彼は友人夫妻を招く。彼は学生時代の仲間を招く。彼は親族を招く。彼は料理が得意だ。買って二年も経っていない、高性能のオーブンレンジを使う。なんか焼いて。彼女はよくそう言った。なんか焼いて、おいしいやつ。だから彼はそうした。彼女はかんたんな料理をさっとこしらえるほうが好きで、凝ったものはほとんど作らなかった。一方、掃除は徹底していた。毎月のようにベッドの下の収納まで引っぱり出して埃という埃をぬぐい去るのだ。大掃除じゃなくても。
彼はそれをしない。でもまだそんなに溜まっていないはずだ、と彼は思う。引っ越して半年にもならないのだから。一人前にはゆったりした間取りの、でもあきらかに二人前ではない、以前より新しくてぺらぺらした感じのその住処を彼は、記憶喪失の部屋、と心のなかで呼んでいた。彼女はなにかにつけて真新しいものより古いもののほうが好きだった。だから彼と彼女は水回りをリノベーションした古い建物に住んでいた。彼は住居に対して積極的な意見を持っていなかったけれど、入ってみたら気に入った。板の間、と彼女は言った。フローリングなんかだめよ、板の間で、傷がついたあとを何度も研いたような床でなくっちゃ。
彼はしばらくひとりでその家に住んだあと、いくらかのものを処分し、それから、ようやく引っ越す気になった。誰かの傷、誰かの跡、誰かの手間、誰かの影のないところを、彼は必要とした。いわゆる築浅の、剥がせる紙みたいな、まったく同じ空間が東京中にいくつあってもおかしくないような、そういう場所がよかった。そうして彼は新しい住まいを見つけた。新築ではないのに前の住民の記憶はきれいに剥がされていて、また剥がすための膜をはってから彼を受け入れたような、彼がいなくなればそれが剥がされるような、記憶喪失の部屋。
ソファは小さめだったからそのまま使った。台所はもちろん以前より狭くて、けれども冷蔵庫もオーブンレンジもはかったようにすっぽり入った。シンクはばかみたいに小さかった。でもスポンジを置く小物だとか、そういうものは、だいたい使うことができた。
彼は人を招く。彼らはソファにかけ、洗面台を使い、タオルで手を拭き、グラスにくちびるをつける。彼は笑う。彼は話す。彼らは大勢でにぎやかに、あるいはひとりふたりでにこやかに彼と話す。タオルはもういいかなと彼は思う。彼女は一年ごとに取り替えるのがいいと言っていた。そうやって更新していこうと彼は思う。
彼は人とともにあって楽しむ。彼女ではない誰かを前に、うしなわれた日々と一見おなじように過ごす。料理を並べ、大きめのテレビで映画を流す。映画はたいてい彼女が選んだ。それも必ず一度みたものを選んでくるのだ。あなたといるときに映画に集中したってしょうがないでしょうと彼女は言った。はじめて観るものだったらひとりがいい、ひとりでうんと集中して観る。
そんなわけで彼は彼女の好きな映画をいくつもいくつも観て、その大部分を気に入っていた。そもそも最初に会話したとき、この世でいちばん好きな映画はなにか、という質問への回答が一致して、大笑いして連絡先を交換したのだった。その場にいた誰かが言っていた。それ、女の選ぶベスト映画じゃないだろ。私は女だけどあれがベスト、と彼女は断定した。死んでるようだった人間が生きてるようになるなんて最高じゃない。殴ったり殴られたりして生きていればいいじゃない。
私いつかあれやりたいな、と彼女は言った。ほら、あの映画の、人を脅すところ。「おまえは何になりたかったんだ。言ってみろ。おまえは何になりたかった?」獣医、と彼はこたえた。彼女はにんまりと笑い、彼をじっと見つめてそのせりふを再生した。「動物か。いいねえ。おまえがどこの誰かはわかった。これからずっと見張ってやる。いいか。六週間以内に獣医になる勉強を再開しろ。もし再開していなかったら」
そのときはおまえを殺す。彼はつぶやく。彼にはもうなりたいものなんかなかった。ずっと見張ってくれる人もいなかった。六週間はただの六週間だった。彼は六週間分の時間をせっせと動かし、それを繰り返し、タオルを捨て、いずれはオーブンレンジを捨て、いずれはソファを捨てる。それまでは彼女でない人々に、それらを使ってもらいたかった。もう「おまえがどこの誰かはわかった。これからずっと見張ってやる」と言ってくれる人はいなくって、そうなったら、あとは摩耗させるしかない。そう思って彼は、今日も彼女でない人を呼ぶ。記憶喪失の家に呼ぶ。彼らの手足で彼女の使ったものを摩耗させるために。