傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

メイクと実存

 年に一度、友人にメイクを習いに行く。友人は何段にも分かれたメイクボックスを持っていて、いくつかの色をわたしの顔にあてる。彼女は眉の描き方を修正し、アイカラーとアイライナーを変えて塗り方を教示し、新しいアイテムとしてハイライトをわずかに使うことを提案して、実際に塗ってくれた。

 わたしは彼女の指示をメモする。彼女がつくってくれた「今年のわたしの顔」を撮影する。彼女はアイカラーをふたつくれる。いくらでも買っちゃうから、もらって、と言う。メイクボックスの薄べったい抽斗に目をやると、ずらりとアイカラーが並んでいる。必要があってこんなに買うのではないの、と彼女は言う。だからあげても問題はないの。コスメを買いすぎるのはね、実存の問題ですよ。

 実存の問題、とわたしは言う。実存の問題、と彼女も言う。そうしてぱたりとメイクボックスを閉じる。

 わたしは母の鏡台を思い出す。父方の祖母のお下がりで、ものすごく古かった。そこは家の中で母に与えられたただ二つの場所のうちのひとつだった。台所と物置部屋の鏡台の前。母はそこに正座し、紅筆で中身をこそげながら口紅を使っていた。口紅だけは毎日塗っていたように思う。

 母は美しい人だった。分家のお嫁さん全員と比べてもいちばんきれいだと親戚たちが言っていた。まあ、そういう取り柄でもないと、嫁に取ってもらうはずもないよな、と彼らは言って、笑った。そうそう、あと、あのでけえおっぱいな。

 母はわたしを小型の自分にしたかったのだと思う。そして旧弊な田舎の地主の「嫁」である自分を肯定してほしかったのだと思う。でもわたしはものすごく生意気な子どもで、中学生にもなると図書館で本を読み、人類は平等だ、と思っていた。威張るだけの父とぼんくらな兄が座りっぱなしでテレビを見る食卓、母とわたしが「お世話」して彼らの言うことにへつらわなければ彼らの「ご機嫌」が悪くなる食卓。年に何度もやってきて飲み食いして「お接待」をさせる親戚の男ども。ばかみたいだと思っていた。

 わたしは台所で下仕事をしながら母と言い争うようになった。母はあまり頭の回転の早い人ではなかった。母はまずわたしを無視し、次に「そんなこと言われたらお母さん何にもお話できなくなっちゃう」と泣き声を出した。母はわたしが台所に入ると強い緊張を漂わせるようになった。そして「お母さん具合悪くなっちゃった」と繰りかえすようになった。

 わたしは容赦しなかった。わたしは高校生で、こんな家にずっといるくらいなら野垂れ死にしたほうがマシだと思っていた。母もきっとそうだと、どこかで思っていた。母の具合が悪くなるとしたら、それはわたしのせいではなく、このろくでもない家のせいだ。そう思っていた。だから言いたいことを言った。母はある日、とうとう金切り声を上げた。じゃあ、あんたがわたしを養えるっていうの、ええ?

 わたしは黙った。この人は、と思った。この人は、土地持ちの「本家」を出て行くなら、自分を養えと言っているのだ。高校生の娘に向かって。わたしはそのことを、三秒かけて理解した。そして気が遠くなるほど母を憎んだ。

 母はシンデレラだった。美しさと「心ばえ」のほかに取り柄のない女だった。美しいシンデレラは王子さまに「見初められて」お城のような大きな家に嫁ぎ、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。そういう人生を送ってきた人だった。

 母はわたしが兄よりはるかにいい成績を取り続けても一度だってほめてくれなかった。母はわたしが十二歳のとき親戚に胸を触られて泣いて台所に逃げ込んで訴えても「冗談でしょ」としか言わなかった。それでも、十七歳のわたしはこう言うつもりだったのだ。わたしが東京の大学に入ったら、お母さんも来ていいよ、ふたりで住んだらどうにかなるよ。

 わたしは鏡を見た。いけない、と思った。この顔はなんだ、まるっきりシンデレラの顔じゃないか。シンデレラになるくらいだったら野垂れ死にしたほうがましだ。わたしはシンデレラじゃない女になって、お城も王子さまも要らない女になって、そしてシンデレラより美しくなるんだ。そうすれば美しさしか取り柄のないあの女を完膚なきまでに叩きのめすことができる。

 わたしは大学を卒業して就職して王子さまじゃない男とお城じゃない家に住んで家賃を折半している。そして年に一回、友人にメイクを習う。友人が言う。新しいメイクを工夫したいっていう相談は、ときどきあるけどさ、それが毎年の帰省の前っていうのは、なんていうか、変わってる。わたしはこたえる。うん、ちょっと、実存の問題でね。