傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

感情を外注する

 うれしかったのねと彼女は言う。そうだねと彼はこたえる。それからほほえむ。彼女もほほえむ。いやだったのねと彼女は言う。そうだねと彼はこたえる。それから彼らは眉間に皺を立てる。まったく同じ深さで。それが同じ深さになるまで三年と八ヶ月を彼らは要した。彼女がまずやってみせて、彼がそれにしたがう。それを繰りかえしたから、彼は今ではとても上手にそれができる。彼女さえいれば。
 彼らはなるべく一緒にいる。できるだけ長いあいだ手をつないでいる。彼らはすでに睡眠をともにする権利を相互に付与しているので、一日に平均六時間はそれだけで確保される。そのほかに彼らは週末の平均一日半を確保している。残りの半日を彼らはどうしても調整できない。彼らには社会生活というものがあるからだ。出張、休日出勤、結婚式に葬式、病人の見舞い、避けられない親戚の集まり。
 そんなものがあると彼らはひどく苛立つ。彼女が苛立ち、それから、彼が苛立つ。仕事については諦めたと彼女は言う。彼も私も週末の二日を確実に確保できるほどの能力がない。それを補うだけの資産もない。だからしかたない。でもあとはなんなの。一緒になったらどうして私たちを呼ぶの。義理なんか私たち、絶対に理解できない。そんなわけのわからないもので人を呼びつけるなんて。それに、もっと避けられないことがある、どうしてみんな死ぬの。病気になんかならないで、いつも元気でいてくれないの。どうしてみんな必ず死んでしまうんだろう。私の感情は彼が必要なだけ彼のために使われなければならないのに。
 そんな感覚は間違っていると私は一応言う。わかってると彼女は醒めた顔でこたえる。彼の祖母の大往生で私たちは久しぶりに私たちだけで食事をともにしていた。彼が冠婚葬祭で遠くに行くのでもないかぎり、彼女が彼のいないところで私と顔をあわせることはない。
 彼は感情に関する語彙を持っていないと彼女は言う。まるで一度豊かに手に入れてそれから意図的に排除したかのように持っていない。そんなことってあるのかなと私は質問する。私の知っている男の人も感情にまつわることばがとても貧しかったけれども、とってもかしこいのにそれだけがひどく貧弱だったけれども、でも慣れたらうれしいとかかなしいとか言うようになったよ。小さい子みたいでとっても可愛かった。
 その人はたぶん手遅れじゃなかったのよと彼女は言う。でも彼は手遅れなの。だから私は彼の感情を定義する。私はそのような人格について想像しようと試み、それからそれを放棄して、ありえない、と投げだす。そんな人間が平気で生きているなんて考えられない。サヤカに考えられなくても、いるのよ、と彼女はほほえむ。私に生活の細部を語り私がそれを別の語彙で語りなおすことではじめて感情を手のうちに収める人がいるのよ。意外と少なくないんじゃないかな、とくに男の人にはね。ある種の男性はそれが最適であるかのような環境で育ってしまっている。
 そういう人の感情を再生してみせるのはとってもいい気分だろうねと私はぼんやりと言う。だってそれはほとんど創作だからね。感情は、あらわさなければ、存在しない。そんなことないでしょうと彼女は抗議する。彼に感情がなければどうして私にそれを引っ張り出せたと思う、私は彼の胸に手を入れてそれを出してあげた、ただそれだけ。
 ちがうよと私は言い聞かせる。その認識はまちがっている。感情は、あらわされなければ、存在しない。ためしに食べたり飲んだり論理と観察の語彙を発するするほかに顔の筋肉の一切を使わず生活してごらんよ。感覚の語彙もほとんど使っちゃだめ、許されるのはあきらかな身体の変調のときくらい。泣くのはいちばんだめ。そうしたらあなたはきっと感情をすっかり手放してしまう。薄ぼんやりと安定してほとんど幸福であるかのような状態に、きっと成り下がってしまう。
 彼女はしばらく黙り、だめ、と言う。だって彼は感情豊かな私を好きなのよ。どうでもいいことで笑ってすぐ泣いて地団駄踏んで怒ってる私を好きなのよ。そういうの外注って言うんだよと私は言う。お金でまかなう外注はたいしたものじゃない、でもそのほかはできるだけ避けて生きなきゃいけないって私は思ってる。うまく言えないけど、それは人を深くそこなう、あるところまでいったら、もう取り返しがつかない。
 彼女はひどく怒る。彼女の怒りはわかりやすい。彼女は感情豊かだ。自分の内面をキャッチして名前をつける能力に長けている。だから私は小さい声で言う。私にいくら腹を立ててもいいんだよ、私はひどいことを言ったよ、でもそれはほんとうのことだよ。