電話を取ると今ちょっといいですかと彼女は言い、相変わらず実に日本語らしい表現を遣うなあと私は思う。発音は完全ではない。あきらかな英語なまりがある。けれども言いまわしはきわめて自然な口語だし、それを用いるシチュエーションを誤ることも滅多にない。
彼女はアメリカ合衆国のメキシコにほど近い地域で生まれ育ち、職業として英語とスペイン語と日本語を教えた経験をもつ。大きなめがねをかけて、質素な身なりをして、いかにもアングロサクソン的な容姿で、今は東京にいて、高校生に英語を教えて暮らしている。私の古い友だちの妻で、年に一度たくさんのごはんを作って郊外のおうちに呼んでくれる、気のいい人だった。けれども職場ではずいぶんと怖い先生なのだそうで、誰かが彼女の勤め先の名前をあげて、あの学校の生徒なら優秀でしょうと訊くと、みじんの迷いもなく英語に切り替えてノーというのだった。たぶん「いいえ」じゃ足りなかったんだろう。英語を話しているときの彼女は日本語を話しているときとはちがう仕草をし、ちがう声音を出した。それはみごとな切り替わりで、なんだかショーを観ているみたいだった。
電話の向こうで堰を切ったように彼女は話しだす。その日本語が正しくないことで私は私の役割を自覚する。彼女はときどきパニックに陥って夫や友だちに電話をかけると聞いたことがあった。ふだんは見られない混乱が彼女の日本語にはあった。ナチュラルスピードの英語でなくて少し安心した。そんなの確実に聞き取れない。
彼女のせりふを解読すると、どうやら「ママ友」との会話が原因でパニックを起こしているようだった。彼女は非常な早口で言う。ママ友、ひとり親しい、私言う、私の息子、彼はperfect、カンジも計算も、天才かもしれない。彼女ダイジョーブ、彼女よく知ってる、でもそんなに知らない人が入ってきて、だから、私言う、いいえうちの子はこんなにだめ。彼女変に思った?私間違った?旦那さんは大丈夫大丈夫。でも彼いつもそう。
彼女はその気になれば謙遜だって上手にできる。自分の息子を「彼」ではなく「うちの子」と言うことだってできる。けれどもそれはひとつひとつの語を選択しているのではない。彼女の中にスイッチがあって、日本的なモードに切り替えることによって、半ば自動的におこなわれるのだ。だからときどきそれらのあいだで整合性がとれなくなる。今日はそれでパニックに陥って夫に電話をかけ、いったんは落ち着き、それでも心配になって私にかけてきたようだった。私は彼女が日本的なふるまいを習得しているがゆえにときどき起こすパニックについて彼女の夫から話を聞いたことがあった。これがそうなんだなと思った。大丈夫と私はこたえた。ママ友の、親しい人のほうはね、あなたがそういう使い分けをしていることを、ちゃんとわかるはずだよ。変に思ったりしない。あなたを賢いときっと思っている。私はそのように答える。私は慌ててはいなかった。けれどもだいぶさみしかった。
彼女はいつかちょっと強引な車の運転をしたとき、いかにも欧米人らしく眉をひゅっと上げて、「大丈夫大丈夫、警察が来たら私いい人のガイジンの顔をする、『オーゴメナサイ、ワタシ知リマセンデシタ、アイムソーリィ』」と宣言して同乗者たちを笑わせた。彼女は日本人じゃないから、車をぴかぴかに磨いたりしなくって、それがよく似合っていた。彼女は確信に満ちた強靱な人に見えた。だから私は彼女がふたつの文化のあいだを楽々と飛びうつって暮らしていると思っていた。そんなのは優秀な語学教師である彼女にとってなんでもないことなのだと。
でもそうじゃなかった。そうじゃないことを知らなかったから私はさみしかった。ほがらかに笑っている人はほがらかな気持ちなんだと思って安心するなんてずいぶんと愚かしいふるまいじゃないか。私を自宅に招待するとき、女の友だちにはとくに来てほしいんだと彼女の夫は言っていたのに。妻はひとりで日本に来たのでと、そう言っていたのに。
マキノサンと彼女は言う。マキノサンは、とてもそういうものをわかる、日本の、正しいやりかた、キガキク、だから訊こうと思いました。私は正しいやりかたなんか知らない。私は気が利かない。そもそも私は彼女に正解を教える気なんかない。気が利く、なんて、ばかみたいだ。どうしてあなただけが激しい混乱に陥ってまで彼らの些末な欲望をかなえてやらなくてはいけない。彼らのほうがあなたを理解する義務だって同じくらいにあるはずじゃないか。そう思って、でも私は、気の利く正しい日本人みたいな声を出す。大丈夫、あなたはちっとも間違っていません。