傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

正解を引きあてる

 髪、切ったんだね、と彼は言った。その声だけを彼女は聞いた。手元の配線と目の端のガラスの反射とその外の景色と靴の中の自分の足の汗を噴きだすようすと指に触れているものの感触が、すべて同時に、くっきりと知覚された。正解を引き当てなければならない、と彼女は思った。そうしなければ私の人生はここで終わる。たぶん。
 彼らはある種の人々だけを受け入れる住宅地に設置された瀟洒な幼稚園にいて、彼女は彼女の仕事である撮影のために、カメラとその周辺機器を設置しているところで、彼はその手伝いをしていた。彼は彼女の背後の十センチと離れていないところにおそらくはいて、振りかえることは不正解であると、彼女は知っていたから、だから首を動かさなかった。彼女に撮影される予定の品のいい園児たちが笑いあう愛らしい声が、ガラス越しの庭からうっすらと聞こえた。それはうつくしい春の午後で、空はきれいに晴れわたり、「子どもたちをその目できちんと見てほしいから」という理由でカメラを禁止された親たちのために呼ばれたプロの撮影者である彼らは、さんざめく子どもたちのためにだけ、そこにいるはずだった。
 彼の人格は不安定だった。彼女はそのことを知らずに彼の求愛を軽い気持ちで一時的に受け入れ、そうして、その「一時」をすぎると、私たち合わないと思うの、と彼に告げた。彼女は彼女を求める誰かと一緒にいるあいだは、その訓練されたまなざしでもって彼らの知らない彼らまでを理解し、その求めるところを先回りして提供するところがあった。そんなに甘やかすことないのに、と私は言った。その要求は不当だよ、愛ってそういうものだと私は思わないよ。でも彼女はただ困ったように笑うだけだった。だって私、それしかわからないんだもの。そうして自分の興味がなくなったら、彼らに選択肢はないの、だから、平等でしょう?
 その「平等」のために、彼はひどく混乱した。彼は彼女を完全に自分のものだと思っていた。自分のためにつくりだされたうつくしいクリーチャだと思っていた。そのような語彙は彼にはなかったけれども、私が彼らの語ったことを、やくたいもないフィクションとして書く以上、私は彼のまぼろしの代弁者のようにふるまってかまわない。もちろんそれは私の妄想にすぎない。もちろん。
 彼女が彼に完璧な別れを告げたとき、彼はあらゆることをした。彼女にとどまってもらうためなら彼はなんでもしただろう。でも彼女にその気はなかった。終わりは終わりだ。自然現象のように。それが彼女の方法で、彼はそれを知らなかった。良い餌を落とせば食いつくようなものとして、彼は彼女を認識していた。それが間違いだと、彼はいつまでも理解しなかった。彼女は辛抱強く彼に話をし、とうとう彼は、それを理解しなかった。
 理解しなかったので、彼は彼を振りきって歩きだした彼女に包丁をつきつけた。文字どおりの路上で。彼女はそれを醒めた目で見た。安全なところを、彼女はもちろん選んでいた。そこには人々がいて、珍しいものを見る目で彼らを見た。だから彼女は安全で、彼はただそこにくずおれた。さようならと彼女は言った。彼女は一度も振りかえることがなかった。振りかえる必要がなかった。彼女は彼にもう、少しも興味がなかったのだ。
 彼はほどなく退職し、彼らの仕事、撮影の仕事から、いなくなった。だから彼女は彼を忘れた。ほとんど完璧に。だから彼が何年かあと、幼稚園の撮影の現場にあらわれたとき、はじめましてと彼女は言った。彼はうっそりと笑った。間違った、と彼女は思った。私は今、誤りの選択肢を引いた。その直感から一秒の何分の一かあとに、彼女は彼を思い出した。
 それで知らない人でないように振る舞ったの。行き違いが重なって連絡を取らずにいた古い友だちみたいに。夜のコーヒーをひとくち飲んで私はたずねる。それはもう温度をうしなっている。そう、と彼女はこたえる。半年前に切ったのと私はこたえた。それが正解だと思ったから。なんのことですかと尋ねたら彼は私を刺したでしょう。たぶん。
 たぶんじゃない、たぶん。私はそのように思う。それが正解だった。でもどうして彼女はそれを引き当てることができたのか。どうしてその前の振る舞いが不正解で、だから追いつめられていることを、彼女は知っていたんだろうか。さあ、と彼女はほほえむ。ギャンブルを私はしないけど、それはたぶん、そういうときに勝つためのなにかを、とってあるんじゃないかしら。