傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

鯨骨生物群集 他人

  久しぶりに「恋愛」をしたという彼女の話を聞いて私はできるだけ薄汚く笑った。よく飽きないねえ。私の下卑た口調を期待していたにちがいない、冷ややかな目が私を見下ろした。私たちはL字型に席をとり、うつくしい庭に面した、たぶんこのお店ではいちばんいい席にいる。そこで見せる動作が「座っている者同士なのに見下ろす」。たいしたものだと私は思う。こういう女には物理的な高さなんか要らないのだ。うんと小さいうちから心をぺしゃんこに潰されて、ふくらもうとしては潰されて潰されて、その上に半ば人工的に大人の人格を築いて、だからどのような感情の底にも怒りが隠れているような女。いちおう友人という位置にある私の目には手のつけられない幼稚さと凶暴さがあからさまに見えるんだけれど、男たちには少しもわからないらしい。
 飽きるからやめるのよと彼女は言う。私、飽きっぽいの。ひとりに飽きるという話じゃないと私はこたえる。恋愛なんてあなた、したことないでしょうよ、強いて言うなら十代にあったかな、でもそんなものでしょ、相手なんかはじめから見てなくて、余所のご家庭に罅を入れるのが楽しくて妻子持ちの誘いに乗ってるだけでしょうよ、妻だけじゃなくて子がいないといまいち盛り上がらないっていう、ねえ、よく飽きないねえ、そんなに楽しいの、「パパ」に遊んでもらうのは。
 偶然よと彼女は言う。声かけられて仲良くなったらたまたま奥さんと子どもがいたのよ。だから罪悪感とかですぐ冷めるのかしらね、ほら私、謹厳な遵法者の味方だから。私はげらげら笑う。あなた、仕事でだって要するに切った張ったが大好きなだけじゃない、争いが醜ければ醜いほど生き生きしちゃうっていう。でも仕事はまあ、いいんじゃないかな、その、闘争か逃走かみたいな基本姿勢はたぶん治らないからさ。
 でももう退屈なの。ぼつりと彼女は言う。「恋愛」も退屈。仕事も、就職したてのころみたいじゃない。キャリアが一周回って、たいていのことはできてしまう。この年齢になると当たり前なんだけど、できないかもしれないことがとても少ないの。毎月お給料が入って安穏と暮らして、なんだか、意味がわからない。
 そんなに野垂れ死にたいの、と私は聞いた。彼女は片眉を上げた。覚えてない、と私は尋ねた。野垂れ死にっていうのはね、あなたのろくでもない父親が高校生のあなたに言ったせりふだよ、てめえみたいのはどこに頭下げたって嫁に行けねえよって言われて、行きませんからかまいませんってあなた答えたんだよ、そしたらあなたのクソ親父はあなたを指さして笑ったんだよ、じゃあ野垂れ死にだ、野垂れ死に!ってね。
 そんなこともあったねえと彼女は言う。私は高校生の時分、彼女の家庭の強烈なエピソードを世間話のように聞いて仰天したものだった。父は敵で、母は味方ではない。当時の彼女がそう言うので私は思いきり首を横に振った覚えがある。なにしろ彼女の母親は、彼女が父親の文句を言おうものなら、ふだんの淑女ぶりはどこへやら、「じゃあどうしろっていうのよ、あんたに私が養えるとでも?」とわめいたというのだ。言っておくけど相手は高校生の娘だ。なんという徹底した寄生体質。ある意味で父親よりおぞましいと私は思った。敵でいい敵でと私は言った。まとめて敵でいい。まとめて焼けばいい。私は大まじめに勧めたんだけれど高校生の彼女はただ笑ってマキノは物騒ねえなんて言っていた。彼女が蓋をしてきた怒りをガソリンに変えて動きだすのはもう少し先のことだった。
 深海にね。私が言うと彼女は薄くなった影をもとに戻すように意識をこちらに向ける。鯨が死んで沈むの、海の底のうんと深いところに。そうすると骨に含まれる脂を吸って生きることに特化した生き物たちがそこに棲むの。脂を吸うどころか、骨を腐食させるバクテリアをさらに食う、みたいな、妙な生き物が何種類もいるんだって。そいつらはそこにしかいないし、そこを離れると死ぬの。
 あなたの家族の大半はたぶんまだ同じ場所にいる。あなたはそこを離れたのに、まだ「パパ」に遊んでもらいたくって、「パパのいる家」を壊したくって、自分は野垂れ死ぬのがデフォルトなの?飽きなよ、もういい年なんだからさあ。
 飽きてるよ、と彼女は言う。飽きてて退屈だよ。じゃあ進化しなと私は言う。けっこう進化してきたけど、もっとこう、思い切って、古い足とか切っちゃう感じで、進化してよ。腐った脂で栄えるコロニーから逃れて、いるのはまだ海底、でも海藻とか生えてるし食っていける、ひとりでそこから進化していく、あなたの人生は、そういうお話にしようよ。