快適であることを、彼はひどく重視する。それだから一緒にいる人間にも快適を与えるべく努力する。職場の仲間たち、ときどき会う親族、一時期会う女たち。彼らにはそれぞれ固有の需要があり、彼はそれを推定する。そのうち可能ないくつかを満たす。満たせないものは触らずにおく。それについて非難されたらそっと去っていく。今までどうもありがとうと彼は言う。彼はそのことばの似つかわしいようすをしている。子どもの時分からわずかに白い、若白髪ということばが少し前からそぐわなくなった頭を、彼は軽く下げる。
彼はひとりきりで静かに、そうして快適に暮らしていた。彼の住まいは簡素で清潔で彼に最適化されている。中部地方の実直な家具屋の、一センチ刻みで高さを合わせたカフェテーブル。フランスからアメリカに渡ったデザイナの手になる少し背の低い三本足の椅子。女たちがそうしたいのでなければ誰も使わない、乾いた台所。彼は毎日二十分を掃除に費し、同じかわずかに短い時間を入念なストレッチと簡単な筋力トレーニングに充てる。率直で熱しやすく冷めやすい筋繊維を彼は有し、持病の腰痛を小康状態に保つために昔いくらか一緒にいた誰かの教えてくれたジャズダンスの基本姿勢を一日三度は意識する。
彼のスマートフォンがメッセージを受信する。そのときどきの親しい相手に合わせるから彼の利用可能なアプリケーションはいくぶん種類が多い。彼はそうした瑣末な学習を苦にしなかった。光る小さい機械を何秒か見て、ため息をひとつついて、それからほほえむ。あいまいに消えていくのが楽に決まっているからそうしてくれてかまわないのにわざわざ知らせるのが律儀で可愛いと思った。だめになった。彼女にはきっと僕には知れない需要があったのだろう。
そう思って、でも供給が上手にできなくなってきたなら、これから死ぬまでひとりでいるのかもしれないと思う。彼はそのことについて少し想像し、すぐに飽きる。今となにがちがうのかよくわからなかった。そもそも独身で恋人のいない状態をひとりと呼ぶ理由がわからない。会社に行けば毎日誰かにかまわれて、ときどきお金をもらって、そうして暮らしている。友だちというようなものもいくらかいる。それでどうしてひとりなのかと思う。
彼女は彼の好みの外見をしていたし、彼よりは若いけれども若すぎないし、同居や結婚を要求しないし(それは彼が定期的に会う異性を得る際に超えるべきいくつかのハードルのうち、もっとも大きなものだった)、忙しいから都合が良かった。ケアの手間が少ない。幼い子のようにケアを要求する女はことのほか多い。
女、ではなく、人間、と彼はモノローグをパラフレーズする。彼女はおおむね寛容で、正確を期すならいろいろのことに無関心で、けれども主語の不適切には眉をひそめる。彼は彼女たちの固有の不快の感覚をこと細かに覚えている。それでしか覚えていないといっていい。多くの人は親密な関係において好きなものよりも嫌いなものを共有できる相手を好む。
寛容は結構な徳だけれど、でもきみは少し冷たすぎたんじゃないかな、と彼は思う。形式だけ呼びかけて届けないからモノローグにすぎない。きみはたいていの場合、ことばや動作によって儀式的な親密さを演出してくれた。でもそれはあきらかにどこからか持ってきた使い回しの儀式で、それをいつまでも僕のために調整しないのはいくらなんでも手抜きがすぎるというものじゃないか。更新はおそらくゼロに近かった。僕に不満があったのかもしれないけれども、でも僕としてはかなり高度なサービスを展開しているつもりだったんだ。
そう思うからといって彼女と別れたくないのではなかった。そもそもつきあっているとかいないとか、そういう話をしたこともなかった。彼も彼女もそんなに生真面目な人種ではなかった。あいまいで便利で取り消し可能で、てのひらからはみ出さないものが好きだった。彼はそのように意図的に隔離された領域のなかにいた。彼女のある種の粗雑さを彼は厭っていたけれども、次はないという意味のメールが来るまでそれを自覚しなくてもすむくらい、そこは安全な場所なのだった。
今までどうもありがとうと彼は書いて送信のアイコンに指を置き、その直後、続きを足す。って言って。スマートフォンが数秒の沈黙ののちに二文字をはき出す。やだ。なんで。なんとなく。彼はひっそりと笑い、それから、彼女を忘れる。自分のささやかな要望のかたちに空いた小さな欠落だけが彼のなかにいつまでも残る。