くそばばあ、かあ。彼女は言う。うん、くそばばあ。私はこたえる。ことのほか気合の入った長文の罵倒メールを受け取ったので、法律家の友人と遊ぶついでにプリントアウトを持ってきたのだ。友人はげらげら笑い、よう、くそばばあ、この差出人によるとくそばばあ臭がするらしいじゃん、かがせろ、と言って、テーブルに身を乗りだした。それからラインマーカーで「くそばばあ」どころではない、書くにはばかられる語彙を塗りはじめた。
インターネットなんかやってるから悪いんだよ。彼女はむちゃくちゃなことを言う。自分だってSNSを使っているくせに。SNSだってインターネットじゃないか。私がそのように抗議すると、彼女はひらりと手をかざし、ちがう、と首を振る。わたしのSNSは相互、マキノのブログは一方的。一方的に読まれていれば文句を言いたい人が沸いて出るのがこの世の常ですよ。
差出人はリアルな知人かなあ、と私は尋ねる。ちがう、と彼女は断定する。ここには、くそばばあどころじゃないものすごいせりふも書いてあるけど、ベースは「ばばあ」系だよね、つまり、槙野、あんたのこと知らないんだよ。性別と年齢くらいしか推定できてない。だからそれを芯にして汚いせりふをくっつけてる。罵詈雑言は、九割架空でいいけど、芯になるところは何かしら事実めいたものがないといけないの。この場合はそれが「年齢が上であって、女である」ことなの。
たしかに私はインターネット上で個人情報をあきらかにしていない。年齢は示している(事実だという保証はないが)。また、明確に女だと言ってはいないけれども、筆名と同名の語り手は女性として書いている。けれども、インターネットに出しているのは文章だ。文章を書いている人間に文句を言いたいなら、「へたくそ」とかが妥当ではないか。そもそも年をとっていて女であることが罵倒の対象になると考えている段階でだいぶ教育が足らない。言った段階で言った側の卑しさが示されるだけの語じゃないか。そんなのちょっと考えればわかることだろうに。
私がそのような疑問を口にすると、彼女は笑って説明する。へたくそっていうのは存在の否定じゃないからね。技能の否定だから、罵倒としてはたいしたことないんだよ。そして「ばばあ」が「へたくそ」より強い罵倒になると思っている人は、あんたが言う「ちょっと考える」ができない人なんだよ。そういう人は、わりといるんだよ。
あのさ、マキノ、ある種の罵倒はどんなに洗ったって批判にはならないんだよ。批判の語彙を幼稚に、薄汚くすれば、罵倒として成立する。けれども、罵倒のための罵倒は、どこを切ったって批判は出てこない。悪意しか出てこない。
人が知らない人を罵倒するのはどうしてかわかる?罵倒する相手が先にあるのではないの。だめな人間がいるから罵倒するのではないの。この場合、槙野がろくでもない文章を書いたから罵倒したいのではない。こういう人たちには、よくも悪くも相手がいない。まず自分の苛立ちがあるの。怒りたいという欲求はしかるべき対象に対して怒れば解消するけど、それができないと、欲求不満がずーっとくすぶっている人間になる。そうして、発酵した悪感情がガスみたいに口や手から出てくるようになる。
教育を受けた大人であれば、たとえ欲求の発散のしどころが見つからなかったとしても、立ち止まって自分の内心を把握して対処することができる。でもそのやりかたを知らない人もいる。感情の取り扱いのための教育を受けることができず、自分で自分を教育することもできず、外見だけ大人になってしまった人。けっこういるよ。あちこちにいる。そういう人たちはことのほか不全感を抱えているものだから、驚くほど簡単に怒りや憎しみを発酵させてしまう。ほんとうは相手のない、世界に対する怒りを。
彼らはどこへ行くのかなあ。私は尋ねる。インターネットでちょっとものを書いている人間に長文で汚いことばをたくさん送ってきたって、せいぜいこうやって笑いものにされて、エスカレートしたときのために相談実績を作られるだけだよ。彼らの居場所はないよ。
そうだね、どこへ行くのかね、と彼女はこたえ、プリントアウトを折りたたんでフォルダに仕舞う。インターネット上のメールアドレス、フリーダイヤルの顧客相談窓口、電車で乗り合わせた知らない人の耳、そんな場所に言語的なげろを吐いて、吐いて、吐きつづけて、エネルギーが尽きてやめるか、見かねた人間に口を塞がれるか。もっと運が悪ければ、捕まるね。つまり、どこへも行けない。