傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

手札を並べよ

 なあ、焼豚。その場に集まっていた友人のひとりが言った。学生が「起業するから大学を辞めます、起業の内容はこれから考えます」って言ったら、どう回答する?つまり、教授として。教授じゃない、と焼豚は応えた。准教授。

 焼豚というのはもちろんあだ名だ。この場にいるのはみな中学校の友人で、全員がそのころから彼を焼豚と呼んでいる。やきぶたともチャーシューとも読む。彼は質問した友人を見て、きみの息子じゃないよな、まだ小学生だもんな、じゃあ親戚かなんかの子か、と確認し、それから、平坦な声で宣言した。

 そういう若者には、外野がとやかく言ったって意味はない。親戚でも親でも教師でもだめ。親はまあ、かじられるスネを提供している場合には経済力でもって若者の行動に影響できるかもしれないけど、内心を変えさせることはできない。十八を過ぎてそんな状態だったら、本人が自分で気づくのを待つしかないんだ。僕はそう思う。

 冷たい、と別の友人がつぶやいた。ちょっとは諭してあげて、焼豚先生。諭さない、と焼豚は繰りかえした。人間関係とかの悩みで大学に来るのが辛くてたまらないとか、自分で始めた商売にのめりこんで学籍を持っていたほうが有利なのに辞めようとしてるとか、そういう学生なら、たくさん話をして一緒にいろいろ考える。でもふわっとしたイメージで辞めるって言ってるなら、大学を出ることのメリットを簡単に告げて、それで終わり。

 逆じゃないの、と私も尋ねてみた。キラキラしたイメージに引っぱられて大学を辞めるなんて、どう考えても理路が通ってないんだから、説得できるでしょうに。そう言うと焼豚は私を見て、長いため息をついて、それから言った。理屈が正しければ相手を説得できるなんて幻想はいいかげんに捨てたほうがいいよ。理屈でも感情でも、相手側の受け入れ体制ができていないと浸透しないんだよ。正しさとかやさしさとかは、そのあとにはじめて意味を持つんだよ。

 僕らにはあらかじめカードが配られている。それでもって人生を戦うしかない、手持ちの札の一揃いが。カードの初期値がひどいと苦労する。ここにもいるだろ、屑みたいなカードを配られたやつ。保護者に経済力がなくて高校に行けない、みたいなカード。でも体力があるとか、情緒が安定してるとか、そういう別のカードを戦略的に使って、報われる方向に努力を重ねて幸福な人生を獲得している。僕の手札は極端に悪くはなかったけど、たとえば大学院に入ったのは二十八のとき、大卒後に働いて貯金ができてから。研究者になりたかったけど、まずは就職した。二十二歳以降にかじれるスネはなかったし、不安定な労働をこなしながら大学院に通うだけの胆力もなかった。

 そういうことが判断できるのは僕らが、それこそ中学生のころから、自分の手持ちの札を並べて、自分で考えて決めて、決めた結果を背負って生きてきたからだ。中には「おまえの手札、いきなりロイヤルストレートフラッシュじゃん」みたいなやつもいるけど、有利なカードもうまく使わないと身を持ち崩す。いずれにしても手札を並べて考えなきゃいけない。自分の持ち札を直視しなくちゃいけない。腹立たしいカードも。認めたくないカードも。めくるだけで手が震えて泣きたくなるようなカードも。

 僕は十五にもなったら、全員がそれをすべきだと思ってる。公立の中学校っておもしろいところで、家庭環境も学力もばらばらな生徒が集まってるんだけど、ちゃんと自分の手札を並べて考えてるやつって、環境やなにかが違っても、わかるんだ。僕はそういう連中と仲良くしたいと思ってた。つまり、ここにいるみんなのことだけど。自分を理解して生きる戦略を練るのが思春期の仕事のひとつで、その仕事をまじめにやってるやつが、僕は好きだった。

 十四や十五で早すぎるというなら、いいだろう、十八までは待とう。でもそれ以上はだめだ。十八を過ぎて自分についての理解を怠っている人間が他人の思惑に流されて不幸になろうが幸福になろうが、僕の知ったことじゃない。僕が人生の話をする対象じゃない。

 思春期のうちに手札を並べろ。少年少女として守られているうちに。ぜんぶ引っ張り出して並べて考えろ。自分に何ができて、何ができなくて、何ができるようになる見込みがあって、何が好きで何が嫌いで何が欲しくて何が要らないか考えろ。何にとらわれて何を愛して何が許せないか考えろ。周囲があれこれ言って効果があるのはそれをやりつづけている人間だけだ。