傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

くれてやる笑顔と瑣末で効果的な自尊心の折りかた

 部署の中に空いたデスクがひとつあって会議室をとるほどでもないときのミーティングスペースになっている。私はそこで今ふたり組で仕事をしている相手と細かな打ち合わせをしていた。少し厄介な問題があることを相手が告げて、困りましたねと私はつぶやく。それならとやけに大きな声がして私たちは話を止める。声は滔々と対策を述べ私は困ったなと、さっきとはちがう部位で思う。それはすでに試された手段だった。その人は私の口を利きたい人ではなかった。
 声が発されてわずかに数秒、そこにかぶせて別の声が響く。槙野さん資料要りますか。私は瑣末な窮地を救われて振りかえり、同時に救った人を認識してなぜだか背筋を寒くする。返事をしたくない声はまだ続いている。彼は背後の声を再度覆うために最低限必要な音量の明瞭な口調で、役に立つと思いますと告げる。
 実際のところそれはかなり役立つものだった。彼はそれをプリントアウトして提供した。打ち合わせを続けながら偶然じゃないと私は声にせずしかしことばにして確信する。彼は、わざと、私の聞きたくない声を打ち消した。考えうるかぎりもっとも的確なタイミングで。そうして私の後ろの席の目端の利く後輩がはっきりとわかるくらい不躾に声の主を見た。ほとんど非難がましい長さで。
 彼はよく人から飲み会や昼食に誘われる。みんなが彼に話を聞いてほしがっている。私たちの上長も、もちろん私もときどき彼を頼りにする。彼はいつもは資料を与えるように現実的な解を示すのではない。彼はただ聞く。彼は私の先輩で、私の入社当時からそんなふうだった。どうしてですかと訊ねると勉強したからと彼は簡単にこたえた。他人の話を聞くことは技能です、僕はそれを学んだ。必要だったから。納得のいかなかった私は彼が読んだという本を何冊か借りた。そこにはたしかに彼のふるまいの一部が書かれていたけれども、文字で読むと当たり前に思えるようなことにすぎなかった。
 そりゃあね、技能というのはそういうものです、と彼はこたえた。わかるのとできるのはぜんぜんちがう。後者には辛抱強い努力とささやかな才能が必要とされる。彼はそのように説明して日替わり定食のかますの一夜干しをきれいな箸運びで持ちあげた。さっきの、と私は強く言った。わざとでしょう。なんのことと彼は訊かなかった。だってあたしあの人嫌いなんだものと言った。
 彼はときどき芝居がかった女ことばを遣う。どうしてと私は繰りかえす。どうしてときどきおかまなんですか。彼の恋愛対象は女性に限られる。彼は結婚していて四歳の娘がいる。彼は笑って、だって男でいるってときどき耐えがたいじゃない、と言う。男という概念に含まれる暴力性に逆らえないことってあるじゃない、そんなのってあんまりじゃない。私はほほえんでやさしいんですねと言う。男だから余裕なのよと彼は怖い顔で言う。所詮男だから上から見てるんだ。槙野さんこないだの飲み会でどうしてあいつにビールぶっかけてやらなかった。どうして笑って流した。馬鹿じゃないのか。
 ふだんの彼は決して他人のことばを遮らない。他者と対峙するときの彼の姿勢、彼の声音、彼の視線はいつも繊細にコントロールされ相手の語りに最適化されている。彼が今日ことばをかぶせて意図的に妨害した相手は酒の席で私を好きだと言った。適当に流しても引きさがらないのでノーサンキューですうと私は言って笑った。その人物はしつこかった。口調がしだいに荒れ私がいかにいい気になっているかを語るせりふが混じりはじめた。私は実は能力がなく、上役に取り入って評価されており、しかし年をとってその効力もすでに衰えているということだった。その人は私を好きなのではなかった。私が自分の思うとおりにしないから理不尽だと言いたいのだった。私より職位が上で整った造作をして名の通った大学を出ているからりんごが木から落ちるように私が彼に媚びるべきだと主張しているのだった。私はすべてを冗談にくるむせりふを捻出して笑った。
 あの醜い、くれてやる笑顔。彼はそうつぶやく。私はぞっとする。怖い人、と言う。怖くない、とてもいい人だよとこたえて彼は翳りなく笑う。いかにも善良で清潔で家庭的な中年男の顔。あんなやつ居心地悪くなって退職して野垂れ死ねばいい。僕はそう思います。だから僕は僕の嫌悪の情に殉じて僕の身の守れる範囲であのつまらない自尊心を傷つける。他人を詐取して保っている自尊心なんてね、ちゃんとした矜持とちがってぺらっぺらに薄いんだ、そしてそこには典型的な急所がある、片手間に何十回か擦ってやれば簡単に、ぽっきり折れるんだ。僕は僕の娯楽としてそれが見たい。