傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

僕が正常になった日

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。そのために人々は個人的なコミュニケーションに困り、インターネット越しに話したりしていたようである。僕にはそういうのはとくに必要ないのでやらなかった。数ヶ月間くらい私的なコミュニケーションがなくても僕の精神はとくに問題を感じない。個人的な情を交換する会話は年に何度かでじゅうぶんに足りる。疫病のせいではない。もとからである。そういうのを正常でないと言う人もいるんだろうけれど。

 久しぶりに友人と会った。その友人が久しぶりなのではなく、友人という関係の人間に久しぶりに会った。なにしろ僕の友人は一桁しかいない。そのうえで疫病が流行したので、他者がいる空間での食事など一年ぶりである。僕は独居で、遠方に住む血縁者と話したいという欲求もとくにないので(仲が悪いわけではない。単に必要がないのだ)、一年間、すべての食事を黙って一人で食べた。そういうのは正常な状態でないと人は言うのだろうし、だから外出禁止が少しでも緩むといっせいに人と会おうとするんだろうけれど。

 友人はテーブルの向こうにいる。大きなテーブルである。隣のテーブルとも大きく間隔があいている。そういう場所を選んだと友人は言う。どうもありがとうと僕は言う。僕は食が細いし、満腹したらぜったいにそれ以上食べたくないし、酒は一滴も飲まない。他人に合わせて喫食するなんてぜったいにごめんである。友人は僕のそういう性質をよくわかっているから、勝手に好きなものを食べて手酌で日本酒をのんでいる。そして言う。羽鳥さん、ここしばらく、快適だったでしょう。

 僕はうなずく。僕は他人と物理的に接触することが嫌いだ。目の前の友人のような、よほど慣れた人間であれば、たとえば自動車の隣の席に座ってもそれほど不愉快ではない。世の中のほとんどの人間とはそれ以上近づきたくない。僕はそれほどまでに他者との接触や近接を嫌う。職場ではコクーン状の半個室ワークスペースを使用している。就職氷河期世代だったので何度か転職しているが、転職条件のひとつに「じゅうぶんなワークスペース」と明記している。混んだ会議室はひたすらがまんする場所だった。満員電車に乗らないためだけに相当の家賃を負担し、一時間歩いて通勤している。

 そいういうのは正常じゃないと、若い頃はとくにうるさく言われたので、ひどく努力して女性と交際したりもしたけれど、そしてそれはやってできないことではなかったけれど、そのあと「抑うつ状態」と診断された。交際していた人が嫌なのではなかった。他人との物理的接触のすべてが、僕は嫌なのだった。医者にしつこく質問されたのだけれど、僕は人を汚いと思っているのではない。自分を汚いと思っているのでもない。単に皮膚だとかそういうものと接触するのが嫌なのだ。調理のために生肉を触るのが嫌で、生きている他人の身体はもっと嫌だと、そのように感じる。生まれつきそういうたちなのだ。

 でも今、混んだ会議室はない。大量の他人がみっしり詰まった宴席もない。僕はきわめて安定し、仕事のパフォーマンスは向上した。

 友人は言う。羽鳥さん覚えてる? 私が「羽鳥さんに向かって正常じゃないって言ったやつ全員殴りに行く」って言ったときのこと。

 覚えている。僕が抑うつ状態に陥ったとき、最初に気づいたのはこの友人だった。友人は僕の性質をよく知っていた。僕と交際していた女性と親しい仲でもあった。

 正常になろうと努力した、その結果、どうも生きていかれる気がしない。そういうようなことを、僕は述べた。友人は憤怒した。そしてかばんから紙とペンを取り出し、名前を書けと僕に命じた。あなたにそう思わせた人間の名前をぜんぶ書け、ひとりひとり殴りに行くから。そう言ったのだ。

 友人は言う。でも今や世界はこのようになった。人々はモニタや、アクリル板や、ビニール・カーテンや、フェイスシールドや、そんなものをはさまないと、他人と話すことができない。なんならそのうえでマスクをつけている。みだりな物理的接触は悪事になった。ねえ、「正常」なんて、その程度のものですよ。今やあなたは「正常」であり、社会に迷惑をかけない、立派な生活態度の人なのですよ。

 僕は笑う。僕はうつむいて少しだけ笑う。僕はもうだいぶ前から「正常でなくてもよい」と思い定めて生きてきた。でもいざ自分が「正常」になってみると、やはり少しだけ、ほんの少しだけ、嬉しいように感じるのだった。

そしてわたしは嘘をつく

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。しかしながら引っ越しはいまだ認められている。「要」で「急」であるという審査を通るかぎりにおいて。具体的には労働もしくは「家族」の要請するかぎりにおいて。

 この社会は第一に自助、それから血縁・法律婚家族の「絆」で回っている。真実天涯孤独であるならその証明書を出せばしかるべき機関が(ゲットーとあだ名されている)指定住宅を提供する。「福祉」である。疫病が流行しているこの非常事態において許される私用の引っ越しは、家庭の結成と解散、または「福祉」を要するケースのみである。

 わたしの引っ越しは政府の定義における不要不急でない。この国家がこの事態において容認するものではない。わたしは女で、女と暮らしたいのである。

 そんなだからわたしは芝居を打った。わたしは一緒に暮らしたい女を「緊急連絡先の姉」とし、そうして同世代の男の友人を「結婚する予定の人」として連れて、不動産屋におもむいた。そのようにしてわたしは「生家と配偶者をもつ正しい家族」の隅につらなる嘘をつき、引っ越し先を探すことができたのである。一度賃貸住宅に入居してしまえば、契約者であるわたしの「お姉さま」が入りびたっていても、「ご主人さま」の居住実態がなくても、滅多なことではバレない。一名入居として借りて二名住んだら訴訟もありうるので、リスクが段違いである。

 わたしの収入はわたしの借りようとする物件が求める相場の二倍である。そこまで収入をつり上げても自分が選んだ相手と住む部屋を借りることができない。「ご主人さま」の芝居をして相応のリスクを取ってくれるやさしい友人の助けがなければ、借りることができない。

 わたしは良い子の顔をする。わたしは不動産仲介業者に勤務先の書類を出す。収入証明を出す。彼らはにっこりと笑う。わたしは知っている。わたしが馬鹿正直に女と一緒に住みたいと言えば、どういったご関係でしょうか、という慇懃な発言にはじまる長い長い尋問に耐えなければならないことを。「お姉さま」と「ご主人さま」を連れず単独で物件を探し、緊急連絡先に男の名を書けば、その男の愛人として扱われることを。

 この社会において「血縁者なし」「女」「未婚」で生きるための陰に籠もった労力は莫大であり、女が女と住むためにはさらに多くのフェイクを要する。

 わたしはこのような世界に生きていたくない。しかし自分から死ぬことは今のところしないでいようと思っている。だからわたしは嘘をつく。「お姉さま」と「ご主人さま」がいらっしゃって「ご両親さま」がお亡くなりになった、善良で正しい国民の芝居を打つ。

 去年、わたしの知人が引っ越しをした。知人はずっと自由業で、年収はわたしの三分の一ほどである。でも知人は猫を二匹つれてひとりで簡単に引っ越した。ペット可の物件は賃貸物件全体の十分の一しかないから、わたしなどには夢のまた夢である。知人にはまったく夢ではない。緊急連絡先として機能する血縁者を持っているからである。さらに知人は男であり、独身であり、これから結婚して子をなす可能性を思わせる属性にあるからである。そういう「信用のある」人間は簡単に賃貸物件を契約することができる。

 わたしは、親族からそれはそれは陰惨な虐待を受けて十代で家出をし、ひとりで働いて図書館で勉強して大学に行って職について熱心に働いた。そうして法律婚をして子を産むのに向く思想および性的志向を持っていない。だから「社会的信用がない」。嘘をつかなければ賃貸物件のひとつも借りることができない。

 わたしは善良な顔をする。高給取りのエリートの顔をする。名刺を差し出す。いわゆるところの清楚な格好で、女性らしいとされる控えめなそぶりで、言う。お恥ずかしいことですが、事情がありまして、主人ではなくわたしの名義での契約を希望しているんですけれど。

 不動産仲介業者は「配慮しますよ」という顔をする。わたしはあらかじめクチコミで「柔軟」な不動産仲介業者を選んで来ている。わたしは浅く椅子に腰掛け、「ご主人さま」の横でよぶんな口をはさまずにいる。

 わたしはほほえむ。わたしはとても感じよくほほえむ。不動産屋を出て、芝居につきあってくれた友人に頭を下げる。彼はわたしをかわいそうだと思っている。

 わたしは契約書にサインする。わたしは数十万円を支払う。そうしてわたしは、疫病の空気を吸って、そのままいなくなりたいようにも思う。

ステイ、ホーム、ステイ

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。そのためにわたしは血眼で自宅にいながらしてできる賭けを探している。

 公営ギャンブルや商業的なギャンブルはやらない。わたしにはそれほどおもしろく感じられないからだ。小銭を賭けて胴元に一定額を巻き上げられながら勝つの負けるのと言ったってしょうがないと思う。娯楽としてやる人はそれでいいのだろうが、わたしの賭けは娯楽ではない。人生の必須栄養素である。

 わたしは人様に金融商品をすすめる仕事をしている。すすめた銘柄が上がればわたしの勝ちである。確実に上がることなどない。本質的には根拠がない。ないからいいのだ。わたしは会社のカネで賭けごとをやれるから仕事をしているのである。一部の顧客や上司からは「果敢なリスクテイカー」として過分な評価を得ているが、正常なリスクテイカーは「やむをえないと考えてリスクを取る判断力と度胸がある」というような人種だろう。わたしはそうではない。「リスクを取りたくてしょうがない」のである。人知を尽くした、その膨大な労力の上でころがすサイコロ。舌の裏から甘いような苦いような味がして視界がいつもより広く、白くなり、頭が最大限に稼働したあとにこころよく停止する、あの感じ。

 わたしは勝つことが好きなのではない。勝つかどうかわからない状態でベットするのが好きなのである。それがなくては生きていかれないのだ。どうしてか知らない。たぶん生まれつきである。

 友人のなかには疫病以来の生活の静けさと変化のすくなさを愛し、「病気はなくなってほしいけど、個人的にはずっとステイホームしていたい」と言う者がある。信じられない。わたしはホームにステイできない。ていうかホームにいたくない。あんなの棺桶じゃん。わたしはシングルマザーで(子どもとかぜったい意味わからなくて思い通りにならなくて賭けの連続にちがいないと思ってそこらへんでこしらえてきた。実際のところ育児は超スリリングでわたしを思い切りふりまわしてくれたので、産んでよかった)、娘が持ち込む変化があるからまだましだが、そうでなければ家なんぞ棺桶である。せめてベッドと言いなよ、と娘は言う。そして得意のせりふをはく。ママ、ハウス。

 娘は十六である。そうしてその年齢にして自分の母親をしつけのなっていない犬みたいなものだと思っているのである。落ち着きがなく、刺激を欲し、河原に放すとどこまでも走って行く犬。首輪をつけた者がしつけた決まりごと(「待て」「ハウス」くらいのやつ。職業人としてのふるまいとか)はどうにか守る。そうでなかったらとうに死んでいる。というか、中年になるまで死ななかっただけで「賭けに勝ってきた」といってもいい。わたしはその程度の生き物だというのが娘の理解で、わたしはそれをわりと正しいと思っている。

 娘はこの世でわたしに首輪をつけることができる数名のうちのひとりだが、いくら娘に言われても「ハウス」には限度がある。永遠にハウスだかホームだかにステイしている犬はいない。今のところ仕事でのギャンブル(社会的にはまったくギャンブルではないのだが、わたしにとってはそれ以外のなにものでもない)の刺激でどうにか健康を保っているが、私生活での刺激がない状態がこれ以上続いたら早晩「わああああ」と叫びながら往来を走るのではないか。往来を走った結果は目に見えており賭けとしておもしろくないからやらないが。

 不確定要素。わたしは不確定要素がほしい。確定しているなんて、おそろしいことだと思う。いろんな人がだいじにする「安定」というものの価値を、わたしはほとんど感じることができない。たぶん「安定すると死ににくいから良い」という価値観なんだと思うけど、ぜんぜん動かなかったらそれはそれで死んでいるのと変わらないのではないか。生とは動であり、変化であり、未知ではないのか。

 きれいに言うとそういうことである。そういう人間にとって、「他人に疫病をうつさないようじっとしていろ」という通達が長いこと有効である今の社会は、完全なる逆境である。

 わたしは娘に言う。ねえ、あんたの進学費用ね、もう自分で管理できるよね。あげるわ。大学出るまでの生活費もあげる。このマンションもあげましょう。あげたあとも住まわせてくれるならだけど。

 娘は言う。なるほど、親としてのつとめは果たしたから、全財産を投じて賭けをやりたいと、こういうわけか。会社でも作りたい?

 わたしは架空のしっぽを振る。わたしは貯蓄が増えてもぜんぜんうれしくない。消費もそんなに好きではない。そんなものより「明日をも知れない」状態がほしい。

僕の運命の男

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。だから僕は僕の運命の男に会うことはもうないのだろうと思う。

 色恋沙汰の話ではない。彼は僕の高校の同級生で、特段に親しいというのでもない。差し向かいで話したのは数えて十回ばかりである。でもその機会の多くが偶然を内包していて、やたらとドラマティックだった。具体的に言うと、話をしたのがぜんぶ旅先だった。僕の当時の彼女がそれをおもしろがり、「きみの運命の男」と名づけて、僕もそれを気に入ったのである。運命ということばだけが大仰な、実のところ些末な、どうということもない話。

 高校が同じでもクラスがちがうと話をすることもない。僕と彼もそうで、最初に話したのはシドニーでのことである。高校に選抜枠があった夏休みの語学プログラムでのことだった。僕は彼に好感を持ったけれど、語学研修中に日本人同士でつるんでもろくなことはないので、意識して二度しか話さなかった。

 若者の旅行離れと言われているらしいけれど、僕は自分が住んでいないところに行くのがものすごく好きなので、隙あらば行っていた。とはいえカネはあんまりなかった。二度目の海外は大学に入った年、マレーシアの首都の大学の寮に寄宿しながら田園地帯のホームステイなどに出かけて、ちょっとしたレポートを書くというものだった。当地の政府の観光庁的な機関のプログラムで、滞在費は先方持ちだ。僕はそういうのを見つけてうまいこと潜り込むのが得手なのである。

 そのようにしてクアラルンプールの大学の食堂でよくわからないものを食べていると(決してまずくはないのだが、何が入っているのかどうにも見当のつかないものが日替わりで出てくる)、はす向かいに誰かが座った。彼だった。僕らは爆笑し、今度はいくらか親しくなって、連絡先を交換した。

 三度目は京都だった。彼が京都の大学に進学したことは知っていたけれど、僕が京都に行ったのは同じ高校だった別の友人に呼ばれたからだ。年末年始にシェアハウスが空になるから好きなだけいろという話だった。そんなわけだから、僕を呼んだ友人とはひとばん飲んだだけである。あとは孤独に、生まれた土地を離れて進学した自分を想像したりしながら、薄ぼんやりして過ごすつもりだった。そういうアンニュイなやつがやりたかったのである。そうしたところが、もはやお約束のように、彼があらわれた。

 なんということはない、僕を呼んだ友人が「いまあいつが京都の家にいる」とSNSに書いたのだ。そういうのリアルタイムで書くのってセキュリティ意識が甘いと思うんだけど、もしかしたら泥棒よけのつもりだったのかもしれない。とにかく僕は雑巾を手にしたまま(無料滞在のお礼にと思って毎日せっせと掃除していた。というか、あの家は汚すぎた)玄関で転げ回って笑った。

 地理的にはどんどん近づいている。次は東京に彼が帰省したときにでも会うのかなと思っていた。でもそうじゃなかった。格安航空券を使う者の宿命である長い長いトランジットをやっているときだった。この休みはどこかへ行っているのかと彼から連絡が入り、僕はいまシャルルドゴールに着いたところだとこたえた。彼はすぐに通話に切り替えた。そう、僕らは同じようにハブ空港で時間を持てあましていたのだ。彼の飛行機はもうすぐ出るところだった。僕は彼の乗る飛行機の搭乗口に行き、やっぱりばかみたいに笑いながら小一時間話をした。学生が休む期間は似たりよったりで、その中で航空券がいちばん安いところを見計らって出れば似た日程になる。そこに小さな偶然が重なったという、それだけのことだ。彼に会ったのはそれが最後だった。僕の運命の男。

 最後に連絡をとったのは卒業旅行のつもりで別の友人と北欧を回っていたときだった。今度こそ偶然はあるまいと思って連絡して、どこにいるかと尋ねた。彼は南米にいた。僕は彼の南米をうらやみ、彼は僕の北欧をうらやんだ。

 就職したら長い旅行に出る機会は少ないだろうとは思っていた。思っていたけれど、出ること自体ができなくなるとは思っていなかった。こんなことなら僕は彼ともっと親しくなっておくべきだったのだろうか? 些末な偶然の蓄積を運命と名づけて楽しむような、今となっては雲の向こうみたいな遠い贅沢をせずに?

 僕はそうは思わない。彼を運命の男と名づけた元カノを、僕はかなり好きだったんだけれど、彼女と会うことはもうない。ぜんぜんロマンティックじゃない理由で、僕らは別れた。ここはどうせそんな世界だ。ひとつくらい運命を残しておいたっていいじゃないか。

そして、どこへも行かない

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。わたしは病人である。けれども流行している疫病ではない。もっとよくある病気だ。国民の死因の三割を占めているほどである。罹ればすぐに死ぬのではない。わたしの場合もすぐに死ぬのではない。一度長期の治療を受けており、次にこういう症状が出たらぜったいにもう一度入院してもらいます、と医者から言われて、自宅での生活に戻った。

 おそらく遠からず死ぬような状態ではあって、そのわりに年齢は若いといえる範囲だけれど、わたしはそれほど強く嘆き悲しみはしなかった。驚いたが、どちらかといえば死ぬことより治療の苦しいことのほうが怖かった。

 長期の治療から戻って半年ばかり、家族の協力のもと、自宅で生活している。仕事は完全には辞めていない。遠からず死ぬのに辞めたくないほど仕事好きだったのではない。することがなくなるのもどうかと思って事情を説明して正社員を辞した上でアルバイトをしたいと上司に相談したら、たいへん親切に業務調整をした上で雇用形態を変えてくれたのである。いつでも戻れるように、とも言ってくれた。

 家族や友人たちや職場に惜しんでもらえたら自分も死にたくなくなるのではないかと思っていた。でもあまりそういう気分にはならなかった。もしかするとわたしはいじけていたのかもしれなかった。どうして自分だけが平均寿命よりずっと前に死ななくてはいけないのかと。そして当分死ななくていいように見える彼らを少し嫌いになり、彼らのことばを心に入れないようにしていたのかもしれなかった。

 わたしの死はどうにもぼんやりして切迫していないのだった。治療が苦しいほうがよほど生々しく、いやなのはただそのことで、死というものはいっこうにわたしの前に姿を見せないのだった。なぜだろう。遠からず死ぬのに。

 そう思っていたら疫病が流行した。世界は感染に怯え、人がたくさん死んだ。都市が封鎖され、人々は出歩くこともできず、テレビをつければいつも、大きな地震の直後に見たような、画面の外側をふちどる枠線があって、そこに常時疫病の情報が示されていた。地震のときにはじきに消えたものがずっと出ていることが否応なしに災害の大きさを感じさせた。

 そのくせ外はただの美しい春、美しい初夏なのだった。川沿いの道には菜の花が咲き、ガクアジサイが咲いて、そこをのんびりと歩く人々さえいるのだった。わたしもよく歩いた。奇妙な災害だ、とわたしは思った。凄惨な部分が目に入らない、透明な災禍。

 わたしの生活は変わらなかった。ろくに出歩けず、病に怯え、死に直面する、そういう状態を、ひとあし先に済ませていたからである。予行演習、とわたしは言った。予行演習しておいたんだよ。家の中だってそういう生活のために整えてある。リモート見舞いまで受けているし、最先端だよ。家族や友人はそれを聞いてマスクやモニタの向こうで笑った。何にもさえぎられない笑顔をわたしはこの先見ることがないのだろうと思った。

 三日前から疫病のようにも持病のようにもとれる症状が出ている。どうやら小康状態に戻ることはなさそうだ。そしてわたしは病院に行くつもりはない。

 わたしの居住する自治体では疫病で死んだ人間の属性と場所を公表する。わたしが疫病で死んだら確実にわたしだと特定される。そういう土地柄なのだ。そして疫病の感染者を出した家の者を苛み、排斥する。「感染源」が悪であるかのように。そうすれば自分たちが疫病から守られるのだとでもいうように。

 だからといってわたしは家族のために疫病でないふりをしているのでもなかった。そもそも家で死んだら死因の特定をされること必須である。疫病で死んだらどうしたってばれるのだ。ーー「ばれる」。罹患は罪ではないのに後ろめたく思わせることもまた、この災禍の奇怪なところである。

 わたしは誰かのために死因を隠したくて病院に行かないのではない。わたしは死にたいのでもない。もちろん生きていたいと思う。けれどもわたしは遠からず死ぬ。わたしは長い「予行演習」でそのことをきっと理解してしまったのだ。そうしてわたしは自分の死因を決めたくないのだ。自分が疫病であったら死ぬ間際まであれこれ言われて残された者の迫害を心配しなければならない。そんなのは面倒でかなわない。わたしはそんなのはなしにして、なんだかよくわからないうちにぽろりといなくなりたい。わたしはとても、疲れてしまった。

わたしの必要としていた家族

  疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。高校生の娘の通う高校も自宅学習になり、受験はどうするのかと心配していた。すると娘はけろりとして、わたしもともと自習タイプだから、と言う。なんでも校外学習でどんな学習のしかたが自分に合っているかを考えるワークショップだかなんだかに出たことがあるのだそうである。

 暗示のききやすい年頃だということを差し引いてもたしかに娘はひとりで本を読んだり教育アプリで勉強したりしている。経費のかからぬ子である。小さいころは何を習わせてもどんなタイプの塾に入れても続かなかった。何もしたいことがなく勉強も嫌いなのかと妻は言い、ずいぶんと案じていた。しかしそういうわけではなく、要するに大勢の仲間と一緒に何かを習うのがあまり好きではないようなのだった。

 そのような娘は学校が長期間なくなってもけろりとしている。平気かと訊くとまあ平気だと言う。それから少し考え深げにして、でもちょっと飽きた、と言う。ねえわたし多摩の家に行きたいな。わたしひとりでだめなら、お母さんと二人でさ。この家に四人でいても煮詰まるだけでしょ。寝に帰る生活ならともかく、四六時中一緒にいるとさ、わたしの受験勉強に差し障ると思うんだよね。

 娘の言う多摩の家というのは妻の両親が住んでいた郊外の家で、現在は空き家である。新興住宅地からも遠い山がちの場所にあり、自然が豊かだ。徒歩圏内にかろうじてスーパーマーケットがあるが、あとはなにもない。

 しかし今は都心にいようが子どもの学校の近くにいようが「なにもない」のと同じことである。不要不急の外出ができないのだから。わたしは隔日出社だが、妻はフルリモートである。フルリモートならなおさら場所に意味はないのかもしれなかった。

 不要不急の外出をしてはいけないが、都内の持ち家に移動することは不可能ではない。娘は「だってあの家はお母さんのものなんだから『自宅』じゃん」と強弁してほんとうに行ってしまった。ひとりで置いておくわけにはもちろんいかないので妻も行った。

 中学生の息子とわたしが残された。わたしは四十代の男としてはまずまず家のことができる人間である。息子も自分の身のまわりのことくらいはする。食事は簡単なものなら自分たちでまかなえるし、近隣に持ち帰りもデリバリーもある。妻がときどき戻ってきて作り置きもしてくれる。

 わたしは毎朝七時に起床する。日課のジョギングをする。息子に声をかける。自宅で仕事をする日はかつて寝室だった部屋を使う。昼休みにリビングに出て行く。息子のぶんと二人前少々(中学生の男の子というのは実によく食べる)を簡単に作るなりデリバリーを頼むなりする。食べる。息子と一緒のときもあればそうでないときもある。仕事に戻る。晩も同じように食事をする。眠る。酒はもともとつきあいでしか飲まない。

 わたしは娘をかわいいと思っていた。今でも思っている。けれども娘ははじめからどこか遠かった。口をききはじめて数年もすると、早くもわたしとはずいぶんとタイプの違う人間であるように思われた。

 わたしは妻とはまだ若いころからある程度ドライな関係で、それを良しとしていた。ふたりとも情熱的なタイプではない。結婚する前からそうだった。そういうところが気が合うと思っていた。

 息子はまだ子どもだから面倒を見てやらなければならないし、勉強をしているかちゃんと監視しなければならない。それは親の義務である。妻も帰るたびにそうしていて、今のところ問題はないようだと言っていた。

 わたしは家庭を持つことを当たり前だと思っていた。家庭を持ってよかったと思っていたし、その維持のために労力を払い、自分自身を変えてもきたつもりだった。しかしこのように家庭が物理的にふたつに分割されてみると、さほどの痛痒もないのだった。そしてわたしはどうやら息子に対しても強い情緒的な結びつきのようなものを感じていないようだった。

 正直なところわたしはほっとしていないのではなかった。わたしは自分が家庭を持っていることを自明としていた。「そういうもの」として会社員をやり、夫をやり、父をやっていた。とくに不満はなかった。しかし満足でもなかった。

 いま、出社は半ば免除され、妻と娘は別の家に住んでいる。つまりわたしは今までのまともな男としての体裁は維持したまま、半分はその外側にいる。わたしはほんとうは、死ぬまでこんなふうならいいと、どこかで思っている。わたしは大人になってはじめて、生活に満足しているのかもしれない。

やわらかな指を待つ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。化粧品を買う行為はどうやらよぶんとよぶんでないものの中間と見なされているらしく、百貨店では買えないがドラッグストアでは買える。誰がその要不要の境界線を決めているのかは知らない。

 わたしは化粧について特段の意見を持たない。というより、持ちたくないのだと思う。わたしは少女のころから女性たちの手で化粧品を選んでもらうのが好きだった。色つきリップとつや消しのおしろいにはじまり、そのときどきの財布の中身にふさわしい商品を女たちに選んでもらって生きてきた。

 わたしは基本的に能動を好む。人生のごく最初のころからさまざまなことを自分で決めたいと思ったし、実際にそうしてきた。進路、職業、住居、友人、伴侶や家族、趣味ーー思いつくかぎりほとんどすべての人生の要素を、自分で選んだ。そういうのが好きなのである。

 選択肢がたまたま与えられることはあっても、それを選ぶか選ばないかは自分で決めた。どうしてかは知らない。生まれつきの性格なのだと思う。選ばれるとか愛されるとか、そういうのを重要視する人が多いことは知っていたけれど、個人的にあんまり興味を持てなかった。わたしが選びわたしが愛することがまずあって、その対象から選択や愛を返してもらえたら、よりよい。能動、選択、攻守交代、提案、開拓、廃棄、決断。そんな人生。

 だから日々の装いも自分で決めてきた。少女のころは制服が嫌いで、早く自分の着る服を毎朝選んで着たいものだと思っていた。自分に似合う服装を考えるのが好きだったし、買ったものを組み合わせるのも好きだった。今はちょっと面倒になって、制服に相当する仕事着を季節ごとに決め、休日に遊びの服を着る。鞄と靴にはそのときどきの収入に応じて予算を多めにかけ、じっくり選ぶ。

 しかし化粧品においてはそうではない。わたしは友人たちとファッションビルに行く。友人たちはくちびるの色を染めるティントだの、わたしの肌の色に合った化粧下地だの、眉用のマスカラだのを薦めてくれる。彼女たちは「今はこういうのを使うの」「塗り方はこうするの」「これが流行のニュアンスなの」と言う。わたしは感心して言われたとおりにする。

 わたしは毎年美容部員さんのいる百貨店のカウンターに行く。そうしてまぶたの色を変えてもらって、そのままセットで買う。なじみの美容師さんのすすめるヘアオイルを髪に揉み込んでもらって、それを買う。旅行先で知り合った女性と一緒に現地のドラッグストアに行ってスキンケアのトラベルセットを選んでもらったこともあった。わたしに化粧品の話をする女たちはみんな物知りで親切なのだった。

 わたしは女たちの指先に向かって無防備に顔を差し出す。わたしは主体性を放棄する。どうしてか、そのときだけは、受動的であることがこころよく感じられる。わたしは安心しきっている。女たちはわたしの顔を決して悪いようにしない。というかわたしは自分の顔の詳細があんまり気にならない。おおむね良いと思う。それだから何を塗られても「いいねえ」と言う。変化があると楽しいと思う。

 今はそういうのはない。あるのは彼女たちのやわらかな指の記憶だけである。わたしが自分で自分に化粧をほどこすのはその甘やかな指の動きの擬似的な再現でしかない。わたしはだから、疫病が流行してから、化粧品を買っていない。これからも買う気はない。幾人ものやさしい女たちにかまってもらいながら買うのではない化粧品に、いったいなんの意味があるのか。

 疫病の流行で人間と人間の接触が強く制限されている。だから誰もわたしの顔にきれいな色を塗ってくれない。今やわたしたちの世界における皮膚接触の機会はきわめて貴重であり、そのような目的でおこなうものではないからだ。女たちは定められた距離を置いて、多くの場合はモニタの向こうから、わたしに接する。その指がわたしに届くことはない。

 化粧品はたいてい量が多すぎるものである。ことに色をつけるものはとても多い。わたしはそれを使い切ったためしがなかった。その前に女たちがわたしの顔を更新してくれたからだ。でもそれはなくなった。

 わたしはきらきらした粉を薬指で掬う。その指でまぶたに触れる。わたしはいつか誰かがつくってくれた顔になる。残像の顔。いつかこの粉が尽きたら、わたしのメイクアップは終わる。