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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あらかじめこぼれ落ちているものたちのために

 彼はなんということもなく、友だちがシェアした写真を観ていた。それはすでに彼の習慣のなかに組みこまれていた。みんな撮るし、みんなアップする。彼は仕事の合間に、妻と小さい息子との食卓が一段落したあとに、通勤の無聊に、それを閲覧した。それらはすぐれた写真ではなかった。あたりまえの視点をただそのままごろりと投げ出したものが大半だった。友だちはカメラを好きで、でもあるときからほとんど意図的にそういう撮りかたをするようになり、彼はそれを好ましく思っていた。
 そのようなものをこそ彼は好んでいた。すぐれた写真はすでに大量の商品として出回っているのだし、商品なんか金を出せばいくらでも買える。彼はそれに飽いており、けれどもだからカメラには飽きたんだよと言うことはどうしてかいやだった。そうして技巧から離れた無造作な写真を大量に閲覧する習慣を身につけた。それがなにかの惰性もしくは欺瞞であってもかまわないと彼は思っていた。
 スライドショーを指先で止めて、これはなんだろうと彼は思った。それは平凡な群像だった。ぱらぱらと無秩序に配置された人をただ撮ったスナップショットだった。それは彼らが参加した野外イベントの光景だった。彼は肉眼でそれを見ていたからそれが事実そのままの写真だとわかった。でもそこにはその日彼の見たものとはあきらかに違うなにかがあった。
 上手いのではなかった。新しいのではなかった。なんなら端で人の姿が三分の一ばかり切れていた。光っているのかなと思うと光量はそんなでもなかった。焦点が意図的に外されているのでもなかった。それに近い印象を僕は受けていると彼は思った。でもそうではない。
 あのさあ多幸感、と彼は言った。彼のかけた電話の向こうで、はあという語の語尾を友だちは吊りあげた。彼らはたがいに小学生の男の子であるかのようなぞんざいな口を利き、けれどもいずれも生まれて四十年からの年月を過ごしているので、それはただの郷愁のそぶりにすぎないと、ふたりともよく知っていた。たとえばそんなぐあいに、彼らは親しい友だちだった。
 いやだから多幸感、と彼は繰りかえした。先週の写真の。あれなに。彼と同じ機種のスマートフォンの向こうで友だちは端的に困惑していた。意味がわからないと言った。俺もよくわかんないと彼はこたえた。飲んでるから切るようと友だちは言ってそのまま彼の携帯電話は沈黙した。
 そしてその電話のことはぜんぜん覚えていないんですねと私はたずねた。きれいさっぱり覚えてないですねえと彼の友だちはこたえた。覚えてなくても無意識に影響したと強弁できないこともないですが、と彼は注意深く言う。しかし僕としてはそれはあくまでも自覚されていなかったと思いたいんです。ただ写真にだけあらかじめそれが拾われていて、そうしてそのあとのできごとが追いついたと思いたい。そのほうが美しいから。
 その説明不能の多幸感にあふれた、撮った当人にはいつものスナップショットでしかなかった写真の何枚かには、のちに撮影者の恋人になる女性がふくまれていた。彼が多幸感を感じた写真のすべてに彼女がいたのではなかった。彼女はときにフレームの中にいて、ときにその外にいた。
 ふたりはそのときたがいを強く意識していなかった。一目惚れというのではなかった。少なくとも自覚されたそれではなかった。彼らはただそれぞれとても機嫌がよく、その日を楽しみ、彼は写真を撮った。
 私はつくづく感動して大型の動物みたいにうなり、いいですねえと、これ以上ないくらい無粋な返答を口にした。すばらしいですねえ。それから思った。私はこんなことばかり言っていてだいじょうぶだろうか。いい話を聞いていいですねえと言ってなんになる。もっと何かこう、気の利いたことが言えないのか。
 僕はねと彼は言う。人は油断すると自分でも知らない感情や感覚や、そのほかの名づけえないなにかを、撮るものや描くものや書くものにこぼしてしまうんだと、そう考えたい。誰もがきっとそうしてしまうと思いたい。上手くなくても、訓練されていなくても、誰ひとりその価値を認めなくても。それがとても気持ちがいいのは、きっとそれが自分からあらかじめこぼれおちているものを拾ってくれるからです。僕らの大脳新皮質はあまりに肥大して、だからいろんなものがそこからおっこちて、僕らはそれを知らずに歩いて仕事して誰かと話して平気で笑っているんです。でもそれは打ち捨てられるべきものではないし、それを拾う手段は必ずある。そのためだけにでもみんな写真を撮るべきだし、絵を描くべきだし、手近な楽器を弾くべきです。そうじゃありませんか。