傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ストレスなんかありません

 マキノさんはのんきでいいねえ。ストレスなんか、ないんでしょ。
 ありませんねえ、と私はこたえる。表情のバリエーションというのはこまやかな感情や感覚のやりとりに用いるためにあるので、この手の相手には三種類しか要らない。笑顔のようななにか、無表情に近いなにか、あからさまな不愉快面。最初のひとつで九割を済ませ、警告として稀に二番目を用い、それでも理解しない場合はからだごと引きながら三番目を用いる。
 ストレスという語はよくも悪しくも心的な刺激を指すのであって、はたから見ても喜ばしいこと、本人も喜んでいることだって、ストレスにはなる。「ストレスがない」人間なんか、いない。いたら死んでいる。好ましくない負荷という意味にとったとしても、ない者はいない。生きているだけでけっこうたいへんなのだし、そのうえ職場で「ストレスないでしょ」などと訊く愚か者もいるのだ。それだけで反証は終了する。
 ナイデスネーとこたえて表情はそのままに、すーっと移動する。一緒にいた同期には悪いけれども、人柱になってもらった。「ストレスないでしょ」などと言ってくる者は、要するに自分より若い者、それもできれば自分の性的対象の側の性(この場合は女)に、自分がいかに苦労をしていて「偉い」かを示し、同意させ、話を聞かせ、相手をさせたい、それだけなのであって、あとはもう、なにもない。過去に一度ためしに聞いてみて、びっくりした。話の内容がゼロなのに言葉だけが延々と続くのだ。
 この職場では過去に、そのような愚痴とも説教とも自慢ともつかない話の相手をさせられた側が去ろうとしたら、話していた男が腕をつかんで絡んだ、というケースがあって、これには明示的な処罰が降りた。そういう履歴があって、その手の奴らは捨て置いていいですよ、ということが示されているのだから、さっさと置いてくればいい。
 同期は男だからそこまで粘着はされないだろうと思う。今からんできた男は、とにかく女がいいのだと、これまでの経験で知っている。女で年下ならもうなんでもいいように見える。だいぶ下がって年下の部下の男、次にただの年下の男。ソウデスネと言い続ける機械でも飼えばいいと思う。
 しばらくすると同期が逃げてきて文句を言う。マキノさん、ずるいよ、マキノさんは露骨に逃げちゃえるけど、俺はセクハラの線が成立しにくいんだから、そのへん配慮してほしい。不愉快なのは一緒なのに。指摘されてはじめてそうかと私は思う。そうして少し反省し、ごめんと言う。直接の上司ではなく、特段の権力もない男が、たいして年が離れていない同性に絡んで「俺たいへん」トークを聞かせるのは何ハラスメントなのか。なにか名前をつけてやらないといけないなと思う。表向き権力関係はないのだからさっさと逃げればいいとは思うけれども、世の中には私ほどずうずうしい「ストレスのない」人間ばかりでもないのだろうから。
 でも私、あながち嘘ばかり言って逃げてきたんじゃなくって、自分にはストレスがないって、本気で思ってたこと、あるよ。そう言うと同期は驚いて片眉を上げる。マキノさんはけっこう苦労人じゃないの。そうですよと私はこたえる。だからこそ、何もかも当たり前だと思ってた。デフォルトで苦痛が設置されている状況だとほかの苦痛はたいした打撃に感じないんだよ、麻痺してるから。麻痺はよくないと同期は言う。怪我しててもわからないから、下手すると出血多量で死ぬ。苦しくないのがいいことだとは僕は思わない。苦しいのがえらいと思ってるさっきのみたいなのは論外としても。
 まあねと私はこたえる。だから私、今はちゃんと、ストレス、あるよ。ストレス解消とかしちゃう。アロマオイルのセットとかそろえてお風呂に入れちゃうし、美味しいもの食べに行っちゃう。自己憐憫もしまくる。そうしろそうしとろ同期はこたえる。自己憐憫でも愚痴でも自慢でも聞いてくれる相手がいるんだから、そうしろ。そういう関係性を持ってなくって、自分より「下」に見えるやつは誰彼かまわず絡みまくるようなやつは、がまんするしかないけどな。私はげらげら笑って、そうだねえとこたえる。私たち、ちゃんと話せる相手があちこちにいて、そういう意味ではとってもリッチなんだものね。関係性と性根が貧弱な、ああいうやつが物欲しそうにうろついてても、同情してエサも投げてやらない。私たちって、いやなやつだねえ。いいんだよと同期はこたえる。エサやると癖になるからさ、ああいうのは。