傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたの美しい欠落

他人に興味をもつとき、美点より欠けているところがフックになることが多い。欠けているところを補う工夫にはその人のものの考え方や美的感覚があらわれるし、自分の欠落を認めるプロセスをうまく消化した人には、特有の寛容さがあるように思う。
私の友だちに、自分がある種の傷を負ったときのことはなるべく隠蔽し、話題にのぼらないように細心の注意を払っている人がいる。彼女は会話のなかにつらい記憶と結びついたものごと(それ自体はなんの変哲もないことが多い)が出てこないように、じつに注意深くコントロールしている。私は彼女のコントロールの手つきを目撃するたび、そのあまりの巧みさと優雅さに驚く。たいへんな表現力と話術だと思う。そうして、それを実現しているのは、特定の話題の周辺には自分はもとより他者の手も触れさせたくないという、あからさまな狭量と脆弱だ。
彼女の夫はさらに徹底している。彼は傷ついたときのことを忘れてしまうのだ。そして、特定の記憶に蓋をしたことを、おそらく明瞭に認識している。ふつうはそういうかさぶたみたいなものがあると、つい剥がしてしまう。でも彼は決してそうしない。他人から指摘されるほど不自然な忘れ方でも「そうかなあ、でも忘れてしまった、まあいいじゃないか、そんなことは。もう一本ワインをあけよう」と言う。彼は穏やかでおおらかで、ものごとのよい側面だけを口にする。そしてそれを実現しているのは、病的なまでの逃避癖だ。
この夫妻はひとつの殻におさまった双子の卵のように暮らしていて、ときおり私のような無害な客を呼ぶ。彼らの欠落はどう考えても望ましいものではない。でも彼らにその欠落がなければ、私は彼らの個人としての魅力をうまく感じとることができなかっただろう。
欠落への対応は残酷なまでにその人の内面をあぶりだす。私にとって重要なのは欠落の量や種類ではなく、その人がそれにどのように相対しているかということだ。対処に感動することもあれば、うんざりすることもある。自分に対してもそうで、自分の能力の足りないところや心根の卑しいところをちゃんと手当してそれなりにやっているとき、私は自分を愛し、認めてあげることができる。なにかがうまくできたときは、もちろんいい気分だけれど、その気持ちよさはたいして長続きしない。
美点ばかりの人はほんとうに人から好かれるんだろうか。なんでもできてなにも欠けていないように見える人はなんだかつるんとしていて、手をのばしてつかむところがない。関与できる気がしない。だいいち美点ばかりを見るなんて下品じゃないか。「彼女は美人でセクシーで賢くてお金をたくさん稼ぐ。僕はとても彼女が好きだ」とか。
別の友だちにそういうことを話したら、彼は可笑しそうに言った。「誰にだって弱点はあるから、なにも心配いらない。きっとほかの誰かがそれを見つけてくれる。あなたにそれが見えないのは、単にそれがあなたの好みのかたちの欠落じゃないからだと思うよ。それからあなたの言う下品な愛情っていうのも、もらってみるとそれほど悪い気はしない」。