傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

長い法要

 もうすぐ帰国します。二週間ほどいるので、お暇な日を教えていただけませんか。日本っぽいものが食べたいな。

 そのようなメッセージが入る。履歴をさかのぼると去年にも似たようなメッセージがある。その前は一昨昨年。海外に住む知人から、「帰国するから食事でも」というメッセージが入ったなら、出かけていく人は多いだろう。

 でもわたしは知っている。人間は、会わないで済ませたい人間には会わない。家族でも親戚でも親しい友人でもない相手に対する「帰国するから」ということばは意味のないエクスキューズにすぎない。彼女はわたしに、一年から二年に一度のペースで会うことを、かなり意図的にやっているのだと思う。

 ごめんなさあい、お待たせしちゃって。彼女はよくとおる、ちょっと甘い声で言う。わたしは胸の中に冷たい水が満ちるように感じ、しかしそれが顔に出るような年齢ではもはやなく、ほどよい笑顔を彼女に向ける。

 彼女は椅子を引く。わたしの目の前にあるメニューを、からだを斜めにして覗きこむ。わたしはできるだけ平然と座っている。肩の触れるようなカウンターの店を選んだのはわたしだ。並んで座って身を寄せるようにして話す状況を作ったのはわたしだ。わたしはそんなの平気なんだと彼女に示してやりたいのかもしれなかった。

 わたしは彼女の顔を見る。女の顔である。化粧をしている。髪が長い。しかし目鼻は彼女の兄にそっくりである。いや、そっくりだったと思う。わたしはもはや彼女の兄の顔を忘れた。わたしは定期的に会わない人の顔をきれいさっぱり忘れてしまう。だから彼女の兄の顔を思い出すこともふだんはない。しかし彼女があらわれると「そうだ、かつてこのような顔の男がいたのだった」と思わざるをえない。

 わたしは彼女と話す。わたしたちにはいくつかの共通点があり、近況と現在の興味だけで二、三時間は楽しく会話することができる。彼女は話す。彼女は笑う。わたしは彼女の声を聞く。女の声である。しかし、音の高さを少し下げてやれば、その声は彼女の兄の声とほとんど同じなのだった。きょうだいとは不思議なものである。話しかたやアクセントの癖もほとんど同じだから、よけいそっくりに聞こえる。興が乗ったときのトーンの上がりかた、息を吸う間合い、笑い声を刻むリズム。ぜんぶ同じだ。

 わたしの視界は少し揺れる。彼女の兄を想起する。しかし彼女は兄の話をしない。わたしも彼女の兄の話をしない。その男は十年前に死んだ。自分の意思で死んだ。彼の遺骸は警察からそのまま火葬場に送られて骨にされた。彼の両親の意向ということであった。家族以外で彼との別れを惜しみたい者は彼の両親の自宅を訪ね、骨壺の入った箱がしつらえられたスペース(宗教色のない祭壇というような体裁で、厳かにととのえられていた)の前で神妙に手を合わせた。わたしもそうした。奇妙なものだなと思った。人間は死んだらそれまでだし、火葬のタイミングだって遺族の好きにしたらいいとわたしは思うけれど、ただ箱の前で神妙にしていても「ああ、あの人は死んだのだな」という気はあまりしないのだった。

 死者の妹が死者のあれこれを欲しがるものだから、手元にあった写真だの何だのをあげた。死者の書いた文章もあげた。そうしたらだんだん「あの人は死んだのだな」という気分になってきた。助かった、と思った。

 彼の妹はその後、海外に就職した。そうして忘れたころに「帰国します」というメッセージを送ってくるようになった。会えば食事をともにし、近況を話す。まるで昔のクラスメートか何かみたいに。でもわたしと彼女が最初に会ったのは死んだ男の骨の前だ。わたしと彼女はただ死んだ男によってのみつながっている。

 死んだ男にそっくりの目鼻と死んだ男にそっくりの声音が定期的にわたしの前に提示される。何かのしるしのように。何かの信号のように。

 彼女は生きているので年をとる。笑うと目尻にさざなみのように皺が寄る。それは彼にはなかった。あったらきっと似合っていただろうと思う。そう思わせるために、彼女はわたしの目の前に来るのかもしれない。

 駅まで歩く。彼女は楽しそうに話している。わたしも楽しく話している。駅に着く。それではと言う。彼女はわたしに抱きつく。ハグしましょうよと言う。わたしは彼女に向き直り、あいさつにふさわしい動作で軽く抱きしめる。彼女は背の高い女で、ヒールを履くと兄と同じ身長になる。電車がやってくる。わたしは彼女に手を振る。彼女はわたしに手を振る。