傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

目明きの恋

 彼、才能ないから。友だちが言い切って、私はははあ、とへんな声を出す。それからなんとなく左右を見る。どうしたのと彼女が言う。私はもぞもぞと訊きかえす。いや、なんていうか、あなた、彼のこと、好きなんだよね。彼女はうなずき、それから眉を上げて言う。へんな顔。うん、と私はこたえる。きっとへんな顔をしているんだと思う。鏡の前ではできないような顔を。
 若かったころ、私たちの恋は盲目だった。私たちは平凡であって、恋をする相手もそこいらのふつうの人だった。はたから見れば容易に取り替えが利きそうな彼らを、私たちは都度、その人でなければいけないと思いこんでいた。特別にすばらしい人だと感じていた。
 私は友人の恋人や伴侶を特別だと思ったことは一度もない。友人の恋人と友人になったこともない。彼らは一様に私の関心を引かなかった。私が大切なのは友人であって、その恋の相手には道ばたの土鳩一羽ほどの関心も持たなかった。私はだから、友人の愛する人がろくでもないと思ったらろくでもないねと言った。友人たちはもちろん反論した。どんなにすばらしい人か、熱をこめて語った。私も自分の好きな人に対する冷淡なコメントを放っておきはしなかった。だって私は、世界でいちばんすてきな人と一緒に居るつもりでいたのだ。
 恋人や伴侶はその相手にとってだけ世界一になる。どんなに平凡でも、どんな種類の卑しさを持っていても。私はそう思っていた。けれども、年をとると、どうやら、そうではない。恋をしなくなるなら話は簡単なのだけれど、みんなわりとしている。しているけれども、まったくもって、盲目ではないのだった。
 彼女は腕を組み、ボートはボート、と言った。あとにつづくせりふを私はもちろん知っているから確認しておく。好きって、そういう好きなの。つまり、限定的な。そうでもない、と彼女は言う。全面的に好き。いなくなったらどうしようと思って眠れないとか、そういうの。
 やっぱりな、と思う。好きの種類が変わったのではないのだ。相変わらず理不尽に私たちは、忘れたころに、そこいらの当たり前の人間のひとりを特別に好きになる。どうしても近づきたいと思うし、近づいてしまう。なんなら一緒に住んだりする。そうして仲良くなったら今度はいなくなるのが恐ろしい。理由もなく、その人でなければならない。その感情は変わっていない。相手を盲目的に評価することだけがなくなった。
 それはそれ、と彼女は言い換える。これはこれ。彼とは同じ業界だから、彼の才能のなさはよくわかるし、伸びしろもないなって思う。今の評価がせいぜいだし、それだって過分じゃないかと思うくらい。私、彼をけなしてるつもりはない。好きな仕事して食べるのはいいことよ。その中であまりセンスがないほうだっていいじゃない、嫌いな仕事するより。誰もがトップにいるわけじゃないのは当たり前のことでしょう。
 彼女は自分の仕事の領域でつねに高い評価を得てきた。彼女からみたらだいたいの人の成果は自分のそれより低い。他人を評定することにも慣れている(それも仕事の一部だ)。だから才能がないと言われてもそんなに不名誉ではない。それ、彼には言わないよねえ、と私は訊く。言う、と彼女はこたえる。
 積極的に自分から言うことはないけど、訊かれたらこたえる。もちろん、褒めた方が好かれるよ。嘘をついてでも自尊心のおもりをしてやることも、多くのカップルでは必要でしょう。でも私の場合、もともと彼とは仕事上のポジションも評価もかけ離れてるでしょ。だからどんなに嘘をついたところでその種の不満はなくならない。その部分で優越していたい人だったらじわじわと不満をためていく。だからね、仕事がらみで知り合った男なら、仕事で優越したいという欲望が薄いタイプじゃないと、そもそもつきあわないほうがいいの。どんなに穏やかに見えても、どんなに欲がなく見えても、仕事での劣位だけは認められないという人はすごく多い。そういう人には、仕事について何も言わなくても、相手の求めに応じて嘘をついても、腹立たしく思われるものなの。すると彼らはその他の部分で優越しようとするの。そういう感情が読めないままつきあってると、しまいには殴られるよ。比喩じゃなく。
 そうかあ、と私は言う。そうよ、と彼女はこたえる。つくづく、同じ業界にいる人とつきあわないほうがいいね。私が言うと彼女は笑う。しかたがないでしょう、好きになっちゃったんだから。

私のためにほほえまないで

 職場の上長は有能であってほしい。それはもちろんのことだけれども、恐れ戦くほど有能じゃなくてもいい、私は思う。有能さと機嫌のよさの総計が高いほうがいい。どんなに有能でもやたらと不機嫌な、情緒の安定していない人のもとでは働きにくい。そう考えるようになったのは今の上長が来てからで、つまり私は上長が機嫌よく仕事をしていることをたいへん好ましく思っている。
 思っているのだが、ときどき腹立たしい。自分がシリアスに怒っているときには一緒に怒ってもらいたいのが人情だ。上長はそのような機微を介さず、にこやかに言う。いやあマキノさん、あの人のこと、ほんとに嫌いだよねえ。しわ、よってるよ、しわ。鼻の付け根にしわがよってると実に凶暴そうに見えるなあ、うふふ。
 上長の造作はむかし教科書で見た毛沢東に似ている。おそらく実物と異なり、迫力はまったくない。全体に福々しい。それがますます腹立たしい。嫌いです、と私はこたえる。伝書鳩じゃないんだから、他の部署の人間にしてほしいことくらい自分のところで詰めてから持ってくるのが道理でしょう。あとからひっくり返されたの、一度や二度じゃありませんよ。役職上の機能を果たしていません。私のチーム全体の業務が圧迫されているんです。いいかげんに申し入れをさせてください。
 私が感情的になるまいとするあまり不明瞭な口調でぼそぼそと口上を述べているあいだ、上長は無表情で私を見ていた。私が黙ると、うんともううんともいえない音声を発した。それからいつもの軽薄な笑みに戻り、言った。ねえ、マキノさん、彼、マキノさんに嫌われてるってショック受けてたよお。僕あんなに女の人に冷たくされたのはじめてです、って。そんなに感じ悪かったですかねえ、って。
 私は自分のなかの腹立たしさがあっけなく消えるのを感じた。他人に腹を立てるのは期待しているからだ。相手を自分に理解可能な存在と考えているからだ。その範囲を超えると腹は立たない。そうですか、と私は言った。そう、と上長はこたえた。彼、イケメンだもんねえ。うちの奥さんも、ああいう顔がもてるのよって言ってた。それだから、女の人に冷たくされたこと、なかったんだねえ。
 さっきまでここにその「イケメン」がいた。私はその外見をどうとも思わないけれども、いいと思う人は多いのだろう。そうして、それがなんだというのだろう。「イケメン」はいつもうっすら笑っていて、その笑いを私は嫌いだった。その理由がよくわかった。あれは私、否、「女の人」に投げ与えられたエサだったのだ。女の人はイケメンが笑いかければ嬉しいんでしょ、という。
 仕事上の関係しかないのに仕事とはまったく関係のないエサを投げておけばいいと考える、その発想がどれだけの侮蔑を前提としているか、想像したことがないのだろうか。もちろん、ないのだろう。どんなにていねいに業務上の問題を指摘してもわかってもらえないのも道理だ。彼にとって私は「女の人」でしかないのだから。ちゃんと笑っているのに嫌われたのがショックなくらい、「女の人」でしかないのだから。職場での立場上、対立する、だから険悪になることもある。そんなふうには考えない。
 そうですか、と私は繰りかえした。私がここでは「女の人」である以前に会社の人だと、彼は思わないんですね。
 うん、と上長は言った。マキノさんはなめられてるの。たぶん、彼は、完全に無能な人間ではないよ。でも彼にはじゅうぶんな権限が与えられていなくて、だから彼に何を言っても事態は改善しないんだよ。伝書鳩かよってマキノさんは思ったみたいけど、うん、伝書鳩なんだ、実際のところ。長いこと伝書鳩ポジションに置かれた人間がどれだけの憤懣をかかえているか、いっぺん想像してみて。その感情はもちろん彼が自分でなんとかすべきものなんだけど、彼にはそれができない。そうして、長いことためこんだ憤懣は、自分より弱そうなのを選んでなめてかかるという形にしばしば変換されるんだ。マキノさんがちょっとまじめに話したら彼、言うじゃん。こわーい、って。ほんとに怖い相手にこわーいって言わないよ。あれは「弱いくせに対等っぽいこと言いやがる相手」に対する揶揄だよ。要するに、なめてるんだよ。
 そうですね、と私は繰りかえした。私は私の憤懣がへんな形に変換されるまえに正しく噴出させたいのですが、どうしたらいいでしょうか。うん、と上長は言った。やり方を考えないといけないね、ちょっと相談しようか。

泣き虫、けむし

 いつも笑われていた。だから物心ついたときには、隠すことに力をそそいだ。誰にも見られないところで、ひとりきりで、這いつくばって手早く済ませる。僕は早くから、そうしなければならないことを知っていた。嘲笑の要因をなくすことはできなくても、隠す技術を向上させることはできた。
 みっともないところは見せないにかぎる。それが社会性というものだし、コミュニケーション能力というものだ。
 だから僕は「それ」が来たらできるだけ人目に触れないように動いた。人目につかない場所を探すことばかり上手になった。
 手洗いは意外とプライバシーに欠ける。少なくとも男子小中学生には。それよりも隙間がいい。空き教室の教卓の下。理科準備室の丸められた地図の陰。体育館の舞台の下。体育館はすごくいいけど、中に人がいれば入れない。たいていは放課後まで人がいる。そのときには体育館裏と隣の校舎とのあいだが次善策だ。
 数年かけて偽装と逃亡の術が完全されたころ、僕は十五になった。たいていの場面でらへら笑って、それなりにうまくやって、都合の悪いところは徹底して隠して、だからどこにいても、補欠合格の気分だった。
 へらへら笑った。いつもみたいに笑った。それが今日は、ことのほか苦痛だった。みんなはめんどくさそうにしていた。社会科の、妙に熱心な、みんなが嫌いな教師の、しかも受験に役立たない、すなわちこの中学校ではゴミでしかない授業。
 僕はへらへら笑った。スクリーンの中で人が死んでいた。酷いしかたでたくさん殺されていた。皮が破かれ、肉が千切られ、痛い痛いとも言えないで人が死んでいた。芝居だとわかっていることなんか何の役にも立たない。
 僕はへらへら笑った顔のまま教室を出た。教師の声が追いかけてきた。全力で逃げた。僕は泣き虫だ。僕はすぐに泣く。戦争の映画なんかぜったいにだめだ。泣く。間違いなく、僕は泣く。
 痛い、辛い、かなしい、誰かに会いたい。僕はそういうの、だめなんだ。ひとつでも泣くのに、いくつもあったらせっかく作り上げたへらへら仮面が一瞬で消えてしまう。あんなに苦労して作ったのに。泣いたら笑われて石を投げられるから、何も感じてないふりを、僕はしなくちゃいけないのに。泣き虫、けむし、はさんで捨てろ。男のくせに。男のくせに。
 捨てられたくなかった。

 涙は排泄物の一種だ。可愛い女の子の涙以外は。だから僕はげろを吐く姿勢でそれを出す。
 戦争映画が上映されている体育館の裏に逃げこんだ。ださい色のコンクリートブロックに這いつくばって、出した。出さずにすめばどれだけいいだろう。小さいころから治らない。僕の目からはしょっちゅう、排泄物が不意に噴出する。とても汚い。みんなが僕を嘲笑う。だから見せてはいけない。 僕は、普通だ。僕はいつもへらへら笑ってる。戦争映画とか、うぜー。三秒で忘れる。それが正しい男子中学生だ。たぶん、戦争映画を上映した教師にとってさえ。
 ため息が聞こえて、僕は咄嗟にからだを逸らす。制服と黒髪の匿名性に期待する。僕が誰だかわからない相手であることを強く祈る。中学校に上がってからは誰にも見られずうまくやってきたのに。
 曽根くん。祈りはあっけなく裏切られる。女の子の声だ。冴えない鼻声の。曽根くんも逃げてきたんだ、よかったあ。あんなの延々と見せられて平気でいるなんておかしいよね。戦争とか強制的にみんなと一緒に見たくないよ。
 僕は油断しない。彼女に顔を見せない。びーっ、と派手な音がして、へへ、と笑う声が聞こえた。ずいぶん堂々と鼻をかむ女の子だなと思う。案の定、たいしてかわいくない。いちばんかわいい女の子たちは鼻なんかかまない。
 その鼻の根元をちょっとつまんで、彼女はいう。曽根くんってきれいに泣くね。いいな。わたしも泣くときにそんなだったらいいのに。曽根くんの涙はきれいだなあ。

 世界が裏返った。そのことを彼女は今でも知らない。自分のせりふを覚えているかもわからない。でもかまわない。それは僕の世界の話だ。僕だけが知っていればいい。ただの嘲笑の的だった僕の涙が、隠さなければいけない恥が、いいものになった。あのとき、世界は僕の目の前で反転したんだ。

 そういえば、と妻が言う。
 この子、あなたに似たのね。こんなに泣き虫で。そうだねと僕はこたえる。妻はとうに、すぐ泣く子ではない。苦難には歯を食いしばり、食いしばりすぎて奥歯がすり減った。妻はそんななのに僕は、あのときから二倍の年を重ねて、子どもが可愛いというだけで泣いて、泣き虫が少しも治らない。泣き虫けむし。僕は今でも。

寄付への欲望

 個人が個人にカネをやるのは精神的に負担が大きい。もらうほうにとってもあげるほうにとっても、なかなか危険なおこないだと思う。そう、あげるほうにとっても、実は負荷のあることだよ。自己評価が下がることもある。え?うん、まあね、あるよ。生きてれば人にカネをやりたくなることくらい、あるじゃん。たいしたカネじゃないけどさ。
 でも寄付ならだいじょうぶ。寄付って、人にカネをやりたい衝動をきれいに濾過する装置として整えられてるんじゃないかと思う。相手をどうこうしようという気がなくても、大人になって今日明日のごはんの心配がなくなると、世界にカネを還元したくなるんだよ。そんな桁外れに稼いでいなくても。
 考えてみればおかしなことだよね。わたし、博愛精神を持つ立派な人間じゃないのに。あなたは知ってるよね、わたしがわりとろくでもない人間だってこと。昔から、やさしい人間なんかじゃなかった。今だって、ふだんは自分と自分の家族のことしか考えてない。お金はあればあるだけいいと思ってる。無駄遣いも大好き。
 それなのに、稼ぎがぜんぶ自分のものだと思うと落ち着かない。そういうのって、へんなことじゃないと思う。寄付したい気持ちがあるのはぜんぜんおかしなことじゃないよ。わたしも夫もやってる。うん、まわりにけっこういるでしょ。わたしのまわりにも多い。日本に寄付文化がないなんて嘘だよねえ。額がすくないからかな。
 マキノの今までの寄付はだいたい単発でしょ。継続するとだいぶ気分、ちがうよ。使われ方も自分の趣味に合ったところ探せるし。わたし?わたしは海外の子どものためのやつ。夫は交通遺児のための。そういえばなんでふたりとも子ども相手なんだろう。うちの子、元気だし、子ども大好き夫婦ってわけでもないんだけど。うん、よその子にたいした思い入れはない。すくなくともわたしは。
 わたしは思うんだけど、生きてるって、なかなかすごいことだよ。わたしたち、放っておいたら、死ぬんだから。毎日まいにちごはん食べて眠って誰にも殺されずに生きてるって、びっくりするようなことだよ。しかも、自分が選んだ仕事をしたり、誰かと一緒にいたり、いろんなとこ行ったり、あれこれ楽しんで、なんなら子ども産んで育てたり、してる。もう、あきれる。自分の運の良さに。世界がわたしを甘やかしていることに。毎日びっくりしてたら疲れるから、当たり前ですよねって顔してるけど。
 だから、自分が稼いだお金でも、どこかに返したくなるんじゃないかな。わたしが生きて稼いでるのって、どう考えても「たまたま」だもん。たまたま運が良くて、死んでないだけだもん。それを当たり前だと思うなんて、どう考えても不合理でしょう。その落ち着かなさみたいなものに、寄付はよく効くよ。
 あ、いるよね、寄付やボランティアの話題になるとすぐ偽善者ーっていうやつ。たいそういろんな角度から否定してくるよね。個人のささやかな寄付なんか役に立たないとか、寄付先の団体がどう使っているかわからないとか、その団体は悪徳だとか、働いて税金払ってるのがいちばんいいことだとか。そういう連中は放っておけばいい。わたしはわたしの趣味で寄付してるだけで、他人に強制なんかしてない。それなのに、なにかのひょうしに話題になっただけで、たいして仲も良くない人間が執拗に否定してくるの、意味がわからない。わたしの偽善や不見識が許せないほど潔癖な精神を持っているのなら、わたしみたいな不潔な人間にかかわらなければいいのに。
 なるほど、他人にカネをやるほど余裕があるのはなにかずるいことをしてるからだっていう感覚があるんじゃないか、と。そうかもしれない。でも、わたしは意地悪だから、もっとひどいこと考えてる。あのね、わたしの寄付や消費に文句言うやつって、わたしが女で結婚してるから、言うの。余裕があって結構ですね、旦那さまの理解があるんですね、とか言ってくるんだから。わたしの寄付とわたしの夫になんの関係があるんだ。そいつの住んでる世界では妻になったら家計外の自分のお金もいちいち夫の許可を得てから使うのか。ろくな世界じゃないな。
 自分より格下だと思いこんでる相手がそうでないようなことしてると気に入らない、それだけなんだと思う。そんな人間、放っておけばいい。わたしたちはわたしたちの欲求に応じて寄付をすればいい。そうしていい気持ちになればいい。ぜんぜん悪いことじゃないから、安心してすればいいんだよ。

人にカネをやるとはどのようなことか

 彼はたいそう軽蔑したまなざしで私を見下ろし、キモ、とつぶやき、それから、やるの、と訊いた。エサ、やるの。私は先ほどから地面にかがみこみ、でれでれと猫をなで、気味の悪いことばづかいで話しかけている。そのようすがキモいことはまったく否定しない。
 猫は三頭いる。二頭は気が向かないと私のところには来てくれない。一頭は顔見知りであればたいていの人に愛想がよい。猫たちは町工場のガレージで飼われていて、車の通らない細い道と、その道をはさんだ向かいの神社までが行動半径だ。工場のあるじと顔見知りであれば猫をかまってもよい。私をふくむ近所の人間はなんとなくそう思っている。
 エサはやらない、と私はこたえる。飼い主が与えているし、だいいち、動物にエサをやるというのはよほどのことだよ。私はそう思う。人にお金をあげるのと同じだ。ちょっとかまってほしいからって、ほいほいあげるものじゃない。ほいほいあげる人もいるとは思うけど、私はそうじゃない。
 彼はちょっとうなずく。それからつぶやく。マキノにしてはいいことを言う。ないと生きていけないんじゃないかと思うようなものをそのまんまやるのはたしかに、よほどのことだ。たとえエサが余っていても、ばらまくのはどうかと思う。でも、考えてみればなんで「どうかと思う」なんだろう。根拠はないよなあ。相手をスポイルするから?スポイルのなにがいけないんだろう。いつも相手の精神的成長を願うほど高尚な精神なんか持ってないのに。
 愛想のいい猫は愛想をよくしてもエサが出てくるわけじゃないことを知っている。だから私は躊躇なしにこの猫をかまうことができる。かまいたい者とかまわれたい者があるだけの単純な間柄が、私は好きだ。何かを媒介せずに欲望同士がじかに手をつないでいるような関係が。かまわれたくない猫が私を無視し、かまわれたい猫だけが私に寄ってくるような関係が。
 かまったりかまわれたりするのは、できるだけ仕事でないほうがよい。私はそう感じる。もちろん人間は、それをお金でやりとりする。しばしばする。そういう職業もあるし、それ以外の能力をやりとりしているはずの仕事のなかで、実は相手をかまうことに対して報酬が支払われている場合もある。私的関係においては言うまでもない。驚くほどあからさまに、人はお金を払って、人にかまってもらう。お金のために人をかまう。
 その善し悪しを判断する根拠を、私は持たない。私がそれを避けたいのは個人的な好悪の情で、それ以上でも以下でもない。人をかまってお金をもらう仕事は少しも悪いものではない。自分がその客になることを好まないだけだ。あるいは、単に私にとって快いかまいかたをしてくれる職業人がすくないというだけのことかもしれない。
 でもエサをやりたくなることはあるだろう、と彼が言う。僕はあるね。継続性も責任もなしに、ただその場で自分をかまってほしいばかりにエサをやるのって、好きじゃないけど、魅力的じゃないか。確実に気持ちいい。気持ちよくてリスクがない。やっちゃいけないという法もない。やってくれと要求されることだってある。相手を助けるように見えることだってある。そういうのに乗っかるのは、すごく気持ちがいいことじゃないか。
 猫はごりごりと私の脚に頭をこすりつけ、私の膝に乗った。私はますますでれでれして、それから、そりゃそうだよ、とこたえた。エサをあげてかまってもらうのはかんたんでいい気持ちだよ。それがあんまり魅力的だから、警戒してるんだよ。はじめから興味がなかったら忌避感なんか持たない。私だって、エサ、やっちゃう。めったなことじゃやらない。でもほんのときどき、やっちゃう。このゲス野郎がって、自分を罵りながらやる。どこがどうゲスなんだかわかんないけど、私は、エサやってかまってもらってる自分を、ゲス野郎だと思う。でもねえ、あれって、やってるときはよくても、あとからなんだか、いやな気持ちがしてねえ。その場でいい気持ちがすればするほど、あとから苦々しくなってしまう。相手のことをまじめに好きなら、エサをやるのはみじめなことだよ。好意には下心じゃなくて好意がほしいものだから。でも、相手をその場かぎりの消耗品みたいに感じていたとしても、エサで釣ったらいやな気持ちが残る。どうやら私は、エサでかまってもらうことが、どうあっても嫌いみたいでねえ。それがどうしてかは、まだよくわからないの。

飛び込み営業スクリーニング

 最初は、電話とか要らないと思ってた。固定電話。要らないじゃん。僕は要らない。でもうちの会社には要る。ファックスもある。この業界でもいまだにファックス使う人が残ってる。だから固定電話なんかもちろん、ぜんぜん現役だった。自分を標準だと思っちゃいけないね。
 うん、もう慣れた。うちの営業はけっこうな確率で社外にいるし、すごく小さい会社で、僕あての電話もけっこう多いし、事務が取る前に僕が取ることもある。でもねえ、最近セールスが増えて、うん、飛び込み営業の電話バージョン、どこかからうちの会社の電話番号を手に入れてかけてくる。数としてはまだそんなにひどくないから、初見の番号からの着信はそのまま取ってる。
 飛び込み営業だったら、電話とってすぐにわかる。「電話を切らせないための話しかたマニュアル」みたいなものがあるのかな。会社名を早口でさらっと言って、自分の名字だけを名乗る。さも当たり前のように。うちと取引があるところかな?って思わせる。僕はもう慣れたから「あ、この人、うちの会社のだれとも関係ない」って、なんとなくわかるけど。
 「荒木社長をお願いします」って、たいていは言う。「はい、わたくしです」って僕は言う。その瞬間に相手はたいてい、ばーっと話しだす。それをまず止める。「お名前とご所属をもういちどおっしゃってください。わたくしが直接名刺をお渡しした方でしょうか」って訊く。それにかぶせてくる人はだめ。営業じゃなくても、あらゆる場面でだめ。友だちにもなれない。かぶせるやつはだめ。かぶせていいのは「火事だー」みたいなのと、口答えを許さない権力関係にあってそれを行使するときだけ。そうじゃない状況でせりふをかぶせてくるやつはだめ。話すのがコミュニケーションじゃなくて陣取り合戦になってる人間だから。ことばの内容じゃなくて主導権がだいじな人間だから。しょうがないからこっちも、「わたくしの回答を聞いていただけないようですから、お電話を切ります」って言う。
 そしたら、僕が「切ります」を言い終わるまえにガチャ切りするやつがけっこういる。もうね、そういう競技か、っていうくらい早い。だから「かぶせるやつ」はだめなんだって僕は思う。思ったとおりにしゃべらせてくれないからガチャ切りなんて、僕のこと人と思ってないからすることだよ。対面で話していても、そういう人間はいる。そいつらは僕を自動販売機だと思ってる。百五十円入れてペットボトルが出ない、だから、蹴る。そういう感覚。しかも百五十円入れてない。電話するだけでペットボトル的なものが出ると思ってる。出ねえよ、そんなもん。同じ商売人として心の底から軽蔑する。商売は人間同士のすることだ。他人を自販機だと思ってるやつは最終的に損する。そういうやつが仕切ってる会社や店はつぶれる。短期的にうまくいってるように見えてもつぶれる。
 つぶれる前に何度も電話がかかってくると不愉快だから番号と社名を登録してある。「だめ営業(社名)」っていうタイトルで。僕はそれを「よほどの事情がなければかかわりあいにならない会社リスト」として使う。社名背負って赤の他人に自分の話を聞かせたんだ、そのふるまいが会社のふるまいとして判断されるのは当たり前だ。
 そこまでひどくなくても、名刺交換したか否かにのらりくらりと答えないやつもだめ。社内で名刺を回すこと自体をだめだっていうんじゃない。隠そうとするのがだめ。それが恥ずかしいことだって思ってなかったら、「弊社の誰それから荒木さんの名刺を預かりました」って言えばいい。そしたら僕は目の前の魔法の箱でその人の名刺を検索するから。うん、ぜんぶ入れてある。他人を経由してかかわりを持とうとするなら、経由した他人のことをちゃんと言う。これも商売以前の問題。
 僕の電話番号を知った経緯を隠そうとしてる場合は、やっぱりだめ。あのね、人に言えないようなことを日常的にやってると、自尊心が少しずつ、不可逆的にそこなわれていくんだよ。そして後ろめたさによって少しずつ疲弊して、能力がじわりじわりと割り引かれていくんだよ。それが初対面であからさまに見えて、一方的に話を聞かせようとする相手なら、かかわりあいにならないほうがいい。たとえ話を聞きたい分野が話題でも、そいつからは聞かなくていい。ほかの人を探したほうがいい。代わりを探してでもそいつを避けるだけの価値はある。
 飛び込み営業でつくった基準だけど、僕はほとんどすべての場面で同じようにスクリーニングしてる。そのほうが快適だから。

三十代の余生

 交通事故に遭った。乗っていた車が凍った高速道路でスリップした。前後左右に大型のトラックが走っていた。制御をうしなった自動車の動きを後部座席から見た。その数秒のあいだ、運転手は前後左右をみてより助かる確率が高い方向にハンドルを切っていたのに、その他の席の二名も(あとから聞いたら)助かる方法をそれぞれが必死に考えていたのに、わたしは、ああ、楽しかったな、と思った。楽しかったな。そのほかにはなにも考えなかった。
 もちろん、わたしたちは生き延びた。全員が無傷にみえた(のちに一人だけが軽傷を負っていて、残りび三人は放っておけば消えてしまう痣だけですんだとわかった)。わたしたちはひとまずの安全を確保し、たがいのからだに軽く触れて身の安全をたしかめた。わたしたちは生きていた。わたしももちろん、生きていた。それだから、みんなと手分けをして事故の処理をした。他の車を巻き込むことがなくてよかったと思った。それから数ヶ月、その話はしなかった。直後にそんなことを言ったらいかにもほんとうらしすぎて、夫が動揺するだろうから。
 そろそろいいかと思って話すと、その話は事故のすぐあとに聞いたと夫は言った。それなりにショックだったんじゃないかな、記憶がところどころ欠落してるってことは。欠落なんかしてるかなあとわたしは思った。わたしは事故の状況もその後のことも克明に覚えているのに、夫に話した場面だけを忘れてしまったのだろうか。
 ともかく、と夫は言った。ともかく、とわたしも言った。わたし、自分は生き汚くてしぶとい人間だと思っていたけれど、意外とあっさりしてたみたい。もっと貪欲だと思っていたのに、わりと、人生に満足してるみたい。あのね、わたし、だからもう、たぶん、だいぶ前から、余生なの。ことばを切ったわたしを夫はながめまわし、鼻で笑った。なあに言ってんの、子どもまでこしらえておいて。それを聞いて、今度はわたしが鼻で笑った。小学校に上がったらもうそんなに手かからないよ、だいいちわたしは、自分がいなくなってもあなたが立派に育ててくれると思って産んだんだよ、そうじゃなきゃ産まない、親であればぜったいに生きていたいと思えるなんてあなたの幻想だよ、そうじゃない人だっているんだよ。
 ふうん、と夫はつぶやき、めがねをはずして呼気をふきかけ、シャツの裾で拭いた。きみのそれは、頭で考えた結論じゃないからねえ、きみとしてはもっと生き汚いのが理想だったけど、高速で事故に遭って「死ぬんだな」と思った瞬間にはそうじゃなかったわけだ、それじゃあしょうがねえや、楽しい人生だったならよかった、ささやがら僕も役に立ったんだと思える。余生、とわたしは言った。きみの余生、と夫はこたえた。
 生き延びることが人生の目的だった。わたしはかつて過酷な環境にあって、生き延びるためならなんでもしようと思っていた。わたしは、運が良かったと思う。手に入れたくて手に入らないもの、強くそばにいたいのに遠ざかってしまったものは、結局のところなかったように思う。わたしは、来る日も来る日も屋根と壁のある安全な部屋で眠り、まともなものを食べ、誰にも殴られず、自分で選んだ仕事をして搾取されることもなく、気の合う人と暮らして、子まで産んだ。その子も夫もおおむね健康だ。世はすべてこともなし。
 それなら人生これからかというと、まったくそうではないのだった。わたしはたぶん、退屈していた。生き延びることが目的の人間が生き延びてしまったら、あとはなにもないのだ。老後の生きがいを探して歩く退職者はこういう心持ちなのかなと私は思った。退職までにはまだ二十数年、どうかすると三十年ちかくあるけれども、退屈はすでにわたしの全身をくまなく覆っていた。手をのばしてもただずぶずぶと退屈ばかりに触れるような厚い退屈を、わたしは感じていた。忙しくないのではない。することがないのではない。そんなのはいくらでもある。忙しい忙しいと言いながら安全であることが、退屈なのだ。若いころほどではないにせよときどき徹夜もあるような職にあり、家ではこまねずみのように台所に立ち子を抱きかかえ、ときどき夫の話を聞いて、それでもどうしようもなく、わたしは退屈なのだった。
 余生、と友だちが言った。余生、とわたしはこたえた。わたしの話をひとわたり聞いて友だちは、いいよ、とちいさい声で言った。余生でも、いいよ、死ぬかなと思ったときにじたばたしなくても、いいよ、でもなるべく、生きていてほしいよ。