傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

知らないなんて許せない

 ソーシャルメディアをぜんぶ閉じた。ものを書いたときの通知に使用するSNSアカウントを一つ残したが、そこでも一切の相互性を排除した。誰もフォローしない。リプライはしないし、見ない。シェアや「いいね」はもとよりほとんどしないが、徹底してゼロにする。

 インターネットで文章を書いて十数年になる。書いているのはフィクション、それから人が書いたフィクションに対する感想文である。ふだんはコメント欄のないブログで延々と書いている。たまに注文原稿の依頼が来る。注文に沿うように努力をするが、いつも注文どおりに書けるのではないし(あきらかに書けない内容の依頼だと辞退する)、しょっちゅう依頼があるのでもない。だから私はプロではない。基本的には自分のために無料の文章を大量に書いている愉快なアマチュアである。

 私は社交をしないのではない。インターネットでもいい文章を見たら賞賛の感想文を書いてアップロードして本人にURLを送りつけたりする。一方、私のところに知らない人から身の上話などが送られてくることもある。「ほほう」と思って読む。他人の身の上話は嫌いではない。

 ではなにがいやでソーシャルメディアを全部閉じたかといえば、「自分の話をしろ」という要求がいやで閉じた。

 私は、本を読んで「まるで私のために書かれたかのようだ」と思うことがある。ぜったいにそんなわけがないのに、「私の話だ」と思う。「私のステイシー・レヴィーン(作家名)の話をしていいですか」などと言う。ほんとうはまったく私のではない。赤の他人である。これ以上ないくらいきっぱりさっぱり無関係の他人である。

 そんなだから、「自分のための文章みたいだ」と言われることにはまったく抵抗がない。どうぞこの野良ブロガーの文章をあなたのためのものと思ってください。私も赤の他人の小説家の文章を「私の」と言ってにこにこしています。めでたし、めでたし。

 問題はその逆だ。「こうした文章を書く人が赤の他人であってはならない」というような欲望である。そんなやついるのかと思われるかもしれないが、いるのだ。その人にとって私は自分の一部、あるいは好みの文章を「供給」する道具のようなものである。私にメッセージを送るとき、彼らは巨大な、理不尽にひどい目に遭ったという感情を、そのメッセージにこめる。

 彼らはソーシャルメディアアカウントを持っている。彼らはそれでもって私をフォローする。私は彼らを知らない。彼らは私にメッセージを送る。私は「読んでくださってありがとうございます」と言う。あるいは何も言わない。彼らはまたメッセージを送る。そこには激しい怒りと苛立ちがこもっている。私が彼らのための物語を書かないことを、今週の更新が彼らの気分を良くする作風でなかったことを、私が彼らのメッセージに丁寧な返信をしないことを、私が彼らのアカウントをフォローしないことを。彼らはたとえばこのように書く。

 無視するとはどういうことでしょうか? ○○さんの@には返信していました。公共の場でそんなに差をつけるのがどういうことか考えていらっしゃいますか?

 あるいはこのように書く。

 お返事をいただけないほど怒らせてしまって本当に後悔しています。最後にこれだけは聞いていただきたいのですが、

 怒っていない。怒る材料がない。だって、知らない人なのだ。

 槙野さんがわたしを知らないことが耐えられません。知られる価値を生み出せなかったわたし自身を許せません。

 知るわけがない。赤の他人である。知らない人である。私はプロではなくて愉快なアマチュアだから、営業のためにソーシャルメディアを使う必要がない。だから相互性を一切排除した。無視していればいいと言う人もあろう。私だって罵詈雑言なら平気で無視する。でもあの巨大なエネルギーを無視することはできない。ああいうものに対して無感情になることができない。

 私はあの怒りに見覚えがある。自分のものだと思っている相手が離れていこうとするときに見せる怒り、自他の境界が危うい人の発する怒りである。それを話したこともない他人にやっているのだ。自我の一部としてインターネット上の「供給」を切り貼りしている人がそれを取り上げられたように感じてすごく怒っているのだと思う。取り上げられたら自分の存在があやうくなるからあんなにも感情が巨大なのだ。私はそれを無視できない。相互性を排除することで「私はあなたではありません」「私はあなたのものではありません」と示すよりない。

あなたはこうしてキモくなる

 人間関係におけるキモさというのは、僕が思うに、舐めながら期待しているときに生じるんです。なんていうのかな、「この程度の相手であれば、自分をよく扱うだろう」という感じ。好意が発生するときにはしばしば期待がともなうものだけど、そこに相手を見下げた感覚とか、所有感みたいなのが入ると、一気にキモくなるんです。

 僕、モテるんですよ。こう見えて、実はすごくモテるんです。なんでだかわかりますか。「ちょうどいい」からです。それで、誰にモテるかっていうと、自信がないんだけどいつか誰かが自分だけの良さを認めてくれると思ってる女の子にモテるんです。自分だけの良さって、何かっていうと、別にないんです。具体的にはとくにない。あってはいけない。なぜかというと、それは自分を好きになった男が見いだすべきブラックボックスだからです。自分の長所を自覚すると、他人と比べたときにたいした長所じゃないってわかっちゃいますからね。彼女たちはただ「わたしなりに懸命に」生きるわけです。そして僕を好きになる。この人は自分を見いだすんじゃないかって思う。わかりますか、そういう期待をぶつけられる側が感じるキモさを。わかってもらえますか、このキモさを。恐怖に近いキモさを。

 女性たちに「自分を下げろ」「相手にとってちょうどいい女であれ」っていう声、ありますよね。あれはキモい。そして俺にはあのキモさの正体がわかる。単に異性に優越感を感じさせろという話じゃないんです、あれは。「無根拠な期待を煽れ」「その上で相手に自分を見下させて、安心させろ」という意味なんです。煽る期待の中身は、期待してる本人もわかってない。わかってたらいけないんです。せいぜい「この人とつきあうのかも」くらいじゃないと。

 つきあうって、何だよ、って思いませんか。俺は思う。その中身を決めてから手に入れるべく交渉すりゃあいい。でも彼女たちは決めない。決めるのはいやなんです。せいぜい「誠実なお付き合い」「結婚もあるかも」くらい。薄ぼんやりしてて、意思じゃなくて「そうなるのかな」っていう感覚。主語が自分じゃない。なぜかっていうと、責任を取りたくないから。誰かに決めてほしいんだ。キモさの一番のポイントはこれです。決めないであいまいに、でも強烈に、期待している。

 自信がないくせに他人に期待するなよ。そう思いませんか。自信がないんだったら、他人にも期待できないだろうに。何でそういう認識になるんだ。

 ああ、そうか、「自信満々で主体的な女」は「望ましい女」じゃないから、「自信がない」をキープするわけか。なるほどね。男なら「自信満々に相手を見下しながら、自分を持ち上げてくれるのを期待する」と思うのはまあよくあることで、普通にキモい。でもそのキモさはわかりやすいから、キモ度が低いんですかね。それとも俺が男だから男のキモさが相対的に低く感じられるんですかね。

 いやあ、でも、キモい男も、いるな。言われてみればいる。います。「自分程度であっても、こいつなら」と思って口説きにかかるみたいな男、いる。あのキモさは「ちょうどいい」的な期待をしている女たちと同じだな。色恋はじゃあ、関係ないのかな。えっと、ちょっとは関係ありますよね、自分がその気になってない相手からの色恋の気配は、それなりにかなりキモい。でもそれだけならたいしたキモさじゃないんだよなあ。見下しと期待ですよ、やっぱり、キモポイントは。そいつらはさあ、断ると怒るんだよ。プライドが傷つけられるんだよ。幼児がゲームに負けた時みたいにさあ。俺なら、振られたときは悲しい。おいおい泣く。自分キモいって思う。くやしくもなる。でも怒りはしないです。だってしょうがねえから。でも彼女たちは怒る。なぜかっていうと、自分は振られる立場じゃないとどこかで思ってるからです。

 俺だって、他人を見下すことはあります。ていうか、よく見下す。でもそれは俺の基準で見下してるだけだから、俺の勝手なんです。嫌いとか軽蔑するとか、そもそも関心を持たないとか、そういうのは、俺の勝手じゃないですか。でも、キモい女の子って、ああ、男もか、キモい人たちって、なんか薄ぼんやりした階級意識みたいなの持ってません? 俺はどうもそんな気がするんだ。薄ぼんやりしてるのに強固なまぼろしカーストを持ってるんだ。つまんねえ中学生みたいなさあ。わかります? その階級意識で「同じ階級のちょうどいいもの」を選択してて、それが俺なんです。だからキモいんだよ。てめえの中のわけわかんない階級を押しつけるなっていう話ですよ。

今じゃなければ、さよならだ

 子どもが泣いている。大人たちは笑っている。子どもは三歳半である。身も世もない、それはそれは悲しそうな泣きぶりである。

 女友だちが寄り集まって小さい子たちを連れてピクニックに出かけた帰り、電車に乗って順次解散しているところである。いちばん小さな三歳半の子は、そのほかの誰と別れるときにもバイバイと言って平気で手を振っていたのに、ひとりだけとても好きな女の子がいて、ぜったいにバイバイしたくないと泣いているのだった。

 いくら泣いても大人たちは笑っててきとうにごまかして彼の手を引いて歩く。バイバイと言わなければ別れは来ないと彼は思っていたのかもしれないけれど、もちろんそんなことはない。いなくなる。さっと手を振って泣いている彼を放ってあっというまにいなくなる。

 彼はまだ泣いている。彼は彼女とどうしても別れたくなかったのだ。子どもに未来の感覚は薄い。今でなければないのと同じである。だからどれほど「またね」「来月また来るからね」と言われても、ぜんぜんなぐさめにならない。今じゃないものは永遠の別れなのである。時間の概念ができあがっていないのだから。

 彼があまりに泣くので、私たちは道ばたで少し休憩する。彼の母が言う。子の目の高さまでかがんで言う。お別れしないってことは、追いかけるつもりなの? でも帰った人を追いかけたら、相手はどう思う? 困るよね。いくら好きでもあんまり困らせたらもう会えなくなるんだよ。今どうしても一緒にいてそれから一生会えなくなるのがいい? 今おうちに帰って来月また会えるのがいい?

 この母は私の古い友人であって、相手がわかろうがわかるまいが正しいことを諄々と言い聞かせる人である。三歳半にはまだむつかしいと承知の上で言うのだろう。子どもはまだ泣いている。私たちはペットボトルの蓋をあけてお茶をのむ。子どもにも飲ませる。

 また会えるのがいい。

 子どもが小さい声で言う。私たちは驚く。なんとまあ、この子の中には、もう時間軸があるのだ。来月というのはまだあんまりわかっていないかもしれないけれど、少なくとも今でないものを想定して取引をしたのだ。「また会えるなら、今別れることを受け入れる」という、世界との取引を。

 そうかそうかと子の母が言う。私たちは駅に向かって歩く。私は思う。きみはとてもえらいね。でもさっきまでのきみのほうが、実は正しかったんだよ。私たちには未来なんか本当はない。それはいつも後から思い出すものだ。「来月」がほんとうに来るかなんて、実は誰も知らないんだ。それは私たちの想像にすぎないんだ。もっと細かいことを言うなら、来月が来たときに私たちの全員が元気で、休日が取れて、それで一緒に出かける気になるなんて、ほとんど奇跡みたいなものだ。誰かの気が変わったら一生会わない。私の気が変わるかもしれない。そういうものなんだよ、ほんとうは。

 そう思う。でももちろん言わない。未来への信仰なしに、安定した社会生活はない。だから子どもが未来の概念を獲得するのは必要なことだ。私だってふだんはその信仰を持っているふりをしている。来月とか、次の水曜日とか、明日の朝とか、そういうものを。

 でも私には心底からそれを信じる能力がなかった。「明日が来るとか、嘘じゃないかな」と思わない夜はなかった。さっきまで泣いていた三歳半の子と同じくらいには未来というものを知らないまま生きてきた。私は、もう四十を過ぎたのに。たぶん私は一生こうなのだ。今でない時間の存在を、どうあっても飲み込むことができない。飲み込んだふりをしてスケジュール帳を使って、でもそんなものを実は信じていない。目を閉じてもう一度ひらいたら世界が崩落していてもまったくおかしくないのだと、どこかで思っている。

 そんなだから、私の世界にたしかにあるのは今このときだけである。食べたいような新緑の色、日陰に残る花の色、アスファルトを白く霞ませる強い光、斜め前を歩く母子、子の小さな靴、私たちを追い越していく自転車、日焼け止めを塗り忘れた首筋の熱。私が目を閉じて、また開けば、この世界は、どこかへ行ってしまう、何ひとつ残さずになくなってしまう、だから、今だけだ、今じゃなければ、さよならだ。

 さようならと私は言う。バイバイと親子が言う。曲がり角で振り返る。親子はまだそこにいて、もう一度手を振った。世界はまだある、と私は思った。今のところは。

マジョリティの地獄

 背後から女の声が聞こえる。

 私は男に生まれなくてよかったと思うよ。私が男だったらさあ、ちやほやされて育って、ぜんぜん挫折しないもん。女の子にもモテる。もう絶対モテる。それでナチュラルに威張る。家庭のことは結婚相手に丸投げして、「子どもの教育はお前の仕事だろ」とか言って、脱いだ靴下をそこいらに置き去りにして、家族みんながびくびくして自分の機嫌を取るようにしむける。なぜなら私には、社会に甘やかされながら社会の矛盾を考える能力はきっとないからだよ。私は自分が女に生まれて、いくつか不運なことがあって、割りを食っているから、だから思考しているんだよ、自分のために。優遇されていたら今ごろは根拠のない優越感をぶくぶく太らせて精神が脂まみれになってるね、まちがいない。

 それは僕の父である。

 もちろん口には出していない。内心で思ったことだ。その声は僕の背後で、僕でない人物に向かって発せられていたのだし、声の主はわざわざ話しかけるような相手ではない。ずけずけとものを言うから昨今のセクハラ防止やらコンプライアンス重視やらの対応に駆り出されることがある、そういう女性社員である。それだって雑用で、本務でたいしたことをしているわけでもない。中年で、独身で、言っていることは正しいのかもしれないが、しなやかさがなくて、何か満たされない人生を送っている女性だと思う。

 相手が女だといちいち値踏みする、その態度が差別的なのだと、僕だってわからないのではない。僕は口に出してはいけないことを心得ている。言って不利になることは思っていても言わない。誰にでもにこやかに接している。

 僕の父親は三ヶ月前から入院している。本来はもう退院しなければならないのだが、半身に軽い麻痺が残っていて、自宅に戻れない。母親は少し前に腰を痛めていて、自分より二十センチも背丈のある要介護者を引き取れる状態ではない。そして何より母親ならびに母親と同居している弟夫婦、この三者が全員、父親を蛇蝎のごとく嫌っている。義妹と弟はさっさと部屋の間取りを変え、母親に至っては父親が入院した直後から遠方の介護施設のパンフレットを集めはじめた。僕は早くに上京して離れていたから彼らの内心を知らなかった。入院前はそれなりの家族であるように見えたのに、蓋をあけたら父親以外の全員が全力で父親を排除しようとしていた。絶対に家に戻らない死人のような扱いだった。

 僕だって父親を好きなのではない。でも父親はあの時代の当たり前の男だった。いや、当たり前よりもずっと良い男だった。よく稼いでいたし家族を殴るのでもなかった。僕らの家族は当時としては何不自由ない暮らしをしていた。父親は少なくとも平均よりも良い父親だったはずだ。それがいけないというのなら、父親の世代の男たちは半分以上が断罪されなければならない。そんな理不尽なことがあるか。

 そう思う。でも言わない。言わないが、「もっと近くの介護施設があるだろう」と言ったとき、弟の目はあきらかに僕まで断罪していた。完全にとばっちりだ。父親を見捨てないなら敵だと言わんばかりである。どうしてそういう極端な態度に出るのだろうと思う。老後くらい静かに送らせてやってほしいと思う。何も自宅で手厚く介護しろと言っているのではない。慣れ親しんだ地域の介護施設に入れてときどき見舞ってやるくらいのことがどうしてできないのか。母親や義妹は女性として何か不愉快な目に遭ったことがあるのかもしれない。それなら今の時代に不満を述べるのは、百歩譲ってわからないこともない。でも弟はどうだ。弟だって、育った時代なりの、当たり前の男である。父親と違うのは生まれた世代だけだ。生まれた時代なりに育ったという意味では同じだ。弟は、四十年後に自分が父親と同じ目に遭ってもいいというのか。家を追い出されてもいいのか。あの家は父親が働いて建てた家じゃないか。

 背後から耳障りな声が聞こえる。

 自分より「下」の人間がいつもいるという暗黙の了解のもとに育って、それでもって後からまともになるというのはねえ、むつかしいことですよ。差別感覚が少ない人は、どこかで差別されたことがあるんだ。差別されて悔しかったから考えたんだ。そうじゃなかったらなかなか考えない。必要がないから。当たり前だとか普通だとか思って暮らしている。だから私は女に生まれて割りを食ってほんとうに良かったと思うよ。ものを考えないで行き着くところは地獄ですよ。

たましいの接着の弱さ

 ふだんより大きなプレゼンテーションをする仕事があった。会場も広いし時間も長い。一人でやるとぜったいに間が持たないので仕事仲間と一緒に登壇することにした。

 早めに会場に入ると、スタッフから「準備の持ち時間は一組あたり二十分です」と言われた。それまで入れないのだそうだ。しかたがないからぼんやりと立っていた。今日ってまさかえらい人たちも来ちゃうのかなあ。だったらいやだなあ。

 気がついたら発表本番七分前だった。私が慌てて会場に入ると、このたびの発表の相棒が無表情で準備をしていた。そしてものすごく冷たい声で「早くしてください」と言った。

 発表は完全にうまくいったわけではないけれど、まあまあの感触を得た。この感触なら、いいんじゃないですか。私が言うと、相棒はそうですかと言う。彼は他人のなんとなくの反応や発言者の言外の好意悪意みたいなものがさっぱりわからないので、私が解説するのが常である。

 いや、今日は、表情が読めないとか以前に、客席の人の顔が見えてなかったです。彼はそのように言う。見えないって、なんで。緊張していたから? 私が訊くと彼は首を横に振り、照明が強かったから、と言う。あの照明であのレイアウトだと客席は「なんか人がいる」くらいの感じですよ。

 視覚検査では問題が見つからない。ただ特定の条件のもとでよく目が見えない。そういう事情のようだった。聴覚は逆にひどく強いらしく、雑音が苦手で、ノイズキャンセリングのヘッドフォンをよく使っている。話し声が小さいのは「自分の声が頭に響いて気分が悪くなるから」だという。

 他人の聞こえやすさのために自分の不快感を犠牲にしなければならないとは思わないの? 私がそのように尋ねると、そんな犠牲をはらってまで他人と話さなければならない理由がわからない、と彼は言う。仕事で大きな声を出す必要があるならマイクを使うし、プライベートなら小さい声でも理解してくれる人を探す、と言う。集団での雑談は右から左へ聞き流して雑にうなずいているだけだそうである。

 そのように非社交的な人間を、と彼は言う。あのように不慣れな会場に単独で置き去りにするなんて、ほんとうにひどいことだ。マキノさんには人情というのものがないのか。

 人情の問題ではない。私は何かというとたましいが身体から遊離するたちなのだ。具体的に言うと、緊張や体調不良や痛みなどの刺激で時間の感覚がすっとなくなってしまう。数分で気がつけばよいほうで、ぼうっとしているうちに数時間が経過していることも少なくない。

 どういうしくみかはよくわからないのだけれど、どうもそういうときは脳の状態がふだんとは違うらしい。むかし医者のすすめで脳の検査をいくつか受けたところ、起きている状態で検査を受けたのに深く眠っているときの脳波が出ていた。医者によると、赤ちゃんや認知症の高齢者にはよくあることだそうだ。まあだいじょうぶですよと医者は言った。認知症でない成人でも、えっと、座禅中のお坊さんとかから観察されています、その状態で受け答えをするというのはね、ちょっと珍しいけど、たぶんだいじょうぶです、あなたは、たましいをこの世につなぎ止めておく機能がちょっと弱いんですよ、そう思って生きていらしたらいいですよ。

 私がそのように説明すると彼は首をかしげ、たましい、と言う。たましい、と私はこたえる。医者が使う用語じゃないかもしれないけど、私は「そうか」と思ったんだよね。

 要するにやや一般的でない脳の特性があるということでしょう。彼はあっけなく言う。そんなのはね、自分のできないことをできないと理解して、それで対策を立てておけばいいんです、僕だってそうしている。その、ちょっと剥がれたたましいを、この世に呼び戻す方法があるんじゃないですか。そうじゃなかったら曲がりなりにも中年になるまで公的支援なしにやってきていない。スマホのアラームとか入れておけばだいたいどうにかなる話なんじゃないですか。

 そのとおりである。ふだんはそうしている。けれどもこの年齢でプレゼンごときにそんなに緊張するとは思わなくて、対策していなかった。私がそう言うと彼はため息をついて、二度はしないでください、と言う。ごめんなさいと私は言う。それから尋ねる。あのさあ、私たちはお互い、脳の特性で苦労をしているわけだけど、そういうのが全然ない人っているのかな、みんな平気そうな顔してるけど、ほんとは何かしらあるんじゃないかな。あると思いますと彼はこたえる。僕の友だちはみんな何かしら問題があって対策してますよ、とはいえ、僕の友だちって、一桁ですけど。

「生んでくれてありがとう」

 生んでくれてありがとう。

 息子が言う。保育園の卒園式のことである。子どもたちがひとりひとり保護者にメッセージを伝える。なにぶん六歳だ。自分だけで考えたら、要領をえない、しどろもどろの、あるいは日常的な発話になる。でも式典はスケジュールが決まっているから子どもたちはひとことずつしか口にできない。順番に、滞りなく、全員が、みじかい決め台詞を言う。そういう場だから、文言はだいたい決まっている。「送り迎えしてくれてありがとう」というのがもっとも多い。その中でわたしの息子は「生んでくれてありがとう」と言った。

 わたしは反射的に口を手で押さえる。その手をスライドさせて目の下と鼻と口を覆う。表情の細かい伝達を隠し、かつすごく感動しているように見える姿勢をつくる。隣のママ友が言う。まあ、なんてこと言ってくれる子かしら、こっちまで泣いちゃう。ほどなく園児たちはそれぞれの親のところへ行く。わたしはめいっぱい嬉しそうな顔をつくって息子をほめる。

 いいせりふじゃーん。後日わたしがその話をすると友人はのんきに語尾を伸ばす。じゃーん、じゃねえよ、とわたしは思う。わたしの眉間の皺を見て友人は笑い、言う。だってさあ、私は、子ども産んでないからさあ、子が母に向けた感謝の言葉を否定しにくい立場なんだよ、まずは当たり障りのないことを言うよ、私にもそれくらいの社会性はあるよ。

 わたしはため息をつく。友人は猫背をさらに丸めて平たいグラスいっぱいに注がれたカクテルを舐める。それから目を眇めて皮肉げな声を出す。あなたの息子さん、いったいどこで覚えてきたのかね、そんな「いいせりふ」を。

 そう。わたしは「生んでくれてありがとう」と言われて嬉しくなかった。暗澹とした。

 わたしと息子はたいそう愛しあっている。卒園にあたり、息子はわたしに感謝していると思う。でも「生んでくれてありがとう」は、確実に息子のオリジナルではない。どこかから拾ってきたものだ。わたしはそのフレーズを好まない。

 息子は悪くない。何一つ悪くない。息子の愛は伝わったし、それ自体はとてもうれしい。だからわたしは卒園式で息子を絶賛したし、その後だって何のわだかまりも持っていない。わたしが暗然としたのは、「母親というのは『生んでくれてありがとう』と言えば喜ぶものである」という文脈、そしてわたしの息子もその文脈を飲み込んでいるという事態のためである。

 「うんでくれてありがとう」は、狭く解釈すれば、「出産してくれてありがとう」である。この場合、妊娠出産を担当した母親のみが対象だ。広く解釈しても遺伝子を提供した両親に対するせりふだろう。そんなもの特権化してどうするんだと思う。わたしはたしかに息子を出産したが、だから息子を愛しているのではない。息子と自分の血がつながっているから愛しているのではない。ただ親子として時を過ごし、そして愛しているのである。

 そりゃあ今の日本では遺伝的な両親のつくる家庭に生まれてくるのが「普通」なんだろう。しかしそれ以外の親子だってたくさんあって、親子以外の養育関係ももちろんある。子どもはしかたないが、大人になっても「普通」だけが存在するかのような物言いをするのは知的怠慢ないし差別である。

 血のつながりのある両親だけを、さらに言うならしばしば母親だけを称揚する言説は世にあふれている。自分が母親になってよくわかった。「(夫との間に妊娠して自分が出産した子を育てている)お母さん」を褒め称える言説がいかに多く流布しているかを。わたしはそんなのは嫌いだ。愛情深く虐待せずに育ててくれた人はみんなえらいに決まっているだろう。全員をほめろ。全員に感謝しろ。そう思う。

 わたしはそのように話す。友人は要所要所でうなずく。あなたは正当だねと言う。わたしたちは同じような本を読んで同じような倫理観を持っているので、まあ当たり前ではある(だから話したのだ)。

 友人がつぶやく。「生んでくれてありがとう」が流布するってことは、「この子を生んだのは自分だ」という誇りで自分をアイデンティファイしている人がたくさんいるってことじゃんねえ。それ以外のアイデンティティ素材がいっぱいあったら、「生んでくれて」にフォーカスしないもんねえ。「育ててくれてありがとう」で済むわけだからさ。でも「生んでくれてありがとう」が主流なんだよねえ。そう考えると、なんか、しんどいよねえ。

余剰の捕縛

 仕事の会合のあとでそのうち一人が飲みに行きたいというのでついていった。僕は人の言うことにあまり逆らわない。仕事上の利害関係に反する場合は逆らうし、夜の11時より遅くなるなら逆らう(眠りたいから)。それから酒を強要する相手には逆らう。僕は生まれつきアルコールを受けつけない。アルコールと同じように受けつけない思想信条(あと、僕にはうまく言えないのだけれど、感受性みたいなもの)があって、それを押しつけられたらやはり逆らうのだが、幸運なことに、押しつけられるのは稀である。それとなく言われてもわからないからだ、要するに鈍いのだ、と言う友人もあるが、どちらでも良い。

 美術がお好きだと聞きました。ワインリストに目を走らせたままで彼は言い、お飲みにならないとも聞きました、と続ける。双方ともそのとおりです、と僕が答えると彼はなぜだか笑って、文字数が少ない、と言った。目は手元の冊子に向けたままである。何に対して、と尋ねると、情報に対してですよ、最低限じゃないですか、と言う。頭が良い、と思う。疑問文は明らかにすべき事項を示すものである。それを明らかにする回答のセンテンスが示すものがこの場合の「情報」である。そのうちもっとも文字数の少ない文章が良い回答である。そういう価値観を持っている。僕はプログラミングを生業のひとつにしている。

 彼はちょっと眉間に皺を寄せてウエイターになにやら言った。いいですか、と彼は言う。これからワインが来ますが、それはボトルで頼むと一人で飲みきらないからで、放っておいてください。匂いをかぐといいかもしれません。炭酸水も来るからそれを飲むといい。

 僕はそのようにする。ワインをちょっと舐める。美味しいと思う。酒は飲みたくないが、味はわからないこともない。だからアレルギーではないのだと思う。彼は言う。うちには美術館がありましてね。所有しているということですか。そう尋ねると、そうです、と言う。

 僕は現代美術が好きなので、美術館に私営のものがけっこうあることは知っている。私営なら所有者がある。自分で稼いで買うのではない。先祖代々とか一族郎党とかが持つものである。映画で観たことがある。要するにこの人は御曹司というやつだ。それを口にすると彼はそうですねえと言ってげらげら笑う。何が可笑しいのかはわからない。表情と声音が華やいでるのでそれが伝染して少し笑う。華やかな気分は伝染するものだ。伝染は、多いといやだけれど、たまになら好きだ。

 彼はその美術館の年間パスをくれる。僕は嬉しくてちょっと咳き込む。彼は笑う。笑い上戸である。関係する他の美術館のチケットもしばしば余るんです、だいたい二枚セットだからお友だちにあげてください。そう言う。どうして二枚なんですかと訊くとますます可笑しそうに笑う。

 ねえ、こんなのは、余剰ですよ。彼は言う。面倒ですよ、自分で選んだ仕事をしたいから、する、それで、財団の仕事もしなくちゃいけない。疲れる。あのね、馬鹿みたいですけど、資産が入った通帳を銀行に預けるんですよ、金庫を借りてね、その金庫の使用料を預金から引き落としてもらうんですよ、ほんとうにばかみたいだ、でもそれを捨てることができない、自分ひとりでやっていけると思うのに捨てる理由もないし、捨てることが何か恐ろしいから、できないんだ、そんなものに縛られて、逃げ出す理由もなくて、たまに疲れきって、ほんとうにばかみたいだ。

 僕にはよくわからない。そうですかと言う。興味がない。生まれてきたらみんな与えられたカードの中から捨てたり新しいカードを取ったりする。与えられたカードに捕縛される人生について三秒想像する。やっぱり興味がない。目の前の男は延々と話す。その内容は美術館のWebシステムにスライドし、僕はようやく情報量のある相槌を打つことができる。

 そろそろおやすみの時間ですね。彼はそのように言う。今日はありがとうございました。お先にお帰りください。よかったらまたおつきあいください。僕は時計を見る。二十二時四十分。それでは、と僕は言う。かばんを開くとどうかそのままでと彼は言う。何も飲んでいないでしょうと言う。僕は千円札を何枚かテーブルに置く。彼はまた少し笑う。よく笑う人だと思う。

 後日、友人にチケットをあげる。友人は喜ぶ。僕は彼の話をする。そうして尋ねる。あの人、なんなんだろう。友人は言う。えっとね、私のとぼしい人生経験によると、さみしい金持ちは自分のカネに関心のない人間が好きなんだよ。