傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

孤独死OK、超OK

 いつもより早く起きる。川を渡り、友人の家まで歩く。友人の犬を連れて河川敷を走る。犬は往復の道で私を先導し、ときどき私を振り返り、信号ではぴたりと止まる。引き綱をつける必要もほんとうはない。でもつけてほしいと飼い主は言う。顔見知りじゃない人とすれちがってリードのついていない犬がいたら安全じゃないような気がするでしょう。

 犬は散歩用の綱をつけるとき、顎を上げて協力する。とくにいやではないようだ。それどころかちょっと笑う。この犬にかぎらず、犬は、笑う。私にはそのように見える。口角を上げ、目を三日月にして、犬は笑う。そうして私の手や顔をぺろりとなめる。

 ありがとう、と友人が言う。彼女の犬は定位置でくつろいでいる。主が半月ぶりに戻った日の飼い犬のふるまいとしてはたいへんクールだ。彼女は一年に一度か二度、私を留守居に雇って、朝晩の犬の世話をさせる。「出稼ぎ」のためだ。「俳優のディナーショーとかで伴奏するとお金になる」のだという。

 彼女はあんまり労働意欲がない。ふだんは週四日ばかり雇われのピアノ教師をやっていて、ときどき演奏の仕事をする。「一日八時間以上働くとか信じられない」という。贅沢には興味がない。相続した町工場は相続する前から閉鎖されていて、からっぽの元工場にはピアノが置いてあり、彼女は階上に居住している。もとは工場の従業員が住んでいたのだという。

 ともに独居で近くに住んでいるという理由で、私と彼女は相互に、死んだら通知が行くようにしている。正確には、生存確認のシステムに応答しないと互いに通知が行くように設定している。死んでいたときの対処も決めてある。いま自宅で死んだら犬の鳴き声とか異臭で近所の人が先に発見する可能性が高いけど、犬よりはあなたをあてにする、と彼女は言っていた。

 彼女が「出稼ぎ」から戻ると、預かっていた合鍵を返す。そのときに彼女の家で豪快な手料理をご馳走になるのが恒例だ。今日は私の仕事が終わるよりずっと早く帰ってきたようで、骨つき肉のシチューが出てきた。ちょっとした洗面器くらいのボウルに山盛りのサラダがついている。犬は骨をもらってせんべいみたいにぱりぱりかじっている。

 今回の雇い主がやたらとプライベートな話を聞きたがる人で、と彼女は言う。ためらいなく骨を手でつかみ、骨についた肉を器用に食べ、話す。ひとり暮らしにものすごく反対するの、まだ見込みはあるんだからがんばって、とか。何を、と私が尋ねると、さあ、と彼女はこたえる。

 同居人が欲しければとうに探しているので、独居は私たちの選択によるものなのだけれども、ときどきそうは思わない人がいる。うぜえ、と私はつぶやく。なあ、と彼女はこたえる。それから裏返った声で一時的な雇用者の真似をしてみせる。今はいいけどね、年とって、一人でいたら、寂しいですよ、ええ、もう、みじめなものですよ、だいたい、まわりに迷惑でしょ、家族に迷惑でしょ、社会にも迷惑かけるんですよ、孤独死するかもしれない。

 孤独死、というところで急に声をひそめ、ひどく重大な秘密を話すような口調になったので、私は笑ってしまう。彼女も笑う。彼女は自宅で不意に死んで腐ろうが犬に食われようが平気だ。私も同じようなものだ。死ぬのはいやだけれども、そのあとのことはとくに心配していない。死んだあとに自分の死体がどうなってもまあいいやと私たちは思っている。人が生きて死んだら迷惑なんかある程度かけるのが当たり前だと思っている。私たちは一人で死ぬより生きているうちに意に沿わない人間関係を持つことのほうがよほどおそろしい。

 孤独死ってあれでしょ、一人で死んで死体の発見が遅れたりすることでしょ。彼女は話す。最低限のことはいろんな人に頼んであるし、書類と費用も用意してあるし、それで一人で死んで何が悪いんだろ。何が問題なのかわからないよ。そんなことより好きなように生きたいよ。それに比べたら死の間際に誰もそばにいないことなんてぜんぜん問題じゃない。OKOK、超OK。

 私はまた笑う。それから思う。幸福な死などない。けれどもどうやら死には序列がある。正確には、序列を想定している人が多くいる。平均寿命より長く生きて子や孫に看取られて死ぬのがまっとうな死で、孤独死は下等だと思っている人がいる。私たちはそれを鼻で笑う。たぶんね、と私は言う。そういう人たちは、私たちのこと、綱をつけずに往来を歩いている犬みたいに思ってるんだよ。私たちの飼い主じゃないんだから、放っておけばいいんだよ。そいつらにしっぽ振っても骨のかけらもくれないんだし。