傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

弱者の様式

 槙野さんは相変わらずサムライだなあと言って彼は笑った。私は最低限の愛想をいやいやながらに添加した顔を傾けた。私はこの人を好きではなかった。ふだんはたいした接点がなく、親しくもないのだから、崩れたことばを発すべきではない。そう思って、口を利くたび不快を感じた。ふだん一緒に仕事をして信頼している年かさの上長が敬語を遣わないのとはわけがちがう。
 彼は私を査定し、取り替えの利くものとして取り扱う。そんなのはかまわない。だってここは会社だ。私は私の能力と労働を売り、彼はそれを審査する。そうした間柄には表面上の礼儀正しさが必要で、でも彼は私に対してそんなコストの必要性を認めるつもりはないらしかった。所有物に対するようなある種のなれなれしさを彼は示していた。猿を見る猿回しの目。
 サムライだよ、だって、と彼は背筋を曲げたまま続ける。昔からときどきさ、三年に一度くらいかな、抗議っぽいことするでしょ。これは適切とは思われませんって。黙ってりゃいいのにさ。そしたらすごく可愛いのに。僕らはあなたの仕事を好きだよ、僕らはあなたを、すごく可愛がっているのに。ああそりゃ間違ってるんだろうよ、正しいばかりの仕事なんかないよ。槙野さんが黙ってることと黙ってないことの区別が最近はついてきたけどね、この種の問題については黙ってないんだなみたいな。彼はそのように説明し、私は儀礼的なほほえみでもって自分が好きではない人間から無遠慮に心性をあげつらわれる不快感をやりすごす。
 今日もそうだけどさと彼は軽薄に笑う。必死だよね。理不尽あらば腹を切る、みたいなね。怖い怖い。揶揄への正しい対応、と私は思う。変わらずにいること。揶揄などというものは、卑しい人間のすることだと、だから無効だと、嘘でもいいから信じていること。嘲笑われてなお、清潔な衣服と清潔な表情と清潔なわたしを、誇示すること。怖くないですと私はこたえる。私は、三輪さんになんにもできないから、怖くないですよ。汚いハラキリを見たくなかったらその前に追い出せばいいんです。そんなの簡単じゃないですか。
 彼は高い声でつくり笑いを笑い、そっくりかえってぎいと椅子を鳴らし、それから反対側に背骨を曲げ、うんと年をとった人のような声で小さく咳きこんだ。ねえ槙野さん。僕らは、あるいはあなたが抵抗しようとしている彼らは、あなたが思うほど強くない。槙野さんは僕らに絶大な権力があって、自分や仲間たちを抑圧していると思ってるんじゃないのかな。でもそんなものはない。僕らの立場だって弱いよ、槙野さんのひとことで右往左往する人間が何人もいるんだ。
 私は完全に虚を突かれて、とりあえず笑う。何をおっしゃいますやらと言う。ほんとうだよと彼はつぶやく。わかんないかな。どうしてわかんないのかな。誰かが抑圧的な物言いをしたからだろうね。でも攻撃的にものを言う人間は弱いからそうするんだ。弱くて怯えているから。どうしてそれがわからない。
 彼はふたたび軽薄な声になって、まぬけな顔してるなあと言った。私は驚きから取り急ぎ復帰し、間抜けというのは失礼だと思います、と小さく抗議した。驚いていただけです。まぬけのほうがいいやと言って彼はまだ笑っているのだった。懐にドス呑んでますみたいなのより、そっちのほうが。私はすっかり困って、だって、そうしないと、どうしようもないからです、と言う。
 どうしようもなくなんかないと彼は言う。もっとこう、僕らにやさしくしてよ。そのほうが言うこと聞く人いっぱいいるからさあ。気持ち悪いなあと思って苦笑していると彼はぎゅっと私をにらんで、ほとんど敵意がある人のような声を出す。こっちの立場、考えて。別にわがままで槙野さんとかに嫌がらせしてるんじゃない。そんなやつはいない。どうしてそうしなきゃいけなくなったのか、考えて。考えてやさしくしてよ。槙野さんはもう体制側なんだ、いい年してキャリアも積んでるくせに弱い者のふりなんかしたってだめだ。いつまでもいちばん弱い立場のときの様式を使いつづけるなんて、そんなのはずるい。

 一部始終を話すと上長はしたり顔して、向こうが正しい、と言った。私はふくれた。成長してくださいと上長は言う。強くなって、彼らにやさしくしてやりなさい。絶望しましたと私はこたえた。大人になったら成長から免責されると思ったのに。成長たいへんですよ、成長痛とかあるじゃないですか。上長はそれを聞いてたのしそうに笑い、内面はむしろこれから伸びるんだからまだぜんぜん痛みますと、晴れやかに予言する。