傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

切り離された跡

 勤務先は単科病院としては小さくない規模で、それでも医師はわたしを入れて十人。非常勤を入れてローテーションを組む。コメディカルの人数も知れたもので、全員で助け合わなければやっていられない。専門性と年齢とキャリアは考慮するけれど、負担は比較的平等に、事情があれば交代して、できるだけ風通しよくしたいと、おそらく八割がたの人間がそう思っている。やさしいからじゃなくて、そのほうが合理的だから。

 おはようございます、とわたしは言う。おはようございます、と今日の手術パートナーが言う。現代医療は標準化されていて、しかもチーム仕事で、だから「名医」というものは存在しない。標準を守れば飛び抜けようがないし、飛び抜ける必要がない。だめな人間が消えていくだけだ。それが合理というものである。

 手術の準備をする。この医院の手術はほぼすべてが内視鏡で済むものだ。人死にが出るようなものではない。患者さんが亡くなることはもちろんあるが、原因は手術ではない。だから手術はそれほど激しい疲労をともなう業務では実はない。個人的にはガン告知のほうがよほどしんどい。告知にも二種類あって、ざっくり言えばすぐ死にますという意味の告知としばらくしてから死にますという意味の告知があり、前者のしんどさは独特である。何かがごっそり持って行かれる感じがする。

 人死にには慣れている。人間は何にでも慣れる。あなたは遠からず死にますと宣言することにも、だから慣れる。わたしは「とても心を痛めながら冷静を装っている」かたちの仮面をつけてそれをする。わたしは慣れている。慣れているという事実こそがわたしの何かを切り離して持っていくのかもしれなかった。

 今日はその仕事ではない。患者さんの皮膚をちょっと切らせてもらってすいすいと内視鏡手術をやるだけの仕事である。執刀はベテラン二名、何も問題はない。すぐ終わる。わたしは冷蔵庫の中身を思い浮かべる。帰りに何を買ってどんな料理をしようか考える。娘の受験のことを考える。

 職場での負担は合理的に、とわたしたちは思っている。でも今日のケースはもしかするとそうではない。ローテーションでいればわたしの「当番」ではない。今日の患者さんはHIVキャリアで、その場合は常勤医師のうち年長組四名のうち二名が担当するという決まりごとがあって、そのためにわたしが当番を代わった。

 HIVキャリアの手術だから危険なのではない。感染の可能性はない。ウィルスは適切にコントロールされており、執刀者が自分を傷つけて患者さんの傷につけたってたぶん感染はしない。まともにやっていれば可能性はゼロだ。だから少しも怖くはない。怖いというなら医療訴訟や強烈な難癖のほうがよほど怖い。しんどいというならガン告知のほうが(けっこう多く発生する仕事であるにもかかわらず)よほどしんどい。

 HIVキャリアの患者さんの手術を年長組だけがするというこの職場の決まりごとは、ほんとうは合理的ではない。「すごく危険だから若い人にはやらせない」というのではないのだ。だって、危険ではない。

 合理には限度がある。わたしたちは実はそれを認めてもいる。わたしたちは最終的に合理的でない。わたしたちは理不尽な忌避感情から逃れることができない。そうなのだと思う。だから誰ひとり「HIVキャリアの患者さんの手術はシニア組の医師だけが執刀する」という決まりごとに意義を唱えない。わたしも唱えない。

 手術を終える。こんなにも近いのに、とわたしは思う。わたしは刃物でもって他人(患者さん)に侵襲したというのに、物理的にはこれ以上ないくらい近づいたのに、この人がどう感じているのか、理解していない。そう思う。もちろん、この医院のささやかな決まりごとを知ったところで、この患者さんは気を悪くしたりはしないだろう。でもそれが今までこの患者さんがさらされてきたであろう巨大な偏見の延長線上にあることは、きっと感じるだろう。わたしたちが合理的じゃないことを、この人はきっと、わかるだろう。そう思う。 

 勤務時間が終わる。わたしは職業的な仮面をはずす。人情味のある気さくな医者の顔をはずす。着替えるときに自分のからだをちょっとさわる。いつからか覚えていないが、勤務終わりにそうするくせがついた。たぶん確認しているのだと思う。仕事はわたしに多くのものを与える。でも仕事はわたしから必ず何かを持っていく。ガン告知のようにわかりやすくなくても、ひとつひとつの仕事が、わたしの何かを持っていく。今日持って行かれたもののかたちを、わたしは思い浮かべる。