傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

礼儀を忘れる場所

十年近く前に、F1レースがおこなわれるサーキットでアルバイトをした。レセプションのための仮設小屋の中で配膳をするウェイトレスだ。関係者はその小屋をテントと呼んでいた。
サーキットにつくと、アルバイトはコンテナみたいなところで制服に着替え、あなたはメルセデス、あなたはホンダ、あなたはマクラーレン、というふうに、適当にテントに振りわけられる。
ケータリングサービスはオーストリアの会社で、英語とドイツ語が主な言語だ。ヨーロッパ系の言語が通じるスタッフは一通り揃っているが、東洋系のことばは通じない。だから日本人のゲストに配慮するために、ひとつのテントにひとりの日本人アルバイトが配置される。
オーストリア人は可笑しいくらい気取って配膳にあたる。私は彼らが美しく接客する様子に驚いた。そしてゲストたちがひととおりシャンパンを飲んでレースを観にいったあと、裏に戻ってもっと驚いた。さっきまで表できわめて優雅にグラスを渡したりしていたチームリーダが、前歯でビール瓶の王冠をぽんと外し、立ったままぐびぐび飲んでいたからだ。
おう、おつかれ、片付け終わったか、チェックはしてもらったか、じゃあ休め、三十分したら次の準備な、と彼は言う。べつのごく若いウェイタが「ひゅー」と叫びながら、プラスティックの箱をスケートボード代わりにして、しゅーっと滑っていった。床材が網目状のプラスティックだから、けっこうな速度が出ていた。さっきまでゲストのまなざしを集めていたラテン系美人のウェイトレスも煙突みたいに煙を吹きだし、吸い殻を床に捨てて靴でぐいぐい踏むなどしている。
私が呆然と彼らを見ていると、リーダはビール瓶をもうひとつ開け(もちろん前歯で)、「飲むか?」と言った。私が首を横に振ると、今度は煙草を差し出して、吸うかという。それも要らないというと、「じゃあキッチンでコーヒーつくってこい、ちゃんとクリームを入れろ、豆は新しいのを使え」という。やさしい。やさしいんだけど、荒っぽい。表にいるときとぜんぜん口調がちがう。
熱くて濃いコーヒーをつくって隅でふうふう吹いていると(クリームというのはあらかじめ分離した生クリームではなく、牛乳を攪拌してつくった泡を指す。たしかに彼らのコーヒーはこれを入れたほうがずっと美味しい)、隣のテントの日本人アルバイトが遊びにきた。
「ねえ、なんかこの人たち、すごい裏表はげしいよねえ」
彼女もびっくりしたみたいだ。だよね、と私は言う。いやあ、びっくりしたよ。
「なんだ、ガイジンの悪口か?」
振り返るとチームリーダがいた。大きな手に皿を持って、にやにや笑っている。大きくて少し怖い。私は英語があまり話せないので、隣のテントの彼女を見る。
「悪口じゃないです。あなたがたは、ゲストに接客しているときと今みたいなときがあまりに違うので、私たちは不思議です。私たちはそれほど違う振る舞いをしない。私たちはそうすることができません」
彼女がそう言うと、彼は、やっぱり悪口じゃないかと言ってたのしそうに笑い、それから言う。
「俺には日本人のほうが不思議だ、裏に引き上げてきても礼儀正しくて、にこにこしてて、正しい英語を使おうと努力したりして、がんばったってど下手なんだけどさ、とにかく、おまえらいったいいつ気を抜くんだよと思うね。まわりがガイジンばっかりだから気を抜けないのかと思ってると、日本人同士でもやっぱりにこにこして礼儀正しくておとなしくて、苛々しないのかと思う」
「日本人が礼儀正しくなくなるのは、家に帰ったときです」
私は言う。それくらいなら言える。怖いと思ったのが嫌だった。私はひどく若くて、それなりに意思疎通のできる相手のことは怖いと思うべきではないし、努力してお互い気持ちよく働くべきだと思っていた。
「じゃあ家の中じゃたいへんだな、ボーイフレンドが。礼儀正しくなくてにこにこしてなくておとなしくなくなった日本人の反動怖い」
「ボーイフレンドと一緒に暮らしたりしません」
「なに、いないの?」
「います。いるけど一緒に暮らしません」
彼はちょっと変な顔をして、それから、これ次に出すケーキなんだけど端が欠けたからおまえら食え、と言って、私たちにチョコレートケーキをくれた。私たちはきゃあきゃあ喜んだ。ケーキには酸っぱいジャムが入っていて、とても美味しかった。