傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

教養がないとはどのようなことか

 私の勤務先では人事部だけが採用活動をするのではなくて、現場の人間が面接を担当する。面接官は通常二人組で、このたび私を指名したのが篠塚さんである。篠塚さんは言う。僕、教養がないんで、面接でその手の話になったときにはよろしくです。

 篠塚さんは私よりいくらか年長の男性で、職務上の能力がとても高い。専門知識を常時アップデートしている。ものの言い方が率直すぎて誤解を招くことがあるが、内容はおおむね正論である。基本的に誰にでも親切で骨惜しみをしない。イギリスで修士号を取ってから就職したと聞いている。

 教養とはこの場合、何のことでしょうか。私が訊くと、篠塚さんは明快に(だいたい明快な人物である)答えた。文学とか芸術とかです。マキノさんそういうの好きでしょ。

 私はたしかに小説を読み美術館に行くが、それを教養と呼ぶのか。好きなものを好きなように摂取しているだけではないのか。篠塚さんは言う。僕、仕事関係以外の本、ぜんぜん読まないし、映画館なんて子どものため以外に行かないし、音楽も聴かないし、仕事と家庭があればいい人間で、文化的なことはからきしなんだよねえ。

 つまり、この場合の教養というのは、リベラルアーツということですか。私が問うと、おおむね、と彼は言う。おおむねの残りはなんでしょうか。私がさらに問いをかさねると、彼は一秒だけ考えて、洗練とかそういうやつ、と言った。

 私の応答には五秒を要した。私は言った。篠塚さん、イギリスでいじめられたんじゃないですか。篠塚さんはあははと笑った。別にいじめられたんじゃないけど、未開の地から来た野蛮人くらいの扱いは受けました。まあ学部は日本なんで、向こうにいたのはたったの二年間のことだから。勉強しに行って、勉強することはできて、だからそんなのは、たいしたことじゃない。

 たいしたことである。イギリス人め。篠塚さんはいい人だ。文学や芸術に疎いからなんだというのか。いつも同じ服を着ていて(同じのをたくさん持っているらしい。理由は選ぶのが面倒だから)、何を食べてもうまいと言う、だからなんだというのか。篠塚さんはうちの会社の男性育休取得者第一号で、人権意識が高くて、仕事ができるのだ。そのうえ学生時代はスポーツ選手だったという。たとえばアメリカに行けば完全に賞賛される側である。どうしてイギリスに進学したのか。私がそのように話すと、篠塚さんは「そのへんはあんま考えてなかった」とこたえた。

 採用面接でときどき「最近読んだ本」などという話題が出てくるのはどうしてか。おそらく幻想があるからだ。ある種の本を読んだり芸術を鑑賞したりする人間には幅広い教養があり、「上等な」趣味を持っていると、そういう幻想がこの世に残っているからだ。人間に階級があった社会では、趣味は階級を固定する機能を担っていたけれど、そんな機能はもう無効にすりゃあいいじゃないか。私はそう思う。

 いわゆる定職を持つのが当然、結婚はするのが当然、子どもを持つのが当然、そうでないものは「下等」。そういう横暴な考え方はもう認められていない。少なくとも表面上は認められていない。自分以外の人間に強要することはできない。この社会はそういうコンセンサスをようやく手に入れた。実に結構なことだ。人間に上下なんぞはないのである。

 だから何を趣味にしようとかまいやしないのだ。たとえば畳の目を数えるのが趣味だって人にとやかく言われる筋合いはない。やりたいからやる、それをすると幸福になれるからやる。それが最高の動機だと私は信じている。趣味は自由だ。休日にやることも、お金を費やす対象も、恋愛や結婚をするか、どんなふうにするかも、趣味で決めたらよろしい(だって義務じゃないでしょう。結婚はしたら扶養義務が生じるが、それは別の話である)。その人が幸福になれる趣味がよい趣味である。上等も下等もない。だから教養というのは、私にとって、「自分が楽しいと感じる行為を理解していて、それができる」ということでしかない。だから、私にとっての教養がない人間は、自分の幸福の詳細がわかっていない人間である。

 私は業務上のつながりがなければ篠塚さんと話をすることはないと思う。話すべき内容がないから。 でも誰かが教養とやらを振りかざして篠塚さんを悪く言うならその場で反論する。それは私がやさしいからではない。私が自分の趣味で選択した人生の諸々を人にとやかく言われたくないからである。人間に序列をつけてあれこれ言い立てるやつは私の永遠の敵だからである。私がそのように話すと、篠塚さんは笑って、言った。結構なご趣味で。