冷蔵庫を空にするのは楽しい。ふたり暮らしで、それなりにまめに料理をしていて、それでも忘れていたようなものが出てくる。冷凍庫の中身をかたっぱしから出していた彼が尋ねる。きみ、いつのまにかこんなの買ってたの。こんなのって?フライパンから目を離さないまま彼女が尋ねる。ヴィロンのパン。通勤経路が変わって唯一の不自由がこれを買えないことだったのに、僕の好物を冷凍庫に突っ込んで忘れるなんて罰当たりだよ。あはは、ごめんごめん。
彼はそれをオーブンの上に置く。彼女に尋ねる。オーブンってこのままでいいの、今夜、パンの焼き直しとかに使っちゃっても。平気平気と彼女は応える。明日のお昼には冷めるでしょ、大丈夫。いいかげんだなあと彼は笑い、オーブンの点火を有効活用すべく、温野菜の残りを適当に洗って切る。彼らはそれぞれの調理過程をこなしながら言い交わす。チーズない、チーズ。焼き野菜ってチーズがあればだいたいどうにかなるから。さっき死にかけたカマンベール発見した。おお、えらいえらい、お手柄だ。完全に死んでないか囓って確認しておいて。マジか、カビ系でそれをやれときみは言うのか。
このところ落ち着いてなかったからねと彼は言う。そうだねと彼女はこたえる。彼らが食材を「死にかけ」にしてしまうことはめったにない。このところの彼らの非常事態を示す証左のようなものだった。
食べ物をないがしろにしない、掃除は適当でもOK、そういう共通点が日々の暮らしにとってどんなにありがたいものだったか、今はわかる。彼女はそう思う。それから声を大きくする。はい、料理はおしまい。席につきましょう、あとはどうにでもなるよ。
つくった料理がテーブルに載りきらないので彼らは声を出して笑う。私たち、豊かだったんだねえ、と彼女は言う。そうだねと彼はこたえる。戸棚の奥の蟹缶の存在を忘れるくらいには。ね、シャンパンあけて。そうだ、今日のために買ってきたんだからね。でもさあ実は発見しちゃったの。なにを。ヒューガルデンのパイント缶。ほら、あなたがどっかからもらってきたやつ。冷やしてあるけど、とりえずシャンパンでいいかな。いいとも、順番なんかもうどうだっていい。いつのだかわからないボルドーもあったじゃないか。あれは料理に使った。でも味見したらけっこう飲めたよ。よし飲もう、ぜんぶ飲もう。
彼らは高らかにグラスを掲げる。一秒間のためらいが落ちる。ありがとう、と彼女が言う。彼はぱっと顔を輝かせ、ありがとう、と唱和する。彼らはこの数ヶ月間の不調を取り戻すかのように旺盛な食欲を発揮する。食べ終わると食器を洗いながら最後の確認をおこなう。多くの食器はすでに捨てられている。のみの市のカップと南部鉄瓶とセラドンは私でいいんだよね。うん、織部の皿とリーデルは僕、それで、このクチポールのセットはお願いできないかな。私はかまわないよ、本来の所有権はあなただけど。
彼らはそれから、最後まで残されていたひとつの箱に向かう。捨てるか否か決めかねたままでいたものだ。こういうのは景気よく捨てちまえばいい、と彼は言う。どうしても捨てきれないものは写真に撮っておいて、その写真も消したいときに消せばいい。
彼らは各自のスマートフォンを手に取り、さかんに写真を撮った。そのデータがうとましくなって消すときのことを想像した。同じものに同時にカメラを近づけて苦笑を交わした。それから大半の品物を勢いよくゴミ袋に突っこみ、なんだかハイになって、やたらと笑った。量としてはまったくたいしたものではないので、ふたりで手をつないでマンションの二十四時間出すことのできるゴミ捨て場にぽんと置いた。ゴミ捨て場の扉を閉じて、またげらげら笑い、それから、どちらからともなく一瞬、くちびるをあわせた。
ふたりきりの祭りのような夜が更けて、彼らはこの家での最後の眠りに就く。明日になれば引っ越し業者がやってきて、彼らの荷物をばらばらに持っていく。
たがいの境界のあいまいさを示すかのような、どちらのものともつかないものたちは、きっちりと線を引かれてどちらかのトラックに載る。その前に捨てられたものもたくさんある。彼女に贈られて彼女に返したものも、捨てられてしまうかもしれない、と彼は思う。けれども自分で捨てる気にはなれなかった。彼女はそれを理解している、と思う。憎らしい、と思う。うっかり彼の好物を買って帰ってしまって、渡せなくって冷凍庫に押しこんだ、そのことを彼はたぶん理解している、と彼女は思う。憎らしい、と思う。それらは少し前まで愛と呼ばれていた。明日になれば彼らは赤の他人に戻る。