疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしにとって母はよぶんなので、疫病以来直接に顔を合わせていない。そして母はわたしが設定して送ってあげたタブレットを使って映像で話すことを好きではない。手足もウエストラインも映らない、顔ばかりを映すシステムだから、母は好きじゃないんだろうな、とわたしは思う。
母は美しい人である。今どきの若い女性と並んでも目立つほどの高身長で手足が長く、とてつもない小顔、その顔だちもすっきりと整って、いつも姿勢がよく、昔ながらのファッションモデルみたいだ。本人はしょっちゅう太った太った子どもを産んでからほんとうに太ったと言っていたけれど、それでもなお海外ブランドのゼロ号が入る細い胴回りが自慢で、それ以上のサイズをクローゼットに入れることをいやがった。今でもそうなんだろうと思う。
わたしは幼いころ、母の美しいのが嬉しかった。家に遊びにきた友だちがびっくりするのが楽しみだったし、授業参観でも得意満面だった。しかし、思春期に入るとしだいに母の姿を肯定的にとらえることができなくなった。母にとっての美はいわゆるモデル体型で、それ以外にはないみたいで、わたしのからだはそうじゃなかったからだ。
母はわたしがブラジャーを手洗いして干すと露骨にいやな顔をするようになった。あらゆる部分が大きかったからだ。母にとって、肉体のパーツが大きいことはいけないことなのである。わたしが短いスカートを履くと「脚」と暗い声でつぶやいた。そして食事を別にするようになった。わたしがあまりにたくさん食べるので混乱するのだろうとわたしは思った。母は葉物野菜ばかりを大量に食べ、そのほかは非常な少食だった。
わたしは運動をしていて、骨太で筋肉もあって、母のようでなかった。わたしは友人たちに恵まれていたからか、自分のからだを頼もしくて豪華なものと思ってわりと気に入っていたのだけれど、母はそれが嫌いなのだった。
とはいえ、わたしの身体のうち母が軽蔑する首から下についてはまだ扱いがラクだった。蔑視させておけば済むことだからである。問題は母が良しとする部分だった。わたしの顔立ちは彫りが深く、母にとってそれは薄めの顔立ちより「上」だった。わたしがそれを知ったのはずっとあとのことだった。母はわたしの顔立ちについて決して言及しなかったからだ。わたしが十二歳のとき、田舎から遊びに来た祖母がわたしの顔を見て、お人形さんみたいねえと言った。母の気配が凍りついたのがわかった。そして母はぼそりと言った。でも、デブでしょ。しょせんは。
それまではもってまわったせりふしか言われたことがなかったので、「デブ」という語に驚いたことを覚えている。その発言の意味するところを自分なりに把握したのは十六歳のときである。もちろんそれは「病的な肥満である」という意味ではない。「醜い」という意味ですら、おそらくはない。母が誰かに対峙して不安になったときに唱える呪文なのだ。そのひとことで相手の価値をひっくりかえす、母の最終手段なのだ。
わたしにはどうしても理解できなかった。胴まわりや脚の太さがそれほどまでに重大な問題になる母の世界が。わたしが小さかったころ、母はわたしを猫かわいがりして、座布団より薄いお膝にのっけてくれていた。それなのに、たかが外見が気にくわないだけで、娘に嫌われてもしかたないことを延々と言う。
そんなわけでわたしは今や母を嫌いである。ひとさまの外見を一瞬でジャッジして、相手が自分の基準で自分より「下」であることに安心していた母。外見のみならず、出身大学だの勤務先だので「加点」「減点」をしていた母。わたしが受験や就職で人生に「加点」すれば喜び、しかし最終的に声音の落ち着きをうしなって、わたしのからだをじっとり眺め回すようになってしまった母。
がまんしなくていいのに、とわたしは思った。デブのくせにって、言っていいよ、ママ。わたしちゃんと今でもデブだから、だいじょうぶだよ、ママ。あれから一回もデブって言わなくて、ママとってもえらかったね。でももうがまんしなくていいんだよ。
そう思う。でも言わない。
わたしはそのように母を嫌いである。嫌いだから、母に(わたしの考える)よりよい人間になってほしいとは、もう思わない。より楽な生き方をしてほしいとも思わない。疫病が落ち着いたら実家をたずねて、いつものせりふを言ってあげようと思う。ママは相変わらずきれいね。ママの脚はいつ見てもほんとうに細くてまっすぐで素敵なのね。