傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

卑しさを弁別する

 久しぶりに連絡があったので彼女の好きなビストロを予約しようとしたらそれはいいと言う。どうしてと訊くと節約したいというのでうちに来てもらった。身なりはあいかわらず華やかだ。手土産持ってきたら節約にならないからねと言ったのに、有名な果物屋のおそろしくきれいな梨を持ってきてくれた。いくらなんでも手ぶらで人の家に行くほどの節約は要らないと彼女はこたえて、笑った。私も笑って、それから彼女が十年前から住居の購入を考えていたことを思い出して口をひらく。もしかして、いよいよマンションの頭金がたまったの。いいえ、それどころか頭金のための預金、解約しちゃった。
 私は彼女を見る。他人のお金の使い途を質問するのは品のないことだ。けれども彼女のようすは多少下品になってもいいと思わせるくらい好奇心をそそった。浮き足立って、そのくせどこかしら醒めている。同じ独身の中年でも野放図に年を取ってへらへらしている私とはちがう、手のかかったつややかな人。私は工芸品みたいな梨を見る。この人みたいだと思う。そうして尋ねる。そりゃまた、どうして。彼女は声を出して笑い、サヤカすっごく軽蔑するよと言った。私ねえ、不倫してるの。それで貢いでるの。
 相手には妻子があり、借金もあった。彼女はそれを認識し、それが自分の言動に影響を及ぼさないことに驚いた。こんな人はほかにいないと彼女は思った。彼は彼女がかつて欲しかった膨大な量のことばをみんな知っていて、少しずつそれをくれているように思われた。彼女は彼となら何時間でも話すことができた。信じられないくらい趣味があうし、嫌いなものも同じだ、と彼女は思った。それにどこもかしこも見ていて快い。ただ見目のいい男の人はそれなりにいるけれど、細部にわたって不快感がないのはひどく稀なことだ。
 彼は彼女に何を要求するのでもなかった。ただ率直に使えるお金がないことを告げた。彼女は彼と過ごすためのすべてをまかなった。一泊だけだけれど、旅行にだって行った。彼女は楽しむことが好きだったし、年齢や収入に相応の贅沢を知ってもいた。ふたりぶんだから費用が二倍になるのは当たり前のことだと思った。彼女は彼にそれを当たり前だと思ってほしかったし、彼もそのように振る舞った。やがて彼は言った。借金はきみが思っているような金額じゃないんだ。彼女は定期預金をひとつ解約した。
 私はこの男を買ったのだと彼女は思った。買って、飼っているのだ。私はこの人との時間がほしい。私はこの人のすることや言うことがほしい。私にとってそれはこの世のたいていのもより価値がある。だから買う。買わずに手に入れることができると思うほど私は夢見がちではない。この男は私を愛してなんかいない。生きている人を、こんなふうに欲しいのは、暴力的だと思う。正しくなんかないと思う。でも私はそれに逆らうことができない。だから、買う。ばれたときのために奥さんへの慰謝料だって準備する。
 話を終えて彼女は私を見る。嫌いになったでしょうと言う。サヤカは不倫が大嫌いだものねと言う。私は首を横に振る。私がものすごく嫌いなのは不倫そのものというより恋によって法に触れる行為や誰かの権利を侵害する行為を免責されようとする心のありようなのだ。私は現行の婚姻制度を必ずしも支持するものではないけれど、不倫が触法行為であることはたしかで、それを「だって恋してるんだもの、だから私は悪くないの」みたいに思えるなんてあまりに精神が卑しいと思う。そういう話を聞くと鼻の頭に皺を寄せて嫌う。恋を何かの言い訳にするなんてひどい話だと思う。恋は何も免責しない。恋はただ恋として成立する。そのように思う。私はもしかすると恋というものをやけに大切に思っているのかもしれなかった。
 私はそのように説明する。でもあなたはそうじゃないでしょ。あなたは自分がしていることをわかっていて、自分の欲望の問題点を承知して、それで「買う」という。私はそれに賛成はしないけれど、恋してるんだからOKみたいな人とあなたを一緒にする気にはなれないよ。あなたのしていることを卑しいと思うか訊かれたら、えっと、まあ、イエスなんだけど、でも、そのイエスは、恋がなにかを免罪すると思いこんでいる人たちに対するのとは、ずいぶんちがうものだよ。私がそう言うと彼女は苦笑して残念だなあとつぶやいた。私にだって罪悪感はあるから、サヤカに容赦なく軽蔑されて少し楽になろうと思ったのに。そんなことには協力できませんと私はこたえる。あなたの男じゃあるまいし、他人をいいように使おうとするのはおよしなさい。