傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

家を作れなかった男

 わたしの両親はわたしが十一歳のときに離婚した。そのことはとくにうらみに思っていない。わたしが小学校に上がるころまで、父はよくわたしや妹の面倒を見てくれた。父は乳幼児の相手が上手い人であったように思う。一方でわたしが少し大きくなるとなんだかよそよそしくなったし、わたしもそれほど父を慕わなくなったように思う。

 わたしは長いことそれを、父が家庭に寄りつかなくなったからだと思っていた。よその女性と恋をして家に帰ってこなくなった父をよく思えないのは当たり前だ、と解釈していた。母は父と離婚し、父はわたしと妹が二十歳になるまで相応の養育費を母の口座にふりこんだ。

 母は公平な人で、母子三人の生活のためのお金は自分が稼いでいること、わたしと妹の教育やささやかな娯楽にかかる費用は父の養育費で充当していることを、きちんとわたしたちに説明した。母も内心で思うところはあったはずだが、母の口から父の悪口を聞いたことはない。おかげでわたしも妹も、無理のない範囲で奨学金など借りながら大学を出て安定した職に就くことができた。父と面会したいと思ったことはないが、年に一度は母がもうけた席であいさつをしたし、入学や就職などの節目には感謝の手紙を書いたりもした。家庭を去った父とその娘としては、良好な関係だったと思う。

 そのような父がにわかにわたしの頭痛の種になったのはこの二、三年のことである。四年前に母が亡くなってしばらくしてからだ。

 母は定年後の悠々自適を数年楽しみ、孫の顔も見て、それから病気になった。余命のわかる病気で、母はたくさんの人たちと別れを惜しんだ。最後は自分の意思で入った緩和ケア病棟で息を引き取った。わたしはもちろんとても悲しかったけれど、親を送るのは子のつとめだとも思った。母は長女であるわたしにはときどき八つ当たりすることがあったけれど、それはわたしを深く傷つけるようなものではなかった。母は陽気でおおらかでかわいらしい人だった。母とわたしと妹と三人の家庭は、幸福なものだったと思う。わたしは母の子に生まれてよかったと思う。

 わたしは父が葬式にやってきて母の死を嘆くことに問題を感じたりはしなかった。別れたって情はあるだろう。それはいい。問題はそのあとである。今まで母を経由して来ていた連絡をわたしが直接受けるようになった。もっと事務的な連絡だろうと思っていたのに、ずいぶんウェットなのである。

 どうやら父は再婚先でも「家に帰らない人」をやったようだ。その原因が何だったかは知らない(聞きたいとも思わない)。そうして今度は家庭に戻ろうとした。しかしものごとはそう都合良くはいかないもので、二階建ての家で家庭内別居をしているというのである。玄関先などで(現在の)妻子とすれ違うと、妻子は完全に父を無視するのだという。

 そのような近況を聞かされて、わたしは十一歳のわたしの心境を理解した。この人は人間に対してきちんと向かい合うことができないのだ。ことばの通じない乳幼児の相手をするスキルはあるし、男と女という役割を演じるような恋愛も好んでやる。しかし、人間と向き合って日常を築きあげるということが、この人にはできない。きっとそうなのだ。だから十歳を超えたわたしはこの人を慕うことができなかったのだ。だから両親の離婚がそんなに悲しくなかったのだ。

 父がわたしにもたれかかろうとしているのはあきらかなことだった。わたしはどうにかして父と距離を取ろうと努力した。入院したというメールが入ったときには「ご家族によろしくお伝えください」と送信した。しかし、入院先の病院からなぜかわたしに連絡が入るのである。しかたがないから行った。入院の保証人や何かは再婚相手にしてもらってくださいと言うと、あの女は追い返した、と言う。あの女はおれのカネ目当てで別れる気はないからこういうときだけしゃしゃり出てくるんだ。老いた男はそのように言った。十一歳まで一緒に暮らしていたその人を、たとえ心の中だけでも「父」と呼ぶ気にはもはやなれなかった。

 人と向き合うことをしなかった男が年をとって誰かを頼りたくなり、しかし家族は冷たい。男は思う。最初の妻は亡くなったが、今にして思えばあのころが一番幸せだった。妻は自分を愛していたし、娘たちは自分によくなついていた。自分さえ一時の恋を選ばなければ、あの家庭は今でもあったのだ。

 キモい。圧倒的にキモい。わたしは鳥肌を立てながら最低限必要な書類だけを書いて病院を出た。父ではない、と繰り返し思った。あの老人はわたしの父ではない。わたしの父はわたしが十一歳のときにいなくなった。