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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

恋愛的疑惑と少量の善良

 ミエちゃんが俺とつきあえるとか思ってたらどうしようと彼は言い、本人に訊けばいいじゃんと私はこたる。彼は眉を歪め、野菜を鍋に放りこむ動作と同じ速度で言葉を投げる。マキノってなんでそんなに言語コミュニケーションを信じきってるわけ、この世がそんなに簡単にできてるわけないだろ、あの子たち返事しないでさめざめと泣くからね、しつこく泣く、俺はムツゴロウさんみたくひたすらなだめる、そして夜が明ける。あれはきつい。
 なるほどと私は言い、長い箸を動かして鍋底から奇妙なかたちのきのこを救出する。中国人の店員さんが美味しいですよと言っていた。鍋は曲線で仕切られ、赤白二色のスープに大量のスパイスが浮き沈みしている。
 薬膳っぽいもの食べようと彼が言い、私たちはここに来たのだった。繁華街の奥のこのあたりでは深夜まで平然と食事が供され、周囲のことばの半分が日本語でない。
 ミエちゃんは彼の同僚だ。美人じゃないけどなかなかかわいいし、声と話しかたがくすぐったくていいなと彼は思っている。職場の何人かで飲みに行って、二人で飲みなおして、その何度目かに、うちに来ますかとミエちゃんは尋ねた。据え膳、と彼は話し、いいねと私は言った。据え膳はすてきだ。私にも出されないものかしら。
 その話を聞いたのがこのまえ彼と食事をしたときで、そうして何ヶ月か経った今は、なんだか雲行きが怪しいのだと彼は言う。馴れ馴れしくなったっていうか、雰囲気がこう、妙な感じ、わかる?そんなつもり全然ないのに。彼女いるって最初から言ってるし、だいいち、彼女とはぜんぜんレベルが違うっていうか、そういう相手じゃないから、最初から。
 好きだって泣かれたら困るけどそうじゃなかったら安心でしょ。私がそう尋ねると彼はもう一度渋い顔をし、マキノには想像力が欠けている、と宣言した。その場合はそんな質問した俺がばかみたいじゃないか。
 私は少し考えて、ミエちゃんのせりふを作ってみせる。どこまでうぬぼれてるんですか。あなたはひまつぶしのデッキブラシ、せいぜい上下運動に精を出して私の退屈をまぎらわせてくれたらいいんですよ。せっかくあいまいにして雰囲気よくしてたのに、空気読んでくださいよ。
 彼は食事の手を止めて、下品だ、とつぶやいた。私は羊をわりわりと噛んだ。赤いスープに入っていたほうの肉だ。辛い。美味しい。複雑で野蛮で魅惑的な匂いがする。私は思うんだけれど、どっちだろうと心配していることはたいていそのどちらでもなく、なに考えてるんだろうと思う相手はしばしばなにも考えていない。だから気を揉むだけ無駄だ。
 どうしようと彼は言う。逃げちゃえと私は焚きつける。適当にごまかしてふたりきりにならない、これで万事解決する。まあねと彼はつぶやいて、でも可能ならもう少し会いたい、と言う。可能ならあと何回かやりたい、と私は言う。
 彼はため息をついて品がないと繰りかえす。下品なのは私じゃなくてあなたのしていることでしょうとこたえて私は笑う。ああそうだよ俺はマキノみたく上品に生きてらんないからさと彼は言って鍋の残りをさらう。
 私は苦笑する。そんなはずがない。私はときに卑しいおこないを為し、そうして自分や相手の卑しさをつくづくと眺め、なるべく正確に記述する。品のないせりふはその記述から呼び出される。私がそのように説明すると彼は声を小さく落とし、マキノだって仕事して本読んでぼうっとしてるだけじゃないもんな、と言った。でもそんなのいちいち自覚したらだめだ、疲れる。彼はそう忠告し、ありがとうと私はこたえる。でも私はそうするのが好きなの、だから疲れてもいいの。
 私たちはそこを出る。ほとんど傷のような深い皺を刻んだ浅黒い皮膚の壮年の男とすれちがう。足元には煙草の吸殻がとめどなくあらわれる。あたりには片側の前髪を目の上に落としつま先の尖った靴を履く男たち、重たげな睫毛と重たげな髪と色とりどりの凶器みたいな爪を持つ女たち。このような品のなさ、と私は思う。このように品のない美しさ。私たちはそれをひとつずつ持っている。
 彼が改札まで送ってくれたので私はお礼をする。ありがとう、親切だね。彼は苦笑してこたえる。俺の親切なんて俺の卑しさの前にはないも同然だよ。そんなことないと私は言う。誰かを騙すことができない、泣いている人を放りだすことができない、疲れそうな考え方をしている友だちには忠告する、そういう小さい善良さを私は愛するよ、善はその大きさにかかわらず無力ではない、小さい善には小さいなりの力があるはずだと私は思うよ。