第二こじま荘は駅と駅のあいだにあって、どちらから行っても十分ちょっとかかった。平屋と二階建てばかりの下町の路地のどん詰まりにあって、横が駐車場だったから、第二こじま荘の二階はやけに日当たりが良くって、ベランダのない鉄枠の窓が光っていた。
第二こじま荘の外見は不動産屋の公称よりあきらかに年期が入っていて、もちろんのこと畳敷きで、玄関というようなものはなく、ドアの前がすぐ台所で、そこに後付けでごく小さい三和土を切り、反対側に強引にお風呂をつけていた。そこにあるのはもちろんのこと風呂釜であってバスタブではない。深い小さい浴槽で、床はタイル張りだった。台所の向こうは引き戸で、三畳間と六畳間がついていた。こちらは潔い白い壁で、塗り直したばかりのようだった。私がはじめてそこに入ったとき、部屋には青い畳の香りと、干したばかりの布団みたいなにおいがした。布団なんかどこにもなかったのに。
私がそのように話すと、よく覚えてるなあと彼女は言った。マキノが住んだんじゃないのに。第二こじま荘に住んでいたのは彼女で、私は彼女の新しい家に来ている。彼女は第二こじま荘の三畳間と六畳間のあいだの引き戸を取って使っていたいたけれども、新しいリビングはそれより広かった。パーティションの向こうにベッドがあるのだろうと思う。彼女は私にソファをすすめ、自分は床に置いたクッションに腰掛ける。第二こじま荘にあったやつだ。
第二こじま荘を借りるときにはほかの友だちも加えて総勢四人で不動産屋に押しかけた。なめられちゃいけないからねと誰かが言った。成人から一年や二年しか経っていない者ばかりで行ったってやっぱりなめられるだろうと今では思うけれども、私たちはあのころ、もうすっかり大人のつもりでいた。彼女の大叔母だという人が保証人になってくれて、でも足が悪くて施設にいるので、若い者ばかりで部屋を借りに行ったのだった。不動産屋が家主に電話をかけ、身寄りのない方で、と言っていたのを覚えている。
彼女はそのようにして大学の寮のあとの住まいを手に入れた。それから何度第二こじま荘に遊びに行ったかわからない。それはそれは古く、地震や火事があったらひととたまりもないぺらぺらの木造で、生活音は筒抜けだし、お風呂はバランス釜だったけれども、第二こじま荘はまちがいなく、とてもいいおうちだった。あらゆるところがきれいに掃除され、まめに修繕されていた。大家さんはかぼそい小さい老夫婦で、けれども軒下に蜂が巣を作ればほうきでたたき落とし、住民にストーカーがつけばほうきでたたき出してくれた。そしていつもほうきで掃除をしていた。あいさつをいつもして、それ以上の会話をしたことはなかった。彼女は就職して会社が大きくなって役職がついてお給料をいっぱいもらうようになっても引っ越しをしなかった。いいおうちだものねと私が言うとそうだねと彼女はこたえて、笑った。
新しいマンションで彼女は言う。実は今でもどこかで「私は地面で寝て残飯くってりゃいいんだ」と思っている。私は精神的に育ちがよくないからそういう根っこができて、そんなのいやだからだいぶ自分を育て直したつもりだけど、でもそういうのってなかなか、きれいさっぱり消えるものじゃない。けれども第二こじま荘に帰ると、そこにいるのが正しくて、地面じゃなくていいんだって感じられた。だからあのアパートはマキノの言うとおり、いいおうちだったんだと思う。
みんながいいおうちだと言うにちがいない新しいマンションで夜中に目が覚めると自分は地面に寝ればいいんだと彼女はきっと感じてしまうのだろう。私はそう思う。だってこのマンションはお金がかかっているけれど、手がかかっていないからだ。傷のある人は手のかかった場所にいたほうがいい。でもその傷はもう、ずいぶん古いものだから、新しいマンションにいてもだいじょうぶだろうとも、私は思う。
第二こじま荘は大きいブルドーザが来て紙細工みたいにぺしゃんこにしていったよと、彼女は言った。大家さん、旦那さんのほうが亡くなって、奥さんも大家さんをやめるんだって聞いた。敷金を返してくれてね、要らないって言ったら、だめですって叱られた。これはあなたが一生懸命、おうちを借りるために稼いだお金でしょう、必要な分は引かせてもらいましたけれども、あとはあなたの、大切なお金ですよ、って。私そういうの、けっこう忘れてた。
彼女は忘れっぽい人だ。放っておくとなんでも忘れてしまう。だから私は言う。奥さんの言うとおりだよ、そのお金はだいじにして、あのころのあなたに、何か買ってあげたらいい。