里佳子さんが会社に戻ってくるのはもちろんうれしい。うれしいけれども、復帰の打ち合わせと称して女の社員ばかり三人でようすを見にいった私たちの前で里佳子さんはなんだか、思っていたのと違うのだった。私たちは里佳子さんを案じていた。里佳子さんの夫はえらくいばっていて、それもなんというか、自分がえらいものであるために他人を、つまりこの場合は妻である里佳子さんを劣ったものとしてあつかう人で、だから、子どもができて休暇に入った里佳子さんをいじめているのじゃないかって、みんな心配していたのだ。里佳子さんは傷ついているのではないか、疲れているのではないか、自己評価が下がって不安定になっているのではないか。
里佳子さんはそういうのとは少しちがっていた。だからといって楽しそうな、幸福そうなようすでもなかった。もしそうだったら子どもができて里佳子さんの夫は変わったのだと、私たちはそう推測してうれしい気持ちになって、安心したと思う。でもそうではなかった。乳児のいる家にふさわしく少しだけ乱雑なリビングダイニングに通されて三十分も経ってから、あ、と私は声を出す。この顔、つまんない、の顔だ。がっかりして、つまんないなって、そんなふうに思ってる人の顔。なあにと里佳子さんが尋ねる。なんでもないと私はこたえる。私はそれを、もちろん口に出すことができない。
里佳子さんの直属の上司にあたる先輩がごくりと喉を鳴らし、ばさばさと資料をしまって、このタイミングで戻ってきてくれるなら部署の異動もなくてすむわあと、やけにうれしそうに言ってから、目をぱちぱちさせた。夫のことでしょうかと里佳子さんはたずねた。先輩は狼狽した。この先輩はお芝居というものがひとつもできないのだ。
夫はですねと里佳子さんは静かに説明した。彼の会社でなにかあったらしくて、それから、私に手をあげたのが自分でショックだったみたいで、この子が生まれたころから、DV加害者のための教室というのに行っています。モラルハラスメントということばを覚えてきました。最近になって物言いがだいぶ変わりました。
手をあげた、というところで私たちはいっせいに非難の声を発した。里佳子さんはまったく動じず、私たちの反応も織りこみ済みだったとでもいうみたいに、適度な隙間をあけて話を続けた。私たちはまごついて、それから、なんか、よかったね、そうですよ、よかったです、などと言った。ご心配をおかけしましてと里佳子さんはこたえた。それから目を細くして私を見た。私は再度うろたえて一度うつむき、里佳子さんがそれでも私から視線をはずしてくれないので、小さい声で言った。でも、里佳子さん、つまんなそう。
やっぱりよくわかるのねえと、道ばたの犬を褒めるように里佳子さんは私を褒める。ええそうなの、私つまんない。彼がまともになろうと努力していて、私を対等なひとりの人間としてあつかおうとがんばっていて、私とっても、つまんないな。
里佳子さんはにっこりと笑う。そうして言う。ねえ槙野さん。まともで対等な人間同士はたがいがいなくても生きていかれるものでしょう。大人ですもの。でもね、大人の顔をしている人がみんな大人なのではないの。自分を特別だと思うことをやめることのできない、傅く家来がいなくては一秒だって息ができない、彼は、そういう人だった。いくつになっても王子さま。槙野さんが鼻の頭に皺を寄せて嫌うはた迷惑な未成熟、男性の罹りやすい病気の一種よ。この人は知っていたのだと私は思ってぞっとする。この人は自分の夫の精神が好ましからざる状態にあったことを、ずっと、知っていた。恋の盲目なんかそこにはなかったのだ。里佳子さんはちょっとうつむいて、それから、上目遣いをつくる。
でもね、彼を愛する者にとって、その未成熟は好都合ではないかしら?傅く家来なしに王子は王子でいられないのよ。王子でいることにしがみつくことがそのまま、私にしがみつくことになる。
死ぬ人もいるのにと私は小さい声でいう。そういう種類の人間に毎日毎日気持ちを踏みにじられて死に至る人もいるのに、そんなの、だめだよ。もちろんだめよと里佳子さんはこたえる。だから彼は反省しているのだし、私は彼が王子さまをやめる手助けをしているつもりよ。けれども彼を私に依存させる甘ったるい夢そのものを、なかったことにするつもりはない。私はそれを夢見るような、そのためならどんな方法でも許容するような、それがなくなってがっかりするような、邪悪な人間であることを。