとも、僕には必要な場所だったんだと。それが滅びたなんてほんとうにひどいことだと。

あなたの最後のパーティ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにいくつかの事象が絶滅する見通しだ。そのうちのひとつがパーティである。

 この世界にはかつて、知らない人を含む多数の人間が集まって飲食をともにし、特段の目的もなくさほどの実りもない会話をし、それだけで何時間も過ごす、という行事があった。宴会とかパーティとか、そういう名前のイベントである。現在でもないのではない。よほどの関係のある者同士のよほどの機会であれば実行可能だ。
 具体的には、披露宴だとか、精進落としだとか、そういった冠婚葬祭的なものは、実行しても非難されることは少ない。少ないが、それらもしだいに減ると予測される。「感染リスクを取ってまで来いというのか」と思われることが人間関係上のリスクだからである。「感染リスクを負うか否か選ばせるのは申し訳ないから」という理由でわずらわしい義理の関係から遠ざかることもできる。そのうち、招待しても不自然でないのは何親等まで、くらいの「マナー」ができるのではないか。

 そんなわけで大半のパーティ、とくに些末な宴席は遠からず絶滅する。私は宴会大好きなパーティピープルとかではなかったから、それでもまあ生きるのに差し障りはない。ないんだけど、生きるのに障りがなければ何がなくなってもいいということはない。この世から余剰が少しずつ消えれば、いずれは自分の生命が不要と感じる、人間というのはそういうものだと、私は思っているのである。
 だから私は私の最後の宴会について思い返し、それを記述しようと思う。

 あれは二月末のことだった。疫病は世を席巻していたが、人々はそれがまだ短期でおさまると思っていたので、怖がること自体が少々珍しく、「不謹慎」な言い方をするなら浮き足立っていた。私もそうだった。
 私は趣味でフィクションや感想文を書いていて、それを読んだ人からときどきお金をもらって文章を書いている。もちろん本業は別にある。その日は脚本を依頼されたラジオドラマの収録で、帰りに宴会が設けられた。参加者はその日に収録された番組にたまたまかかわった俳優やスタッフであり、全員を知っているのはディレクターだけだった。まあせっかくですから飲みましょうよ、ということで、飲みに行った。今となってはなつかしいばかりの不要不急ぶりである。
 疫病はすでに流行し、私の本業の出張が取りやめになったりもしていたが(新幹線やホテルの払い戻しをして、払い戻しが混み合っているということでずいぶん待ったことを覚えている)、都心の居酒屋は満席だった。人々は今からは考えられないほどぎゅうぎゅうに飲食店を埋め、無防備に話ながら飲食していた。私たちもそこに加わった。

 私の隣に座ったのは頭の回転の速い豪快な女性で、宴席をともにするにはベストな相手だった。私は二十数年もののフェミニストであって、エンタテイメント業界の宴会のノリにすっとなじむタイプではない。先方もそれをわかっていて私を誘うので、人によっては「下手なこと言えないな」という空気を出す。なんなら「僕きっと怒られちゃいますねー」とか言う。しかし彼女のような人がはさまってくれれば全員が安心である。彼女ははっはっはーと笑って、言った。ここでわたしたちが感染したら明日の新聞に「浜松町の居酒屋で二十代から四十代の男女七人濃厚接触」って出ちゃいますね。はっはっはー。

 笑うようなことだったのだ。私たちにディスタンスは課されず、私たちに消毒液はかけられず、私たちに体温計は向けられなかった。非接触体温計を見たことさえなかった。

 私たちが何も考えず「せっかくですから」と宴席をもうけることはきっと二度とないだろう。選び抜かれた少数ではない、知らない人をふくむ雑多な大人数で無目的に集まることは、この世界ではもう起きないだろう。
 私たちは重要な関係だけを選んでコミュニケーションを取るだろう。私たちは関係の些末な糸をすべて捨てるだろう。私たちの薄いつながりは清潔なデジタルデータの形式でしか保持されないだろう。薄いつながりが直接のコミュニケーションに移行する確率はひたすら下がりつづけるだろう。袖すり合うような縁を感染リスクとして減少させるだろう。
 私はあなたの最後のパーティについて尋ねる。あなたが最後に参加した、無目的でさほどの実りのない、あなたにとって重要でない多数の人々との会話の場を。それは不要と判断された事象だから、今のうちに書いておかなくてはきっとどこにも残らない。

ママの最後の呪文

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしにとって母はよぶんなので、疫病以来直接に顔を合わせていない。そして母はわたしが設定して送ってあげたタブレットを使って映像で話すことを好きではない。手足もウエストラインも映らない、顔ばかりを映すシステムだから、母は好きじゃないんだろうな、とわたしは思う。

 母は美しい人である。今どきの若い女性と並んでも目立つほどの高身長で手足が長く、とてつもない小顔、その顔だちもすっきりと整って、いつも姿勢がよく、昔ながらのファッションモデルみたいだ。本人はしょっちゅう太った太った子どもを産んでからほんとうに太ったと言っていたけれど、それでもなお海外ブランドのゼロ号が入る細い胴回りが自慢で、それ以上のサイズをクローゼットに入れることをいやがった。今でもそうなんだろうと思う。

 わたしは幼いころ、母の美しいのが嬉しかった。家に遊びにきた友だちがびっくりするのが楽しみだったし、授業参観でも得意満面だった。しかし、思春期に入るとしだいに母の姿を肯定的にとらえることができなくなった。母にとっての美はいわゆるモデル体型で、それ以外にはないみたいで、わたしのからだはそうじゃなかったからだ。
 母はわたしがブラジャーを手洗いして干すと露骨にいやな顔をするようになった。あらゆる部分が大きかったからだ。母にとって、肉体のパーツが大きいことはいけないことなのである。わたしが短いスカートを履くと「脚」と暗い声でつぶやいた。そして食事を別にするようになった。わたしがあまりにたくさん食べるので混乱するのだろうとわたしは思った。母は葉物野菜ばかりを大量に食べ、そのほかは非常な少食だった。
 わたしは運動をしていて、骨太で筋肉もあって、母のようでなかった。わたしは友人たちに恵まれていたからか、自分のからだを頼もしくて豪華なものと思ってわりと気に入っていたのだけれど、母はそれが嫌いなのだった。

 とはいえ、わたしの身体のうち母が軽蔑する首から下についてはまだ扱いがラクだった。蔑視させておけば済むことだからである。問題は母が良しとする部分だった。わたしの顔立ちは彫りが深く、母にとってそれは薄めの顔立ちより「上」だった。わたしがそれを知ったのはずっとあとのことだった。母はわたしの顔立ちについて決して言及しなかったからだ。わたしが十二歳のとき、田舎から遊びに来た祖母がわたしの顔を見て、お人形さんみたいねえと言った。母の気配が凍りついたのがわかった。そして母はぼそりと言った。でも、デブでしょ。しょせんは。
 それまではもってまわったせりふしか言われたことがなかったので、「デブ」という語に驚いたことを覚えている。その発言の意味するところを自分なりに把握したのは十六歳のときである。もちろんそれは「病的な肥満である」という意味ではない。「醜い」という意味ですら、おそらくはない。母が誰かに対峙して不安になったときに唱える呪文なのだ。そのひとことで相手の価値をひっくりかえす、母の最終手段なのだ。

 わたしにはどうしても理解できなかった。胴まわりや脚の太さがそれほどまでに重大な問題になる母の世界が。わたしが小さかったころ、母はわたしを猫かわいがりして、座布団より薄いお膝にのっけてくれていた。それなのに、たかが外見が気にくわないだけで、娘に嫌われてもしかたないことを延々と言う。

 そんなわけでわたしは今や母を嫌いである。ひとさまの外見を一瞬でジャッジして、相手が自分の基準で自分より「下」であることに安心していた母。外見のみならず、出身大学だの勤務先だので「加点」「減点」をしていた母。わたしが受験や就職で人生に「加点」すれば喜び、しかし最終的に声音の落ち着きをうしなって、わたしのからだをじっとり眺め回すようになってしまった母。
 がまんしなくていいのに、とわたしは思った。デブのくせにって、言っていいよ、ママ。わたしちゃんと今でもデブだから、だいじょうぶだよ、ママ。あれから一回もデブって言わなくて、ママとってもえらかったね。でももうがまんしなくていいんだよ。
 そう思う。でも言わない。

 わたしはそのように母を嫌いである。嫌いだから、母に(わたしの考える)よりよい人間になってほしいとは、もう思わない。より楽な生き方をしてほしいとも思わない。疫病が落ち着いたら実家をたずねて、いつものせりふを言ってあげようと思う。ママは相変わらずきれいね。ママの脚はいつ見てもほんとうに細くてまっすぐで素敵なのね。

どうして友だちと会えないの

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そうすると一緒に住む人間の重要性は良くも悪くも増す。事態の長期化もあいまって周囲では家庭生活の変化についての話が多くなった。このたびPCの画面越しに話している友人は離婚するのだそうである。

 うちの場合はもう、Zoom離婚よ。原因がZoomなんだもん。冗談みたいだけど、実際にそう。そうそう、あのイケメン。友だちみんなそう言う。あはは。
 まあ、外見はいいの。有名企業に勤めてもいるの。学歴なんかもいい。それでもだめなものはだめ。ああ、DVとかモラハラとかじゃないよ。そういうのだったら先に言う、話聞くだけでダメージ受けちゃう人も少なからずいる話題でしょ。
 あのね、夫がZoom飲みに乱入してくるのよ。だから別れたの。

 夫はわたしの親戚や友人のすべてに会いたがった。新婚当初は「わたしの周囲の人みんなにあいさつして、自分が夫だと言いたいんだな」と思って少し嬉しかった。「そういうのを愛情っていうのかしらね」なんて思った。でも夫は一度のあいさつでは終わりにしようとしなかった。二度でも三度でもわたしの友人たちとの集まりに参加したがる。したがるっていうか、当然みたいな顔してついてくる。
 わたしはいやな気分になった。交友関係を制限したい系の、なんていうかDVの前兆じゃないかと思って、断るようになった。そうすると夫は引き下がる。引き下がるんだけど、なんていうか、落ち込むの。

 わたしはできるだけ詳しく友人たちの話をするようにした。夫が心配しないように。そしてみんなが夫を認めていると、ことあるごとに付け加えた。それに加えて、男女まじりの複数人の会合にかぎって、夫の参加を許した。隅のほうにいるだけなら無害だし、見栄えもするから、みんな悪くは思わなかったみたい。

 でもねえ、それでもねえ、一年もたてば鬱陶しくなるわよ。あのね、あの人、話題の提供ってものをしないの。にこにこして聞いるみたいな顔してるけど、人の話を聞いたのなら受け答えができるはずでしょう。でもそれはしない。
 家ではわたしの話を聞くし、受け答えもする。でもつきあって二年、結婚して一年のころに、わたし、気づいちゃったの。夫のわたしに対する発言はすべて、すごく念入りに作られた定型文じゃない? 誰かが脚本を書いているように思えてならないんだけど?

 飲み会や何かなら夫を置いて出かけられる。でも疫病以降そういうのは極端に減った。部屋でZoom飲みをするようになった。そうすると夫がふざけた調子で映り込んでくる。

 最初はみんな笑ってた。でも二度目、三度目になると、わたしは画面を切って真剣に夫を叱るようになった。夫は棒立ちになってそれを聞いていた。

 とうとうわたしはリビングに鍵をかけて、「二時間だけ寝室とダイニングで過ごしてよ」と言った。一時間が経過したとき、夫が扉をどんどん叩いた。わたしはぞっとした。自分の音声をミュートにして、扉の向こうの夫に向かってたずねた。どうして二時間くらいそっとしておいてくれないの。そうしたら夫は言ったわ。

 どうして僕が友だちに会えないようにするんだ?

 夫はね、わたしの友だちを自分の友だちだと思っていたのよ。親の言うことを聞いていい学校に行っていい会社に入って、言われたとおりに仕事して、会社のつきあいはあって、親戚の集まりに行ったらそれなりには扱ってもらえて、地元で同級生が大勢が集まるときには呼んでもらえることもある。でも夫にはそれ以外の人間関係はない。そして結婚したら結婚相手の友だちは自分の友だちでもあると、なぜだか思い込んでいたのよ。

 夫は、なぜでしょうね、自分が友人関係を獲得しにいくという発想がないみたい。人間は魅力的に感じる相手としか話したくないんだということがあまりわかっていないみたい。みんながにこやかに接してくれて、みんなの側から話題提供してくれて、自分はそれを聞いていればいい、それが当たり前だと思っているみたい。ようやくまともな友だちができたのに、と言っていた。あなたの友だちじゃない、とわたしは言った。怖かったわよ。だから離婚するの。同意したくせに書類を返さないものだから、先に別居した。

 どうしてわたしとは会話らしいことができたかって?
 「女性というものは理不尽だからそうでもしないと手に入らない」と教わったのですって。誰にかって、そりゃあ、もちろん、お母さんよ。