傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼女の最後の犬

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。人が死んで出かけるのは「要」で「急」とされている。しかしこのたび死んだという知らせが来たのは犬である。親戚の犬が死んだから県境を越えて出かけるというのは、今のこの国の基準では「不要不急」である。

 犬はトイプードルで、名をスモモといった。スモモはとてもわがままだった。飼い主はわたしの伯母である。犬がわがままになるのはたいてい飼い主の不適切な甘やかしによるものだけれど、ご多分にもれず、伯母はスモモをそれはそれは甘やかして育てた。

 伯母はしろうとだから、あるいは判断力がなかったから、犬を甘やかしたのではない。トイプードルを飼う前に、伯母はセッターを二頭飼育していた。そのときはまだ伯父が生きていたし、子ども(わたしの従弟)も家にいたが、主な飼育者は伯母だった。犬たちは機敏で物静かで、人間の食べものにはまるきり興味を示さず、とても安定した生き物に見えた。

 セッターは狩猟犬にもなる運動量の多い犬である。伯母はセッターたちに玄人はだしの訓練をほどこし、二頭の犬の仲に目をくばり、甘えがちでも怯えがちでもない、落ち着いた素晴らしい犬に育てた。わたしはセッターたちと伯母が一緒にいるところを見るのが好きだった。ファンタジー小説に出てくる魔法使いと動物みたいでかっこよかったから。

 でも犬は死ぬ。健康的な生活を送っていたセッターたちも死んだ。人間も死ぬ。折悪しく二頭目のセッターの死と前後して伯父が病を得、しばらくして亡くなった。従弟が就職のために家を出てすぐのことだった。

 従弟は伯母を心配し、犬が必要なんじゃないか、もう一度犬と暮らしてはどうかとすすめた。そうねと伯母はこたえた。そして迎えたのがスモモである。従弟の帰省に合わせて伯母を訪ねてスモモと対面し、わたしはたいそう驚いた。わがまま放題の、可愛いといえば可愛いが、あの伯母の育てた犬とはとても思われない、落ち着きのない犬だったからだ。人間がものを食べていると必ず寄ってきて自分にもくれとせがむのである。そんな犬は世の中にたくさんいると思うけれど、わたしの犬の基準はあの優秀なセッターたちだったので、完全にあきれてしまった。

 伯母も伯母である。しかたないわねえなどと言いながら、塩分のないものを少しちぎってその場でやってしまう。なんというけじめのない態度か。トイプードルは警察犬をつとめることだってあるのに。わたしが渋面をつくると、伯母は言った。

 この子はわたしの犬よ。人ではない。人を甘やかしてわがままに育ててはいけない。犬だってそうしてはいけないとわたしは思っていた。でも、犬なら、いいの。わがままが原因で寿命が縮むこともあるかもしれない。それでもわたしはスモモを甘えんぼうの犬にした。わたしの意思で。わたしがそういう犬をほしいというだけの理由で。

 わたしはスモモより先には死なないつもりよ。でもスモモのあとに犬を飼って寿命まで一緒にいることはできないでしょう。だからスモモはわたしの最後の犬になる。最後の犬を、わたしは甘やかした。わたしがそうしたかったから。正しくはないわね。でも正しくないことをしてもいいのよ。わたしの犬だから。子どもではないのだから。わたしはね、犬が自分の子ではなく、誰の代わりにもならないことなんか、よく知っているんです。犬は犬。人ではない。だからカネで買ってきて人にしてはいけないことをするのよ。

 わたしは黙りこんだ。スモモのわがままはごく普通の犬の範疇だ。客観的にみれば、ひどい育て方をされているとはいえない。でも伯母はきっと「悪い育て方をするんだ」「そして自分の、ただかわいがりたいという欲望に都合のいい存在にするんだ」と心に決めて育てたのだ。自分のためにスモモを犠牲にしたと思っているのだ。

 スモモが死んだので伯母から電話が来た。来なくていいわよと伯母は言った。このご時世だし、親戚の犬のことなんかで出歩いたらいけないわよ。東京から病原菌もってきたって言われるわよ。わたし? わたしはスモモが死んだら高齢者住宅に入ろうと思って準備してたから大丈夫よ。

 伯母はゆっくりと言った。犬なんてどうせ死ぬの。わかってて飼うの。スモモが死んだからもうわたしの人生に犬は来ない。都合良くわたしと同時に寿命が尽きる犬はいない。それでもね、犬のいる人生は、とてもいいものだったわよ。