傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ジェシカおばあさんの話

 彼にはすぐに彼女がわかった。彼女はひらひらしたスカートを揺らし、髪を高々と結い上げて、唇は真っ赤だった。彼の周囲にそんな色の口紅を使う女の子はいなかった。みんなもっと自然な色のを塗っている。けれども自然であることなんか、彼女にとっては少しも魅力的じゃないみたいで、ハイヒールシューズのつくる人工的に女性的な仕草で彼女は駆け寄り、それだけが完全に自然な表情と口調で彼の名を叫んで、有無を言わせず抱きしめた。おしろいと髪染めと古い虫除けのにおいがした。彼はよろめいて彼女を支え、おばあちゃん、と言った。彼女は大量の皺を派手に動かしてにっこりと笑い、しゃなりしゃなりと歩きだした。すごい踵だねと彼は言った。そんなので転ばないの。エスコートをね、こういう靴のために確保しているのよ、とジェシカはこたえた。七十二歳だから確保しているんじゃないのかと彼は思った。
 よしこという本名の漢字さえ彼は覚えていなかった。親戚はジェシカおばあさんと呼んでいた。アメリカにきみのおばあさんがいるんだよと親戚は言って、子どものころはそんなに疑問に思わなかったけれども、係累はみんな日本にいて、彼女だけが渡米してうんと長いので、要するに出奔したというようなことで、そんなに牧歌的な物言いで説明していいんだろうかと、少し大きくなってから思った。それからさらにもう少し大きくなって、なんとなくつまらなくなった大学生活の真ん中の長い休暇、アメリカ大陸を安い長距離バスでふらふらしている途中に、彼はジェシカを訪ねたのだった。
 そんなに深い意味はなかった。物心ついて会ったことなんか一度しかなかった。彼女が一度飛行機で日本にやってきて、彼と親戚がそれを出迎えたのだ。はっきりと年寄りなのに見るからに女であるような生き物を、中学生の彼ははじめて見たから、それはそれはびっくりして、ヒロシと彼女がうれしそうに呼ぶのを、お化けを見るような目で見た。あとで彼女はそう言っていた。小さいときに会っているのよ、覚えていないかしら?女の妖怪みたいなばばあ、と彼は思った。パンクだ。なにがパンクだと、ひとりだけその話をした友だちは笑っていた。知らない世界、と彼はパラフレーズした。そんなわけで彼は彼の大叔父が引き受けていたジェシカ向けの窓口みたいな役割を引き継ぎ、ときどき手紙を受け取って、誰かが生まれたり死んだりしたら連絡するようにしていた。
 彼はジェシカの、十八歳年下のボーイフレンドの運転する車で彼女の家に行き、彼らと食事をともにした。私、意外と料理とか、するのよ、とジェシカは言っていたけれど、ミートパイはボーイフレンドが焼いたのだし、あとは切ったまま袋に入っているみたいなサラダやなにかだった。ジェシカはワインをすいすい飲んだ。ヒロシあなたいつまでいられるの。あさって。あさってですって!あなた休暇中じゃないの。休暇中だけど、アメリカじゅう歩いてるからさ。まあまあ、なんてこと、じゃあ今日のうちに夜遊びにつきあいなさい。いいわね。ジェシカのボーイフレンドの車が着いたのはカジノで、彼はちょっとびっくりした。ダンスのほうがよかったかしらとジェシカがいうので、いやもちろんカジノのほうがいいよと彼はこたえた。もちろん。彼は周囲を見渡して、上品な人ばかりがいるところではないなと思った。ラスベガスなんかとはちがうんだろう。でもジェシカにはこっちのほうが似合う。
 ジェシカは二十三で息子を産み、その子を「本家に取られた」。それで激怒して夫と離縁したのだという。この人の激怒は見たくないなと彼は思った。そうして彼女はアメリカに渡った。どうしてと彼が尋ねると船でとしか、彼女は言わないのだった。どうやって移住したのか、どうやって仕事を見つけたのか(コンピュータが普及する直前までタイピストをしていた)、どうやってことばを覚えたのか。それに、なぜ。「取られた」子は養子になった家にあきらめていた男の子が生まれたので用なしになり、ふわふわと生きて五十にもならずに死んで、つまりそれが、彼の父なのだった。別れ際、また来なさいねとジェシカがいうので彼はうなずいた。
 それでこのあいだ、行ったんだよ。彼はそのように話を結ぶ。お葬式と訊くとちょっとほほえんでうなずく。ジェシカは彼に日本語のメッセージを残していた。字はもうふらふらになっていた。あとはよろしくね。それから、あんたの賭けかたは思い切りが足りないわ、ヒロシ。彼女はいい賭けっぷりだったのと私は尋ねる。もちろんと彼はこたえて、笑う。負けてたけどね。