傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

目明きの恋

 彼、才能ないから。友だちが言い切って、私はははあ、とへんな声を出す。それからなんとなく左右を見る。どうしたのと彼女が言う。私はもぞもぞと訊きかえす。いや、なんていうか、あなた、彼のこと、好きなんだよね。彼女はうなずき、それから眉を上げて言う。へんな顔。うん、と私はこたえる。きっとへんな顔をしているんだと思う。鏡の前ではできないような顔を。
 若かったころ、私たちの恋は盲目だった。私たちは平凡であって、恋をする相手もそこいらのふつうの人だった。はたから見れば容易に取り替えが利きそうな彼らを、私たちは都度、その人でなければいけないと思いこんでいた。特別にすばらしい人だと感じていた。
 私は友人の恋人や伴侶を特別だと思ったことは一度もない。友人の恋人と友人になったこともない。彼らは一様に私の関心を引かなかった。私が大切なのは友人であって、その恋の相手には道ばたの土鳩一羽ほどの関心も持たなかった。私はだから、友人の愛する人がろくでもないと思ったらろくでもないねと言った。友人たちはもちろん反論した。どんなにすばらしい人か、熱をこめて語った。私も自分の好きな人に対する冷淡なコメントを放っておきはしなかった。だって私は、世界でいちばんすてきな人と一緒に居るつもりでいたのだ。
 恋人や伴侶はその相手にとってだけ世界一になる。どんなに平凡でも、どんな種類の卑しさを持っていても。私はそう思っていた。けれども、年をとると、どうやら、そうではない。恋をしなくなるなら話は簡単なのだけれど、みんなわりとしている。しているけれども、まったくもって、盲目ではないのだった。
 彼女は腕を組み、ボートはボート、と言った。あとにつづくせりふを私はもちろん知っているから確認しておく。好きって、そういう好きなの。つまり、限定的な。そうでもない、と彼女は言う。全面的に好き。いなくなったらどうしようと思って眠れないとか、そういうの。
 やっぱりな、と思う。好きの種類が変わったのではないのだ。相変わらず理不尽に私たちは、忘れたころに、そこいらの当たり前の人間のひとりを特別に好きになる。どうしても近づきたいと思うし、近づいてしまう。なんなら一緒に住んだりする。そうして仲良くなったら今度はいなくなるのが恐ろしい。理由もなく、その人でなければならない。その感情は変わっていない。相手を盲目的に評価することだけがなくなった。
 それはそれ、と彼女は言い換える。これはこれ。彼とは同じ業界だから、彼の才能のなさはよくわかるし、伸びしろもないなって思う。今の評価がせいぜいだし、それだって過分じゃないかと思うくらい。私、彼をけなしてるつもりはない。好きな仕事して食べるのはいいことよ。その中であまりセンスがないほうだっていいじゃない、嫌いな仕事するより。誰もがトップにいるわけじゃないのは当たり前のことでしょう。
 彼女は自分の仕事の領域でつねに高い評価を得てきた。彼女からみたらだいたいの人の成果は自分のそれより低い。他人を評定することにも慣れている(それも仕事の一部だ)。だから才能がないと言われてもそんなに不名誉ではない。それ、彼には言わないよねえ、と私は訊く。言う、と彼女はこたえる。
 積極的に自分から言うことはないけど、訊かれたらこたえる。もちろん、褒めた方が好かれるよ。嘘をついてでも自尊心のおもりをしてやることも、多くのカップルでは必要でしょう。でも私の場合、もともと彼とは仕事上のポジションも評価もかけ離れてるでしょ。だからどんなに嘘をついたところでその種の不満はなくならない。その部分で優越していたい人だったらじわじわと不満をためていく。だからね、仕事がらみで知り合った男なら、仕事で優越したいという欲望が薄いタイプじゃないと、そもそもつきあわないほうがいいの。どんなに穏やかに見えても、どんなに欲がなく見えても、仕事での劣位だけは認められないという人はすごく多い。そういう人には、仕事について何も言わなくても、相手の求めに応じて嘘をついても、腹立たしく思われるものなの。すると彼らはその他の部分で優越しようとするの。そういう感情が読めないままつきあってると、しまいには殴られるよ。比喩じゃなく。
 そうかあ、と私は言う。そうよ、と彼女はこたえる。つくづく、同じ業界にいる人とつきあわないほうがいいね。私が言うと彼女は笑う。しかたがないでしょう、好きになっちゃったんだから。